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Cooper と Meyer の、リズムと拍子に関する議論

2008年10月4日 土曜日

クーパーとマイヤーの『音楽のリズム構造』(1960)は、よい訳者にめぐまれたこともあり、この手の書物の中では、日本でも比較的よく読まれているほうではないかと思う。だが、その議論には根本的な問題があるとぼくは思う。

「リズムと拍子の相互作用は複雑である。一方では、ある楽曲の客観的な組織づけ─時間的な諸関係、旋律的・和声的な構造、強弱表現法(デュナーミク)など─がアクセントと弱拍(非アクセント)を作り出し、両者の関係を規定している。そして、これらアクセントと非アクセントがなんらかの規則性をもって生じたときに、拍子を特定するように思える。この意味では、リズムを生み出す諸要素が、拍子をまた生み出すのである。」 (123)

リズムやアクセント構造が拍子と一致することは少なくない。つまりリズムやアクセントが拍子の構造を支え、規定する要素として機能しているケースは多い。そのことは疑いを容れない。問題は、拍子がリズムやアクセントから独立し、対立しつつ存在することもありうるということである。

「他方、拍子は明らかにリズムからは独立して存在することができるが、これは、拍子がなんらかの確定的なリズムの組織づけなしに存在できる、という意味だけでそう言えるのではない。リズムの組織づけが、確立されている拍子と衝突したり、それにさからって働くこともありうる、という意味でもそう言えるのである。」(同所)

このようにクーパー&マイヤーは、拍子とリズムが対立し衝突しうることを確認し、その諸現象を記述していくのだが、拍子がリズムやアクセントの支えなしにいかにして存立しうるのかに関する考察はない。拍子がひとえにアクセントやリズムに依存しているのであれば、そのリズムが、書かれている縦線や拍子記号と食い違っている場合、拍子はただ無化されているだけで、リズムに「衝突」したり「対抗」したりすることは不可能なはずである。衝突や対抗が「感じられる」のであれば、拍子は別の原理ないし基盤によって生きているのだ。

この点をクーパー&マイヤーはまったく見ていないことがよく分かるのが、上の引用のすぐ後の、シューマンのピアノ協奏曲の第3楽章に関する次のような議論だ。

「しばしば作曲家は、演奏家が真の拍子の構造を解釈し、またそれを聴き手に伝達してくれることを当てにして、拍子記号と小節線をいくぶん無頓着に──単に便利な道具として──使っている。[引用者注:そういう作曲家もありえないではない。]たとえば、シューマンのピアノ協奏曲(イ短調)の終楽章は、楽章を通して3/4で書かれているが、80小節めで入ってくる旋律は、第一次レベルでは非常に強力な2拍子であり、したがってそこではもはや、拍子の構造を実質的には表わしていないことになる。この場合、それ以前の3拍子が、演奏家ならびに聴衆の心と運動反応の中で引き続いていることから、音楽はいくぶん緊張を孕んだ──ヘミオラのような──ものになっている。そしてまた他方で、新しい拍子は、それ以前の6/4(2×3/4)ではなく、3/2(3×2/4)のようになっている。」(124)

そうだろうか。通常第二主題と見なされるホ長調のこの部分、2小節組の各1小節めの第一拍の四分休符は、第一拍ゆえの「重さ」(ここではとりあえずこの語を使っておく)が感じられなければならない。これはあくまでも「弱起」の音型なのだ(シューマンの、バッハ、ヘンデルやその当時の舞曲の研究の影響が指摘されている)。各組2小節めの四分休符は、中間拍であるために逆に「軽い」。この箇所を2拍子だと見なしてしまえば、先にクーパー&マイヤーが述べていたはずの「リズムと拍子の対立」は無化されてしまう。たしかに、クーパー&マイヤーは、この箇所以前の3拍子の言わば「残像」との間に対立・緊張の効果を見ているようだが、緊張はこのフレーズ自体の内部にあると言うべきである。単純な2拍子として弾き飛ばすなら、まさにシューマンが意図したであろうその緊張を、雲散霧消させてしまう。そもそも、シューマンがここで本当に2拍子を望んでいたならば、改めて2/4の拍子指示を書き込むことができたはずである。シューマンがそうはしていないことを、クーパー&マイヤーは単なる「手抜き」だと言っているわけだ。シューマン自身が評論の中で(吉田秀和の注釈によればとっとと死ねという意味で)十字架を謹呈したマイヤベーアや、あるいはロッシーニあたりならともかく(いや、彼らはそもそもこんな音楽は書かない)、シューマンにそれはないのではないか。

クーパー&マイヤーは挙げていないが、シューマンのきわめてよく似た書法は、たとえば交響曲第3番の冒頭にも見られる。この旋律を、シューマンはなぜ3/2ではなく3/4で書き出したのだろうか。これは曲の劈頭であり、ピアノ協奏曲でクーパー&マイヤーが想定しているような、それ以前の部分の「残像」はあり得ない。もちろん逆に、3/2かと思って聴いているといつの間にか──というより7小節めからだろうが──3/4になる、という「効果」は考えられないではない。しかしその場合は対立・緊張ではなく、単なる曖昧さと言うべきだし、「効果」としてはかなり限られたものになるだろう。何より、クーパー&マイヤーがピアノ協奏曲で考えているような「手抜き」の記譜であるなら、シューマンは最初から3/2で書き、ここで明らかに3/4となる7小節め以降をそのまま3/2で書いたのではないだろうか。

われわれの拍節理解(両端拍がわずかに長くなり中間拍がわずかに短くなる)によれば、ここでシューマンがやっていることは明快に説明がつく。第1小節3拍目から第2小節1拍目へとタイで繋がれたヴァイオリンと木管のB(変ロ音)は、二つの両端拍の上にあるがゆえに、長く、「重く」なる。この部分を3/2拍子として「解釈」してしまった場合、このBは中間拍(第2拍)となり、短く、「軽く」なり、またそれによってこのフレーズ全体が恐ろしく軽快なものに性格を変えてしまう。「ライン」の愛称で知られるこの交響曲は(これはシューマン自身の命名ではないようだが、この曲が作曲家のライン河畔、デュッセルドルフへの赴任を契機として書かれていることは事実である)、3/4であるからこそ、ライン川(シャフハウゼンではなくデュッセルドルフ辺りの!)の悠揚とした流れが想起されもするのであって、3/2ではとんでもない急流になってしまう(そういう演奏もまま耳にするが)。この曲は3/4 でなければならないのだ。