‘Slovenija’ カテゴリーのアーカイブ

世界に誇るスロベニア製鉄道模型

2006年7月7日 金曜日

息子が丁度列車好きな年齢真っ盛りである。
日本には老舗TOMYのプラレールというのがあって、
私の弟の時代でもどの男の子もこのレール一式と、列車も、最低3,4種類は持っていたのだと思う。
スロベニアでもプラレールのトーマスシリーズが販売されている。
それを以前から知っていた我が子は、日本の列車シリーズもあると知り、当然それを欲しがった。

でも、以前からドイツなどの製品の木製レールと列車を集めていたし、
(こちらは随分幼稚と言えばそうなのだけど)
なんと言ってもあの水色のプラスチックレールに狭いアパートの
フロアを占拠されるのが嫌だったので、取り敢えず列車だけをヤフオクなどで
海外発送をしてくれる出品者を見つけて幾つか買い与えていた。

しかし・・・
日本ではあらゆる所で、このTOMYの水色レールに遭遇する。
主人の実家にも、従兄弟のセットが。
息子は朝から晩までこのレールを組み立てて列車をあっちからもこっちからも
走らせ、血眼になっている。当然「やっぱりレールも欲しい・・・」。と、言うことに。
さぁ、困った。どうしよう。
自分の弟も持っていたしな、ダメだと言い聞かせるにも納得のいく理由が浮かばない・・・

と、頭を痛めていた時に、ふと思い出した。
そういや、スロベニアには国産のMEHANOっていう鉄道模型があった。
多分年齢的にはまだまだ早いのだろうけど、最近ちょっと商売っ気の出てきた、
鉄道博物館にもビギナーズセットが売られていた。

そこで、すかさず私は息子に、
「スロベニアへ戻ったら、鉄道博物館にあったあの汽車のセットを買おう」、
と約束した。

が、MEHANO社のHPを見てみるといろいろなシリーズが・・・
しかも、そういや、愛顧のおもちゃ屋にも何かあったなぁ。
と、思い、翌日息子とあらゆる約束を交わして、
そのおもちゃ屋へ足を運んだ。

実際行って見ると、やはり、相当年上向けに見える。
しかし、約束は交わされていて、私は息子にこのHOゲージ
(1.65cm)の実際ちょっと“ややこしい”列車模型を買い与えることになった。

でもやはり、これはまだ四歳に満たない息子には“大人の物”であって、
セットアップするのは、私。
レールも、列車も精巧に出来ている。
列車のつくりなど、実に麗しい・・・
しかしながら、それでも、この年の子共自身が、
レールの組み方を自分で楽しみを味わえるのは
やっぱり それなりに“うまく” 出来た、あの水色レールなのかな・・・

歓迎・すっかり忘れていた。

2006年7月6日 木曜日

一時帰国をしていた。
こちらへ戻る数日前から寝しなになるとあれや、これや、と頭に浮かぶ事柄多く、
少々寝不足気味のまま復路に就いた。
戻ってからも現実を拒否するかのごとく買い込んで来た池波正太郎をむさぼり読んでいた。
全く、全くリュブリャナの生活が嫌いなわけじゃないんだけど・・・
そういや、東京へ着いた時も同じ心境だったな。
単に環境順応能力が低下してるだけか。年なのかな。
などと自己分析しながら帰宅を告げる友人への電話口では、
「まるでバケーションに来たみたい。観光客気分よ。」なんて言って笑っていたのだけど。

戻った当日は密輸してきた生鮮食品を冷凍庫へしまっただけ。
荷をほどく気にもならず、怠けていた。
しかし、翌日からはそうバケーション気取ってる訳にもいかない現実に気付き、
ボスへ連絡。一通り挨拶して、懸案の滞在許可(一時帰国中に期限切れ)更新の話。
一応雇用主であるボスがビザ関係の手続きはやってくれている。
ボスの話では戸籍謄本に公認訳をつけて、提出すればそれでOK、との事。
じゃぁ、まずはその手続きを・・・
と、思っていたら店のオフィスから連絡が。
滞在許可は既に下りてるからもう戸籍謄本の訳は不要、MOSTEの役所へパスポートだけ忘れずに
持って行けば、もらえるから早めに取りに行って、とのこと。
なぁーんだ、簡単だな。新規申請じゃなくて、延長だし、ま、そんなもんか。
なんて気楽にMOSTEへ行ったのだけど・・・

