拍子感覚のちがいを体感するには

2011年4月28日

以前に、村治佳織さんのこんな発言を引用したことがあります。

村治:[...] 私は二十歳のころ日本舞踊を半年やりました。面食らったのは拍子の取り方が上から下に落ちるような感じだったこと。クラシックは下から突き上げる拍子の取り方をするのです。その感覚がうまくつかめませんでした。

[日本経済新聞 2007.1.1 元旦第三部2面 新春対談「今に生きる東西の古典 伝統と新風で受け継ぐ」村治佳織、市川染五郎]

「上から下に落ちる」と「下から突き上げる」。これは「分かる人には」すごくよく「分かる」のですが、そうでない人に説明するのは難しい。それをどう説明したらいいのか、ずっと考えていたわけです。で、最近思いついたことは、やはり動作を通じて身体で感じてもらうのがよさそうだし、それは可能なのではないかということです。二通りの動作を、それぞれ「日本的」な拍子感覚と「クラシック的」な拍子感覚でやってみます。

1a. 指揮のような動作・日本編
いったん両腕を下に垂らします。肘から先を、水平より少し上ぐらいに楽に上げてみてください。手のひらは、そうですね、下に向けておきましょうか。そこから、ほんの少し上に向かってのテイクバックが必要かもしれませんが、腕全体がまっすぐ下に伸びるくらい、両脇に振り下ろして、また元の位置に降り戻してください。振り下ろした時、上体も自ずと少し前屈みになるのに任せます。それが「日本的」な拍子です。振り下ろしたところが拍の頭になります。
1b. 指揮のような動作・クラシック編
今度は、同じ出発位置(水平より少し上の位置)から、ちょうど水平ぐらいの位置へ下向きに叩く動作をして、それからその反動を使うようにして、肘から先を上に振り上げ、もう一度水平位置まで叩きおろして、やはり反動で自然に元の位置に戻ってください。手首の柔らかいスナップを加えるのもいいでしょう。それが「クラシック」の2拍子です。この場合、水平に叩くところが拍の頭になります。元の位置から水平位置を3回叩いてから振り上げれば、3拍子になります。
2a. 手を叩く動作・日本編
別の動作にしてみましょう。先ほどと同じようにいったん腕を垂らし、肘から先をほぼ水平よりちょっと上に上げ、今度は手を垂直に、手のひらが内側に向かい合うようにします。そこから、肘より先を、おへそのあたりの高さに向かって振り下ろして手を打ち合わせ、また打ち合わせたときの軌道を逆に通って元の位置に戻します。この場合も、振り下ろした時、上体は自然にやや前屈みになるはずです。それが「日本的」な拍子です。
2b. 手を叩く動作・クラシック編
同じ位置から、今度は、ほんのわずか上に向かって、手を打ち合わせます。打ち合わせた手は、先ほどとは違って、左手は左回りに、右手は右回りに、円を描くようにして(逆回転にしてしまうと「日本式」に近づきます)、繰り返し打ち合わせることになります。打ち合わせる場所は胸か首あたりの高さです。これが「クラシック」の拍子です。2回ごとに叩いたあとの円を少し大きく取れば2拍子、3回ごとなら3拍子、4回ごとなら4拍子(以下5拍子6拍子…と同じ)です。

このようにすれば、「違い」をなんとなく体感していただけるのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。少なくとも取っ掛かりにはなりそうです。オーケストラのメンバーに、こうした動作をやってみてもらうことも考えられます。しかしこれでも多少苦しい説明ではあります。「日本的」とした動作でも、ほんの少しアレンジすれば、「クラシック的」な拍子もまったく表現不可能ではないし、その逆もしかりだからです。

さらにまたこの違いを身体動作抜きで言葉にしようとすると、きわめて難しいことになります。まだまだ考えなければならないことがありそうです。

シャーフベルク Schafberg 390m

2011年4月18日

アパートにも入れず、ホテル住まいを続けて停滞したままの4月17日日曜日、また天気は素晴らしいものになった。午前、シャーフベルクに出かけることにする。正味一時間、標高差150mほどの軽い歩き。

シャーフベルクというと、ザルツカンマーグート地方の、赤い登山電車で登る、切り立った1783mの山が有名だが、もちろんそれとは別物。「ウィーンの森」の端にある390mの丘だ。

