「闘論・小学校の英語必修化」毎日新聞2006年5月15日総合面。お茶の水女子大教授藤原正彦氏・国際教養大学長中嶋嶺雄氏。
まず、2つの一見対立する言説を並べることで、問題に対する視点の100%をカバーしているかのような(したがって新聞の姿勢は公平・中立であるかのような)見かけを作り出す記事構成にも問題がある。議論すべきは、両者ともにまるで考えていないところ、少なくともここではまったく言及していないところにあるかもしれない。
だいたい、なぜこのお二人を引っ張り出すのだろう? どちらも、紋切り型(=思考停止のしるし)のオンパレードだ。
語らせる人物を選ぶ見識という点で、新聞自体の問題であるとも言えるかもしれない。
僕はお二人の他の発言を追っているわけではないし、この記事はインタビューを記者がまとめた形になっているようだから、ご本人たちの意図を正確に伝えてはいないかもしれない。それは留保したうえで…。
中嶋「中学から大学までほぼ10年間習っても実際に使えないのは、これまでの英語教育そのものに方法、内容とも問題があるからだ。英語教育自体を抜本的に改善する必要がある。」
これ自体、誰もが口にする紋切り型で、新たな知見はない。問題は、ではどう改善するのかの認識なのだが、ここで中嶋氏が言っている中身には初習年齢を引き下げ、時間数を増やすという以上のことはない。
藤原「「英語が話せれば国際人」は大うそ。ペラペラしゃべれても自国の文化や言語を深く知らなければ、世界に相手にされない。」
そもそも「国際人」とはなんなのかが不明だし、英語をしゃべることと「国際」なんたらを等置することが奇妙な風習であることは間違いないから、前半の指摘は粗雑ではあるけれどもいいとしよう。しかし「ペラペラしゃべれても…」以下はまた典型的な紋切り型だ。この紋切り型には幾重もの問題がある。「異文化よりまず自文化」という紋切り型の欺瞞については、すでにこのブログで触れた。「ペラペラしゃべる」というオノマトペを使うのは、しゃべることの価値をことのはじめから引き下げる古典的なレトリック。まあ母語だって、「ペラペラ」という表現に見合った中身のないことしかしゃべれないやつはいくらでもいる。でもそれを充実させるべき中身がなぜ自文化にことの初めから限定されてしまうのだろう。そもそも「自国の文化」とは何か。相手にされたほうがいいらしい「世界」とはだれのことか。
中嶋「特にこの15年、ベルリンの壁が崩れ、冷戦が終焉した後、国境がすごく低くなった。ちょうどそのころIT化が進んでいった。中国で天安門事件が起きた89年、アメリカの学者の家を訪れた時、インターネットで私の英文の論文を検索してもらうと、論文がパーッと一瞬に出てきてびっくりした覚えがある。その当時はまだ、日本はそこまでいってなかった。そういう時代の急速な変化に、子どもたちを置いてけぼりにしてはいけない。」
いったい今現在のこの文脈でこのエピソードで何が言いたいのだろう? (まさか、ボクなんか英語のロンブンいっぱい書いてるもんね、ではあるまい。)89年か90年にこういうふうに言って「アメリカは進んでますよ〜」と主張していたのならまだ分かる。ネットでの検索の恩恵など、いまでは(この間、外国語教育はそのままなのに)日本でも誰でも享受しているではないか。
藤原「日本語が10できて英語がゼロ、もしくは日本語がゼロで英語が10ならいい。両方とも5しかできないのでは、米国でも日本でも使い物にならない。」
数学者とは思えない奇妙なロジックだ。日本語が15で英語が10ならいいのだろうか? あるいはそもそも、10というのは、10割、つまり「完璧」という意味なのだろうか?だとすればしかし、なぜこれがゼロサムゲームにならなければならないのだろう? それに、どんな言語でも(母語であっても)100%ということはありえない。
前にも書いたけれど、「異文化理解」という(それ自体紋切り型の)フレーズそのものにも僕は疑問を抱いている。しかしかりに異文化理解というものがあるとして、その最大の妨げになるのは、ここに両者ともあふれるほど並べている「紋切り型」ではないのか。「紋切り型」イコール誤謬ではないが、紋切り型が問題を切り開くことはない。そして何よりありうべき「異文化理解」なるものにとっては、紋切り型は最大の障害になりうる。
教育行政というものはこのレベルの言説で動いてしまうものなのだが、それが困る。一つ確実に言えることは、両者ともにすっぽり抜け落ちているのは、現場の外国語教育の中身であり、いかに外国語を学ぶか、それには何が必要かという経験と考察だということだ。とりあえずは、お二人ともに、今この時に、ご自身で、新たな外国語を学んでみられることをお勧めしたい。
…という言い方をした場合に、両者ともノらないであろうことははっきりしている。中嶋氏の場合は、早期教育を唱えているのだから、ワタシはもうトシだからダメ、と主張することが可能だろう。藤原氏の場合は、外国語教育はそれほど重視する必要はないのだ、と言っているのだから、自分自身で新たな言語を学んでみる必要などないと主張することが可能だろう。面白いことに、こうしてみると、お二人とも自身では外国語(学習)から逃げていることが明らかになる。自分自身はオリちゃってるんです。でもそういう人たちが教育を動かしちゃって(動かそうとする意図を持った言葉を語って)いいのかな?
僕自身は、小学校から始めようと中学校から始めようと、やり方次第だと考える。最大の問題は、教師に人材がそろえられるかどうか。人さえ変われば、今の制度でもそこそこ機能する教育は可能だろう。時間数や初習年齢ばかりで方法論すら両者の議論には抜け落ちているが、人が得られなければ、すぐれた方法の実践は難しいし、もちろん時間割をいくらいじってもダメだろう。教師の人材という問題をクリアしない限り、かえって子どものうちに「外国語嫌い」を増やす可能性だってある。









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