このMOSTEの役所、昔のパルチザンの建物か何かで、何しろ陰気。
勿論エレベーターもエスカレーターも無く、車中眠ってしまった娘をベビーカーに乗せ、
それを抱え、息子にも気を配りながら4階まで階段を登る。
(幸い途中から男性が手伝ってくれて助かった。)

窓口はいつもよりずっと空いていた。
職員に用件を告げると至極面倒そうな顔つきで、家族のパスポートをそれぞれ開く。
暫くすると、「まだ手続きは全然終わっていない。書類不足。誰がもう許可は下りてる、
なんて言ったんだ?」と。
すかさず私はボスへ電話。職員と直に話してもらった。
必要書類一覧を書いた書類が家に届いているはずだと。
それを見て指示通りの書類を揃えて要提出。

そうだよな。
すっかり忘れていたけど、この滞在許可、新規に下りるのに一年半もかかったんだよな。
しかも、ボスも、「役所には本当に振り回される。気まぐれみたいに毎回言うことが違う。
あれもこれも揃えろ、って言われて持って行くと、これは不要、必要なのは別のもの。って具合だ。」
って愚痴ってたいたな。

だから、例え今回は延長だといえどもそう一筋縄にいく訳は無かったんだ・・・
やっと思い出してきた、スロベニアの役所って、ややこしかったんだ。
その上、役所の職員は必ずと言っていい程態度が険悪で、えばっていて、
まるで自分が罪人であるかの様な気持ちにさせられる。
でももう以前の様に動揺しないし、腹も立たない。
別に困ることもない(多分!?)、気長に行こう・・・

帰路、せめて運転免許証の申請だけでも済まそう、と思いロシュカの運転免許証センター
(ただの古い一軒家なんだけど)へ立ち寄ったら、午後一時で受付終了とのこと。
一足遅れていた。
偶然にも世話になった教習官に遭遇、立ち話をして家へ戻った。

すぐその書類を発見。私の留守中に届いていた様子。
スロベニア語で書かれたその書類、いつものお役所のハンコが押してあり、
さっきの職員の話の通り必要書類が書き出してある。

ん?
まさか・・・と目を疑ったのだけど。
新規申請の時非常に面倒だったあの書類がまた要求されている。
結婚証明とアポスティーユ。
結婚証明は戸籍謄本で代用可、問題はこのアポスティーユ。
公文(この場戸籍謄本)が本物だという事を証明する、証明書。
これは外務省が発行していて、外務省でしか申請できない。
新規に滞在許可証を申請した際は、手続きがある程度進んでからこのアポスティーユも
提出しろと言われ、急遽在東京の弟に代理申請をお願いしたのだ。
当時日本領事館へ相談してみると、
「あら、不運ですね。アポスティーユ言われちゃいましたか。言われない場合もあるんですけどね。」
って。そんなもんなの・・・?

あぁ・・・
なんてことでしょ、一昨日東京から戻ってきたばかりじゃない。

いや、決してスロベニアが嫌いな訳じゃ無いし、むしろ大好きなんだけど。

うん、きっと日本でもややこしいに違いない、異国人の滞在手続き。
と、納得してみるか。

運転免許取得

2006年5月27日 土曜日

スロベニアでも旧ユーゴがジュネーブ条約に加盟していたので、
勿論、国際免許証で運転が出来る。
私もこちらへ来る際、国際免許証を取得して来た。
しかし、一年間車は買わなかったので、その国際免許では
たったの一度レンタカーして運転したぐらい。
車を購入した頃にはその国際免許は切れ、
在東京の弟に代理人申請してもらった。