Plötzleinsdorf

ショッテントーア Schottentor までも市電で行こうと思ったのだが、ウィーン国際マラソンとかで、リングは全面交通規制。市電まで止まっていた。シュヴェーデンプラッツ Schwedenplatzまで歩き、地下鉄を一駅ずつ乗り継いで、ショッテントーアの地下のループから市電の41番に乗る(このあたりの市電はたいてい始発終着駅がループになっていて、運転手が先頭から最後尾に移動したりする必要がない)。41番は、すぐに地上に出て、ウィーンの市街をほぼまっすぐに西北西方向に向かう。その終点ペッツラインスドルフPötzleinsdorfで下車。

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駅のすぐ先から、ペッツラインスドルフ公園 Pötzleinsdorfer Parkが広がっている。シャーフベルクの北側の緩斜面に広がるこの緑地は、18世紀末から、銀行家のガイミュラーが整備したもので、1949年から市立公園として開放され、ウィーンでももっとも美しい公園の一つと言われている。公園に囲まれた元の城館は、現在はシュタイナー学校となっている。


Plötzleinsdorfer Park

小鳥の声が降り注ぎ、新緑が鮮やかな公園の中をゆるゆると西に向かう。ジョギングしている人間がやたらに多い。

Plötzleinsdorfer Park


少し南に向かって登り、また西に歩くと、プンツェット門 Punzettor と呼ばれる出口。外のすぐそばにシュタイアーシュテックル Steierstöckl という食堂がある。

Punzettor

門を出て、公園の柵の外側を左に、ゆるやかに登って行く。



Waldschulklasse

間もなく尾根の上に出る(公園の中をここに直接出てくる道もある)。ここから右に広く平坦な山道(ここから土の道)をたどって行くと、シャーフベルクの頂上。林の中の広場という感じで、あまりぱっとしない。広場には森の教室 Waldschulklasse と名がついていて、説明板とベンチが並べられている。



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そのまま少し進んでから、左へ、南へ、斜面を下りる細い道に入る。この南へ下りる道はいく筋もあるが、どれでも大差ない。樹林の中の道を下って行くと、突然視界が開けて息をのむ。南向きの斜面一帯が、所々に灌木を散らした草原(Wiese)になっていて、ウィーンの街が望まれる。街よりも、すぐ南に連なるホイベルク Heuberg、ユビロイムスヴァルテ Jubiläumswarte といったあたりの丘が、淡い緑の広葉樹の中に黒っぽい針葉樹をほどよく混ぜて、美しい。草原には所々、桜が花を咲かせている。桃かと思われる花もあった。

シャーフベルクはその名(=羊山)の通り、元は羊の放牧場だったらしい。


草原を横切って真下に下って行くと、下の方にも水平に走る道があって、それを東にたどると、まもなく住宅も並ぶヨーゼフ・レードル・ガッセ Josef-Redl-Gasse という名の舗装道路となる。やがて42Bのバスの、これもループになった終点駅があるがやりすごす。カーブしながら下って行く道の左手は公共のプール施設 Schafbergbad だが、この季節はもちろん営業していない。あたりは元々シュレーバーガルテン(郊外の小さく区切られた家庭菜園・果樹園)が盛んだったところで、今では簡素な家に人々がそのまま住み着いている。

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プールの正面も小公園になっていて、その中を通って下ると、チャルトリスキ通り Czartoryskigasse という名の広い道路になる。それを真っすぐ東へ少し下った所に、シュッツハウス Schutzhaus という名の食堂がある。すでに昼近かったので、グリューナー・フェルトリーナ一杯と、豚のシュニッツェル(オプションでコケモモのジャム付き)、コーヒー一杯を注文する。戸外のマロニエの下の席というのは、このあたりではありふれているけれど、久しぶりだし、気持ちがいい。



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チャルトリスキ通りを少し戻り、左に真っすぐ下るヒンメルムッター道 Himmelmutterweg をたどる。その途中から左手は意外な広さのぶどう畑になっている。ザルツブルクの聖ペテロ・ベネディクト修道院の所有らしい(参考)。すぐ下の村のドルンバッハ教会脇にこの畑のワインを飲ませるホイリゲがあり、毎月一週間だけ開けているということだが、確認できなかった。

ヒンメルムッター道を下りきると、市電43番の通る車道になる。なおも左手にぶどう畑を見ながらしばらく歩き、道が右に曲がって少し登った先、Dornbacher Straße の駅から、市電に乗って、ショッテントーアに戻る。この43番は、ショッテントーアで、行きに使った41番のループの真上の地上にぴったり重なるように作られたループに入る。

再び地下鉄を乗り継いで、1時半頃、宿に帰り着く。

三日目。

2011年4月7日

シュテファン大聖堂に面したストリート・カフェでハントケの『ドン・フアン』を再読する。。既に夏時間で、六時半近いのに明るい。目の前を、北に、南に、人々が歩いて行く。赤いジャケットを着た車椅子の老女が高速で走り抜けて行った。修復中の大聖堂の囲いには、それが隠している建物の部分の画像がプリントされていて、巨大な騙し絵になっている。ケルントナー通りの入口の方からは、大音量のロックが聞こえてくる。カフェのまわりの客は、ドイツ語で、ハンガリー語で、日本語で、てんでにしゃべり合っている。

まだこの街のリズムに身体が馴染んでいないような感覚。

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ブレーメンの音楽隊

2011年2月14日

住まいのわりあい近くに、「ブレーメン」という小さな楽譜店があります。いつも感じの良い女性の店員さんが一人で店番をしています。店の名前は、おそらくグリムの「ブレーメンの音楽隊」の話からきているのでしょう。



ロバ、犬、猫、鶏、いずれも高齢で飼い主の役に立たなくなった4匹の家畜たちが、殺される運命を避けて、ブレーメンの町を目指す。「死ぬよりゃましなことはどこへ行ったって見つかるさ」という名文句は、作家のカール・ツックマイヤーが引用して使っている。現代のブレーメンの町の真ん中の広場、市庁舎脇には、1953年に建てられた4匹のブロンズ像があって、町のシンボル的な存在になっています。



でも、ご存じかと思いますが、「ブレーメンの音楽隊」はブレーメンには行っていないし、当然、音楽隊にも入っていない。

ブレーメンに向かう途中の森で夜を迎えたとき、4匹は偶然に「盗賊たち」の家を見つける。中をのぞくと盗賊たちが豪華な夕食の最中。この悪い連中(盗賊ではありません、動物たちです)は悪知恵を働かせて、盗賊たちを脅かして出て行かせ、まんまとご馳走にありつく。一度盗賊の手下が戻ってくるも、見事撃退して、そのままそこに居着いてしまい、安楽に暮らす。めでたしめでたし。と言うか、かわいそうな盗賊たち…。と言うか、ブレーメンと音楽隊はどこへ行ったんだあ。



要するに、市民でも農民でもないアウトサイダー同士の分捕り合いの話なんですね。

ブレーメンも、音楽隊も、動物たちを集結させ駆り立てる幻想にすぎない。そもそも、もともとの話にはブレーメンという固有名はなかったらしい。それがあとで付け加えられた。だいたい、高齢で働けなくなった動物たちが、ブレーメンでなら音楽隊に入れてもらえると考えるところが、当時のブレーメンの音楽のレベルに対する、周囲からの評価を反映していると考えられています。でも今のブレーメンの人たちはそんなことにはお構いなく、この話に愛着を抱いているようです。



ではクイズ。グリムのテクストでは、ロバと犬は、音楽隊に行ってそれぞれ何の楽器を演奏することになっていた、というか、演奏するつもりになっていたでしょうか。



正解は、ロバがリュート、犬がティンパニです。蹄でどうやってリュートを弾くんだか。(多くの翻訳では「ギター」になっています。)猫はセレナーデ(ドイツ語で「夜の音楽」Nachtmusik)が得意、鶏も声を買われており、いずれもヴォーカル志望だったと思われます。



ブレーメンの音楽隊、ドイツ語
おおまかな日本語訳

Wikipedia ドイツ語版の Bremer Stadtmusikanten
日本語版の「ブレーメンの音楽隊




人は拍節感を持っている

2009年11月3日

多くの奏者が自ずと拍節感を備えていること、アンサンブルを練っていく上で拍節感を自覚的に捉えることが鍵になってくることなどなどを、具体的な例によって示すことができるように思う。