その後も問題なく国際免許で運転していたのだけど・・・

しかし、国際免許にも限界が。
面倒だし、このまま毎年代理人申請で、国際免許で運転しよ〜なんて、
思っていたのだけど。

国際免許で運転できるのは、居住許可下りてから一年後まで。
その一年内に、スロベニアの免許を取得しなくてはならない。

しかも、

運転免許の申請手続きを開始できるのは、
居住許可が下りて、半年後から。
何故だか全く分からないけど、これが法の定めるところ。

よって、居住許可が下りて半年後、から、
一年後、の間の半年の間にこちらの免許を取らなくてはならない。
ま、半年あれば余裕・・・なぁんて胡坐をかいているとすぐに数ヶ月経ってしまうのが
悲しいかな、現実である。

日本で運転免許証を持っている場合、
こちらでの学科受講、テストは免除。
実技テストをパスすれば直ぐに免許を交付してくれる。

しかし、私の場合、ちょっとした壁が。
日本での免許は勿論持っていたし、ペーパードライバーでもなく、
スロベニアに来てからも実際、毎日のように運転していた。

けれど、いわゆる”オートマ限定”、ドライバーなのです、私。

こっちの車は90%以上がマニュアル。
免許証にもオートマ限定、なんて無いし、ってことは、
私にとってはニューワールドな、マニュアル運転で実技試験をパスしなきゃならない。

取り敢えず、教習を受ける。
日本みたいな教習コースを設けてるところはリュブリャナには無く、
いきなり公道での教習。
約束時間に自宅前へ教習車に乗った教官が来てくれる。
(これは、いかにも小さい町ながら・・・)

こんな便利なお届け教習、受けました、15時間。
そして漸く本試験。
結果から言うと一発合格。
想像以上に緊張したけど・・・
がちがちになってる私を配慮して、老検査官も
挨拶代わりに「やぁ、スロベニア流にハグしてもいい?」
っていう日本だったら間違えなくセクハラで訴えられるだろうジョークを飛ばしてくれ、
それでもガタガタ震えながら、どうにかパスしました。

しかし、また問題が・・・
こっちの免許証を取得すると、日本の免許証が大使館に没収される。
今回の一時帰国で免許更新しなきゃいし、没収されちゃ困るんだ。
一応大使館の方に相談してみたけど、どうにも融通は利かないって。
なので、未だこちらでは申請せず。

ちなみに、こちらの免許証はこんな風。
vozniskod2_show.jpg

リサイクルペーパー風な紙で出来た観音開き。
中には写真があって、乗れる車種が記載されてる。

しかし、近年中にこっちに変わるのかな?

vozniska_dovoljenja_1_show.jpg

いずれもRTVの記事より。

実は、私、5月13日に免許切れてます。

スロヴェニア、07年にユーロ加盟

2006年5月21日 日曜日

asahi.com: スロベニア、07年にユーロ加盟

前々から決まっていたはずだけれど、いろいろ段取りがあるらしい。今回「欧州委員会が決め」て、6月のEU首脳会議で正式承認とか。

言うまでもなく、旅行者にとっては、周囲のユーロ圏諸国との行き来が格段に楽になるだろう。でも、これもおおかた分かり切ったことだが、デメリットもある。

  • まず間違いなく物価が上昇する。
  • スロヴェニア史上の著名人の肖像をあしらったトラル札と、スロヴェニアらしい生物を描いた硬貨が消えてしまう。

トラル札になっている人物のうち、プレシェレンとプレチニクとトルバールはすでにこのブログでも紹介した。それ以外は、文学者ツァンカルも、画家コブリツァもまだこれから。こういう人物像がいやおうなく旅行者の目に触れるという状況が失われてしまうのは、少し残念なような気もする。(クララ・シューマンのドイツマルク札もどこかにあったはずなんだけど、どこいっちゃったかな…。)

今現在のトラル札・硬貨のデザインは、Slovenski tolar – Wikipedija, prosta enciklopedijaで見ることができる。

89年に「ユーゴスラヴィア」だったリュブリャーナからオーストリアに出て、残ったディナール札を持って一応銀行に行った。換算したらほとんどシリングにはならなくて、「(両替しても)意味ありませんね」と、窓口のこっちとむこうで苦笑いしていた記憶がある。ティトーの肖像のついたその時の何枚かのディナール札は、そういうわけで今も手元にある。