モーツァルトの交響曲第31番ニ長調「パリ」終楽章。

Mozart Sinfonie Nr.31 in D, 4.Satz

Mozart Sinfonie Nr.31 in D, 4.Satz


冒頭から8分音符の走句を持たされるセカンドヴァイオリンにとって悩みの種の楽章。冒頭から8小節間、セカンドヴァイオリンが8分音符で走り回る間、ファーストヴァイオリンは4分音符主体の断片を沿わせていき、9小節目でトゥッティになる。ここで特に問題になるのは、7小節めから8小節めの移り行きである。ここがなぜか合わない。いや、なぜかではなく、実はその理由ははっきりしている。この8小節フレーズ、セカンドヴァイオリンは8小節めの第1拍ですでにトニカに入ってしまうのだ(その前はcisの導音である)。そのため、7小節めの終わりで「自然な」アウフタクト的なわずかな伸びが生じる。そのため、順当に8小節目でドミナントから9小節目のトニカに向かうファーストヴァイオリンとずれができてしまう。本来新たなフレーズが始まるのは9小節めからである。だからここで「縦の線を揃える」ために必要なことは、セカンドヴァイオリンが、8小節目第一拍に入るときにエイやっという感じにならず、ここはがまんしてさらっと通り過ぎ、9小節目への入りをアウフタクトとしてしっかり感じ取ることなのだ。

このことの意味をしっかり見極めよう。トニカにエイやっと入る感覚、つまりカデンツの感覚を、奏者たちは自ずと持っており、かつ(ここが重要なところだが)それが拍の伸縮と結びついているということだ。

もう一つの例。これもモーツァルト。交響曲40番ト短調、第1楽章。35-36小節。
<a href="http://dme.mozarteum.at/">NMA Online </a>より引用。
2拍子のこの楽章こうした部分は特に、1拍めよりも2拍めのほうが自ずと(もちろんわずかに)長くなっている。たいていの人はそのように〈正しく〉弾いていて、しかも自分がそう演奏していることに気づいていない。このことに気づかされたのは、これも中クラスの某アマオケで、この部分のヴァイオリンと低弦がどうしても合わないということがあったからだ。よくよく観察してみると、あまり音楽的にセンスがあるとは言い難いおじいちゃんチェロが、二つの二分音符を完全に均等な長さで演奏していて、自分は正しい、と、頑としてゆずらない。ヴァイオリンの連中は、正しく演奏していたのだが、自分たちのやっていることを自覚的に捉えていないから、このおじいちゃんをどうすることもできなかった。

ここでも重要なことは、少なくともこの部分のヴァイオリン奏者たちは、無自覚に、正しい拍節感をもって演奏していたということだ。(そしてそのことを僕に教えてくれたのがあのおじいちゃんだったということだ。)

Bonn: 「音楽家地区」とシューマン・ハウスの思い出

2009年10月30日

およそ十年前、最初の子供が生まれたばかりの頃、ボンに再び1年間住んだ。住まいは、中央駅の裏手の、Musikerviertel 音楽家地区と呼ばれるあたりに見つけた。弦楽器工房が一軒あることはあるが、別に音楽家が集住しているとか、そんなことはまったくなくて、たんにその辺りの通りの名前が、作曲家の名前を冠するものが多いだけだ。(日本の住所は「ブロック」制だが、欧米の住居表示は「通り」が基準になる。)3、4階建ての集合住宅の連なる、まあ、「閑静な住宅街」だったかと思う。diewohnunginbonn

住んでいたアパートは、ヴェーゼンドンク通りとリヒャルト・ヴァーグナー通りの角にあった。アパートの、それもまさにわれわれが住んでいた1階の部屋の外壁には、マティルデ・ヴェーゼンドンクが、晩年の一時期、ここに住んでいた旨を記したプレートが打ち付けられていた。
大きな地図で見る

このあたりの街路名がいつ整備されたのか分からないが、おそらく、ヴェーゼンドンクが住んでいた場所から北にのびる通りをヴェーゼンドンク通りと名付け、それに直交するやや長い通りをリヒャルト・ヴァーグナー通りと名付け、ついでに付近の通りにも音楽家の名前を付けていったのではないかと推測する。「モーツァルト通り」があり、その1番地は「ホテル・モーツァルト」という家族経営のこじんまりしたホテルで、ボンに出かけるときは以前からしばしば利用していた。「ベートーヴェン広場」があり、その近くには「ベートーヴェン薬局」があった。ボンはベートーヴェンの出身地だが、この界隈が何か取り立ててベートーヴェンにゆかりがあるということはなかったはずだ(通りの名前は「リスト通り」)。

ボンの「中央」駅は、旧市街のはずれにある。そこからほど近いところに「旧墓地」があり、よく知られたシューマン夫妻の墓や、ベートーヴェンのおっかさんの墓などがある。ずっと前に書いた掃天星図のアーゲランダーの墓もここ。

駅の裏手、旧市街とは反対側の「音楽家地区」は、ボンから、かつては別の町というか村だったエンデニヒに行く道筋に当たる。エンデニヒは、1904年の合併で、ボン市に含まれている。そのエンデニヒにあるのが、シューマンハウス。晩年のローベルト・シューマンが入っていた精神病院。今は1階と2階の一部が市営の音楽図書館、2階の残り部分がシューマン記念館になっている。「音楽家地区」のわが家からシューマンハウスまではさほどの距離ではなかった(今地図で確かめたら800mほどだ)から、よく自転車で通った(特に自転車用に整備された道もあった)。ベビーカーを押しながら、バスで行くこともあったし、散歩がてらに歩いて行くこともあった。シューマンハウスでは楽譜や音楽関係の文献をよく借りた。市立図書館共通の利用カードがあって、それがここでも通用した。

エンデニヒには、ベビー用品店や、自然食品店もあって、そういう店にもよく行った。生まれたばかりの赤ん坊を抱えていたからでもあるし、自然食料品店では多少高価ながら日本の食材もそれなりに置いていたからだ。

とにかくよくベビーカーを押して散歩にでかけた。

「間もなく[...]男はこどもを街のあちらこちらへ長い散歩に連れ出すようになった。いつも行っていた雑踏の大通りとは反対の方向に歩いていくと、単調な古くほの暗い地区が、地面にはさまざまな色彩がさし、舗道には空が照り映えて、これまでこの街のどこでも見たことがないような姿を現す。こうしてはじめて、そしてまた歩道と道路の間で梃子のように乳母車を上げ下ろしする動きとともに、この街は「こどもの生まれた街」となる。」(ペーター・ハントケ『こどもの物語』

ハントケのこの「街」はおそらくベルリン。僕らがいたのはボン。僕らの子供はボンで生まれた訳ではなかったが、生後すぐだったし、以前に1人や2人で滞在した時とは、街は明らかに違って見えた。「歩道と道路の間で梃子のように乳母車を上げ下ろしする動き」などは、ハントケならではの現実のキャプチャのしかただと思うが、つよいリアリティをもって読めた。(日本の街路、華奢なバギーでは、これは感じられなかったかもしれない。)

「ベートーヴェン薬局」のならびにギリシャ人のやっているSirtakiというギリシャ料理屋があって、時々お世話になった。ギュロスやスブラキが美味かった。テイクアウトもできた。ギリシャ料理につきもののウゾ。僕はギリシャに行ったことがないのだけれど、ドイツのギリシャ料理屋はたいていどこでも、無料で食前酒に出してくれた。店に行ってテイクアウトを頼んでも、待っている間ウゾが出てきた。ドイツ人客たちはいったいに蒸留酒=アル中の飲むものと思っているふしがあって、あまり飲もうとしないようだった。ギリシャ料理屋の店の人々は、僕らが飲むと、うれしそうな顔をすることが多かったように思う。

周りが住宅ばかりのリヒャルト・ヴァーグナー通りには、キオスクが一軒と、それからあと1軒だけ、スペイン人がやっているスペイン料理屋があった。ギリシャ人のギリシャ料理、スペイン人のスペイン料理は、ある意味で、ドイツに住む時の楽しみだ。ジビエやウサギを食べた記憶もある。ドイツ料理では考えられない、日本料理のような、魚の塩焼きもあって、とにかく肉も魚も美味かった。気候のいいときは白い壁に囲まれた裏庭の席で、寒いときや悪天候のときは屋内で、食事をした。バギーに乗せたままの、生後1年に満たなかった子供に、デザートのクレム・カタランを一口与えたときの、まるで「この世にはこんな美味しいものがあったのか」とでもいうような目の輝きが、忘れられない。2、3年経って訪れたとき、店は凡庸なイタリア料理屋になっていた。あのスペイン人たちはどこへ行ってしまったのだろう?