ちょっと怖い?元独房ユース

2006年5月20日 土曜日

私、
店主じゃありませんのであしからず。
店主の様な物書きプロでもございませんのであしからず。

只の在リュブリャナ、しがなき一日本人であります。
折角お招き頂いたので、
幾らかでもリュブリャナライフを記録に残せれば、
お伝え出来れば、とペンを取った次第です。
それだけです。

さて、その第一弾。

別に時事ネタじゃありません。

リュブリャナ駅を背にして、左手、すぐの辺りに
かつてのユーゴスラビア軍兵舎跡がある。
Metelkovaという通り沿い。
建物はそのままそっくり残っていて、スロベニアの独立と共に、
ユーゴ軍の撤退、その後、ちょっとずつその兵舎も
修繕され、民族博物館などに変身を遂げている。
現在は修復途中の建物もまだあり、
広い中庭を囲うように大きなクリーム色の建物が何棟か建っている。

その駅寄りの一角。
IMG_2812.JPG

ちょっと派手ーな色使い。
HOSTEL CELICA
なんとここ、リュブリャナ一安宿であろう、ユースホステル。
20室あって、それぞれが元独房。

全ての部屋それぞれに、
スロベニアや他国からのアーティストによるデザインが施されている。
こっちのページ
には一部屋ずつの写真もあって、”20泊して、20の違う部屋に泊まりません?”
みたいなレコメンデーションもあり。
よくよく見てみたら元独房以外の大き目の部屋もあり。

好立地、話題性好し、明るく清潔。
私自身は泊まった事はないけど、何度かカフェには立ち寄ったり、
子供と最上階の屋根裏ウゥインドースペースへも遊びに行ったことあり。
カフェもいつもバックバッカーの若者たちで賑わっていて、情報交換も盛んそう。

実はリュブリャナには他にもあちらこちらに
旧ユーゴ軍の兵舎跡建物が残っていて、
なんとマタニティクラスのあった建物も古ーい、木造の兵舎跡建物でした。
このMetelkova一帯、今後何に変身していくのかちょっと楽しみです。

アウセニクまたは疑似民俗音楽(スロヴェニアの音楽 1)

2005年10月6日 木曜日

スロヴェニアの音楽というと決まって出てくるものの一つがアウセニク Avsenik 兄弟。その音楽はドイツ語圏でオーバークライナー Oberkrainer (上部クランスカ音楽)の名で流通している。



“75 Jahre Slavko Avsenik” (Slavko und Seine Origi Avsenik, Slavko & Seine Original Oberkrainer Avsenik)

ブレットの近く、サヴァ川を隔てたカラヴァンケ山脈の麓のベグニェ Begunje 村のスラウコ・アウセニク(アコーディオン)とヴィルコ・アウセニク(クラリネット)の兄弟が、親がやっていた酒場の客のために音楽の演奏を始めたのは第二次大戦後まもなく。スラウコ・アウセニクは、伝統的な民謡を器楽化して演奏していった。これはそれまでのスロヴェニアの民俗音楽にはあまり見られないことだった。すぐにデュオ(ドイツ語版Wikipedia の記述によれば当初はトリオ)には飽き足らなくなり、アコーディオンとクラリネットにトランペット、ギター、バリトン・ホルン(日本で言うユーフォニウム)を加えたクインテット(+ヴォーカル)で、アウセニック・サウンドとでも言うべきものを確立する。

これを1953年にオーストリアにバカンスに来ていたバイエルン放送の音楽リクエスト番組の司会者 フレット・ラウホ Fred Rauch (1909-1997) が耳に留め、「オーバークライナー」の名でミュンヘンで売り出す。レコードを制作し、自分の放送で流す。これがドイツ語圏で大きくヒットし、全世界で3千6百万枚のレコードを売り、そしてまた無数の模倣バンドを生み出す。アウセニックはこのタイプの疑似民俗音楽バンドのいわば創始者となり、自らのバンドは、Slavko Avsenik und seinen Original Oberkrainern スラウコ・アウセニクとオリジナル・オーバークライナーの仲間たち、と称した。そして高齢に達した今は、Die Jungen Original Oberkrainer 若いオーバークライナーと称した若手を育てているらしい。

しかし、ドイツ語圏でヒットし、ドイツ語圏からみたスロヴェニアのイメージと言えばアウセニクがついて回るようになったものの、スロヴェニアでは格別好まれているわけでもなさそうだ。(とは言っても、リュブリャーナから山岳地方に向かうバスの中など、いたるところで耳にするような気がする。)

こちらの詳細なファンサイトもドイツのもの。ネットラジオ放送は休止中だが、断片的なメドレー風のmp3ファイルを聴くこともできる。

Krainer-music.com

Slavko Avsenik の公式ホームページ。スロヴェニア語、ドイツ語、英語、イタリア語、クロアチア語で作られたこのサイトは、確かなエスタブリッシュメントであることをうかがわせる。ベグニェ村のアウセニクの店が、5つの客室を備えた食堂旅館であることも分かる。

この手の音楽、ヨーロッパ・アルプス東部やバイエルンやオーストリアでよく耳にしていたが、こういう、ごく近い浅い歴史をもったもので、かつ「起源」がスロヴェニアの北西部にあるということは、僕は最近まで知らなかった。やはり「伝統」というのは「創られる」(ホブズボウム)ものなんですね。

ところで、アウセニクが成功したことによる問題の一つは、(Dumont 社のガイドブック、“Slowenien mit Triest” (Friedrich Köthe, Daniela Schetar) の著者たちの言うところによれば)この他のスロヴェニアの「伝統音楽」が、アウセニク流のポルカやワルツが席巻するなかで、忘れられ、消えて行きかねない事態が生み出されたことだという。(スロヴェニアの音楽 2 に続く…予定。)

スロヴェニア観光PRムービー

2005年9月28日 水曜日

スロヴェニアを主題とするとてもすぐれた英文 blog The Glory of Carniola の記事 Slovenia: The Movie で教えられたのだけれど、スロヴェニア政府のPR局のサイトに、スロヴェニアを紹介するムービーが埋もれている。1995年の制作。フォーマットも QuickTime、RealPlayer、Windows Media と各種あるし、サイズもいろいろ。この種のPR映画の賞を三つ受賞したというだけあって、なかなかよくできている。

スロヴェニアって、どういうとこ? という方、ぜひご覧あれ。

スロヴェニアを知っている方は、登場する場所(ま、だいたいの「名所」が網羅されている感じです)の何割ぐらい言い当てられるか試すのもいいかも。

ヴァイオリンを弾いている女の子の手首がちょっと気になるなあ…。いや、手首フェチとかじゃなくて純粋に奏法の問題として。

なぜスロヴェニア(再)

2005年8月20日 土曜日

僕のスロヴェニアとのかかわりは、ペーター・ハントケからだ、と以前に書いたけれども、それ以外にも二三の偶然とそこから発した細い糸が絡み合っている。

Reiter



リュブリャーナの街で見かけた騎馬警官

88年秋から西ドイツ(当時)のボン大学に行ったとき、ドイツ語の出来が悪かったから、まずゲッティンゲンのゲーテ・インスティテュートに、夏の二ヶ月、行かされた。そこで知り合った一人に、スロヴェニア人の言語学者マルコ・Sがいた。当時、ユーゴのことなどまるで知らなかったから、彼の話も半分も理解していなかったように思うが、ユーゴスラヴィア内で対立が深まっていること、彼が編纂しているスロベニア語・アルバニア語辞書にはどうやら政治的な意味があるらしいことだけは分かった。

前に少し書いたけれども、90年の春にドブロヴニク(今のクロアチア)で哲学のセミナーがあって、そこに行く途中、まだ煤けていたリュブリャーナに立ち寄った。ユーゴ解体前、スロヴェニアの独立前のことだ。ボン・ボイエルの駅から寝台列車でウィーンへ行き、数日過ごしてそこからまた列車でリュブリャーナに入ったのではないかと思う。連絡をとってあったマルコが、ホテルは高いからやめておけと言い、一緒に観光案内所まで行って、街外れの民宿、というか、民家の部屋貸ししているのを取ってくれた。リュブリャーナ市内からその宿まではジュトンを買って乗るバスで行った(このバス用ジュトンは今でも現役である)。街の南東方向だったと思うが、正確な場所はもう覚えていない。マルコは、確かなことは分からないが、行動のしかたに、どこか官憲に睨まれているような雰囲気があった。実際、当時なんらかの活動にかかわっていたのかもしれない。