スロヴェニアの小学校の人工岩壁

2009年10月18日

近頃はボルダリングが流行りだしているらしい。wander-z さんのボルダリングジムの人工岩壁の画像を見て、そういうものがスロヴェニアの小学校にもあったことを思い出した。

日本の学校は、どうやら法で定められているわけでもないのに、どこもそれなりの広さの「校庭」を備えている。ヨーロッパの学校は、あの「プチ・ニコラ」を読んでも分かるとおり、街中のふつうの建物で、校庭と言えば狭い内庭しかないところが多い。

数年前、子供がスロヴェニアのリュブリャーナで半年ほど通っていた小学校は、城山の麓にあり、やはりごくごく狭く細長い裏庭のような「校庭」しかなかった。背後はすぐ石垣で、その上を、斜面を登る道路が通っていて、いく筋かの住宅があった。その端の校舎の壁に、ボルダリングジムのような登攀用の突起が付けられていたのだった。高さはせいぜい2メートル程度。シュタイナー系の私学だったが、この設備はシュタイナーよりもスロヴェニアであればこそだったのではないかと思う。

山口由美さん(『世にもマニアな世界旅行』)の表現で言えば「小さくて体育会系の国」、スロヴェニアは、ヨーロッパアルプスの東端に位置していて、登山が「国民的スポーツ」だということになっている。旧ユーゴの最高峰でもあったトリグラウは、標高はたかだか2864mとは言え、森林限界はかなり低く、非常にアルペン的で急峻な石灰岩質の岩嶺。森林限界も2500メートル辺りだと思う。富士山に登らずば日本人にあらずみたいなつまらない台詞と同様、トリグラウに登らずばスロヴェニア人にあらず、みたいな言い回しがあるようだ。ちなみにぼくとかみさんはかつてトリグラウの肩にあたる小トリグラウまで登った(そう言えばその話はまだ書いていなかった)が、知り合ったスロヴェニア人はほとんど登ったことがない奴ばかりだった。(と言う自分は富士山に登ったことがない。)

母なる超自我の命令

2009年5月25日

enjoyEnjoy. 某ファストフードのドリンクの容器に書かれていた言葉。そう言えば、Apple 製品のおしゃれなパッケージにも同じ言葉があったっけ。これは英語ならではなのではないだろうか。ドイツ語の Viel Spaß! は根本的なニュアンスが違うし、そもそも命令法ではない。Genieß! とは言わない気がする。日本語にしても、ぴったり対応する言葉が思いつかない。楽しみなさい、とか、楽しんでいらっしゃい、とか、いかにもホンヤクではないか。

もちろんこのことから、享楽を命じる「母なる超自我の命令」(ジジェク)が、日本やドイツなど、英語圏以外のところでは見られないということにはならないだろう。モダン以後の世界に生きる私たちは、実質的に、そういうわいせつな命令の声に日々晒されていることは間違いないと思う。

別館:iPhone App 拾遺集 について

2009年5月6日

appglaneur新年度開始のごたごたで、このところ更新が滞っています。

実はこことは別に、少し前から、「別館」として、標記の iPhone App 拾遺集 というブログをやっています。iPhone 用アプリ紹介のブログ。その手のブログは数多いですが、名前の通り、他のサイトではまずほとんど触れられることのないアプリ、主に人文系、ヨーロッパ、英語以外の言語、Mac関連 などに偏った関連のアプリを拾って取り上げることを中心にしています。

過去にこちらのブログでもそういう記事は書いていましたが、それを独立させたわけです。おかげで、多忙に加えてこちらに出す小ネタは減って無更新状態。あちら iPhone App 拾遺集 のほうが、これも細々とながら、まだ更新頻度は高いという現状です。

Seesaa を使っておりますので、そのままで iPhone での閲覧にも最適化されています。もしご興味をお持ちでしたらぜひあちらにもお立ち寄りくださいませ。

ブログ引っ越し後:リンク切れについて

2009年4月11日

気をつけたつもりだったのですが、やっぱり個別のパーマリンクは変わってしまっていたようで、かつての記事にリンクしていただいている方にはご迷惑をおかけしているかもしれません。申し訳ありません。

従来のパーマリンク、たとえば
http://www.tkyabe.com/blog/archives/2008/01/
は、
http://tkyabe.com/blog/2008/01/
に変わってしまっているようです。www は付いたままでもいいのですが、archives というディレクトリがなくなった形になっているので、以前にリンクしていただいたところからは、「見つかりません」エラーが出ていたのではないかと思います。とりあえず、上のようなケースでは、自動的に新しいアドレスに転送するように設定しておきました。

年月別のディレクトリまではそれでいいのですが、その下の個別記事のファイル名まで一部変わってしまっている様子。もしリンク切れが生じている場合は、一つ上の階層をご確認いただけましたら幸いです。

ご来訪くださる皆様には、ご面倒をおかけしまして、申し訳ありません。今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。