城山の下に川にそって旧市街の広がるリュブリャーナは、ザルツブルクに似ていると思った。もともと同じハプスブルク帝国に属していたのだから、似ていて当然かもしれないが、地形の使われ方まで似ている。

その時、バルカン半島最古の高層建築、ネボティチュニクの最上階のカフェ(今は閉鎖されている)に、一人で行った。三つほど向こうのテーブルに、日本人らしい女性がいて、何か書類を広げていた。僕はコーヒーを啜りながら、窓の外に見える城山を眺めていた。そのうち向こうから声をかけてきた。筑波大学のS先生で、リュブリャーナ大学で日本語に関する講演をするために来たという。筑波はその頃からリュブリャーナと縁が深かったようだ。日本語のできる学生にこれからリュブリャーナの街を案内してもらうんですけど、一緒に来ませんか。そのガイド役がバルバラだった。街のあちこちがプレチニクの設計によることは、彼女の説明で知った。まだそれほど日本語が上手なわけではなく、英語でのやりとりが多かったはずだ。

S先生の講演を、リュブリャーナの大学の恐ろしく勾配のきつい大きな階段教室で、バルバラと並んで座って聴いた。意想外に聴講者は多かった。通訳のB先生が動員したのかもしれないが、先行き不透明な崩壊直前のユーゴの中で、どこか遠い国への関わりに期待を寄せ、関心を抱くような雰囲気もあったのかもしれない。S先生の話はと言えば、日本語には近称・中称・遠称三段階のシステムがある。これ/それ/あれ、ここ/そこ/あそこなどだ。ヨーロッパの言語は一般に「ここ」と「あそこ」、「これ」と「あれ」の二段階の区別しか知らない。ところがスロベニア語には三段階の区別がある、それが日本語に似ていて面白い、大筋、そんな話だった。(言語学が専門ではないから、論評はできないが、たとえばドイツ語は、たしかにdieser/jener, hier/dortなど二段階のシステムだが、その間にきわめてあいまいな das や da があって、これは中称的にも使えるが、近称や遠称も包括しうるし、遠近の区別を離れて、単に存在を示すためにも使える。だからヨーロッパの他の言語に中称がない、というのは半分正当で半分そうではない、ぐらいのことは言えそうに思う。)

その講演の通訳をやっていたのが、リュブリャーナ大学日本語学科の主任、B先生だった。お役目の主な部分はS先生の日本語のスロヴェニア語への翻訳だったはずだが、恐ろしく流暢な日本語に舌を巻いた。こんなところに(というのはユーゴもスロヴェニアも知らなかった当時の僕の偏見が入っているが)、こんな日本語使いがいる…。まだ勉強中だったバルバラは、僕の隣で講演を聞きながら、漢字の練習の内職をやっていた。のぞき込むと、送り仮名だったか、二三、間違いがあったので訂正してあげた。

S先生とはその後数年年賀状の交換があって途絶えてしまった。マルコとはその後音信不通になった。いつだったか、クラーゲンフルト(オーストリア)のスロヴェニア語専門書店で、彼の編んだぶ厚い辞書を眼にした。バルバラには、1994年にもリュブリャーナで会った。その後、彼女は長い間筑波大で勉強していた。日本に来たばかりの頃、妹と一緒に京都を訪れた折り、僕は案内役を務めた。そして筑波で博士をとり、一年あまり前に帰国した。今回、B先生に劣らず、いろいろとお世話になっている。Najlepša hvala! どうもありがとう。

Piran ピラン (1)

2005年8月19日 金曜日

ピランはアドリア海の奥に突き出した岬に造られた街。三方を海に囲まれた古い町並みはぎっしりと建て込んで、大波や冷たい北風 (burja) から守りあうように身を寄せあっている。

ゴシックから擬古主義におよぶ様式の建築が、すっかり融け合って一つになっている。パステルカラーのパラッツォは地中海の軽快さ。大きめの四角い舗石の敷き詰められた狭い道が、森の中の空き地 Lichtung のような小さな広場に導く。

岬は北側がせりあがって断崖となって落ちており、その丘の上に聖ゲオルク大聖堂 (Sveti Jurji) が建つ。鐘楼のてっぺんに立っているのは風見鶏になっている大天使ミカエルの像。大聖堂前からは、楕円形のタルティーニ広場と港が見下ろせる。

そこから東に、岬の付け根に向かって歩いていくと、糸杉やヒマラヤスギの生えた斜面に重厚な城壁が、岬の街を陸からも隔てている。城壁の上には登ることができて、そこから眺める紺碧のアドリア海に突き出した街の全容は本当に美しい。この絵はがき的に美しい絵柄は、城壁に登りさえすれば誰でも撮れる。

Piran

ピランの名は、ギリシャ語の pyros から来たのだろうと推測されている。火、つまり灯台だ。古代の船は、灯された火を見て、この岩がちの岬に衝突するのを避けたのだ。ピランはまずローマの植民地として開かれ、それからビザンチン帝国の一部となった。(イゾンツォ川デルタの都市アキレヤの住民の一部が、452年にアッチラの率いるフン族の襲撃を受けた際、舟でトリエステ湾を渡り、このピランの地に住み着いた、という起源神話もある。)1283年から以後500年以上にわたってヴェネツィアの支配下に入るが、その間にも通商の権利と自治を勝ち取っている。ヴェネツィアの支配は悪いことではなかったようで、宗主の通商路を利用して、ピランは塩や干魚、ワイン、油をレバント地方(地中海東部)にまで出荷する。塩は近くの塩田で豊富に産出した。1797年から1918年まで、街はハプスブルク帝国の支配下(一時フランスの支配下)にあり、その後第二次大戦末まではイタリアの領土で、1945年から9年間はトリエステに支配されていた。1954年から1990年はスロヴェニア全体とともにユーゴスラヴィアに属していたが、この時代にイタリア系少数民族の権利は確保された。道路標識、学校教育、ラジオ放送などが、イタリア語でも行われることが認められた。

とにかくイタリアはすぐそこ、近い。スーパーやレストランでも、スロヴェニア語の「さようなら」nasvidenje よりもイタリア語の ciao のほうがよく聞かれる。リュブリャーナの食堂(例外はいずれ書く)ではたいてい食うに耐えないスパゲッティも、このあたりではだいたい安心して食べられる。

参考:

“Merian live!, Slowenien” (Izabella Gawin)

Vintgar ヴィントガル峡谷

2005年7月30日 土曜日

vintgar.jpg

スロヴェニアの観光地としては日本でも比較的よく知られたブレット湖 Bled の北方4キロほどのところに、ヴィントガル Vintgar の峡谷がある。狭く深い峡谷のことを、日本の登山用語でも英語でも、フランス語から来た単語で gorge (ゴルジュ=のど)という(ドイツ語なら Schlucht か Schlund、あるいは Klamm か)。ヴィントガルは際立ったゴルジュだ。

そのままならば徒渉したり泳いだり(しかも水温は非常に低く、流れは速い)断崖をへつったりの備えがなければ行けないようなところだが、木の桟道が整備されていて、気軽に訪れることができる。この桟道は、1893年にゴーリェ観光協会によって最初に設置され、今日にいたるまで整備維持されてきている。両端には小屋があって、管理のための入山料を取られる。(ブレットからすぐ近くであるにも拘らず、そもそもアクセスの困難だったこの峡谷は、ラドウナ川の水量が異常に少なかった年、1891年になって、当時のゴーリェの市長 Jakob Žumer ヤーコプ・ジューメルと、測量士で写真家の Benedikt Lergetporter が「発見」してその美しさに感嘆し、ただちに、多くの人々が訪れることができるよう、桟道の整備を開始したのだという。)

ガイドブック Lonely Planet Sloveniaの著者 Steve Fallon によれば、Vintgar は「もっとも手軽にもっとも満足の得られる日帰り遠足の行き先」で、これは言えてる。4月中旬から10月の午前8時から午後8時まで。それ以外の時期は閉鎖される。峡谷の両端にある小屋では飲み物や軽食が手に入る。峡谷の入り口から出口まで、ゆっくり歩いても1時間程度。桟道の板の上を歩くのが大部分だから、比較的軽装で済む。

ブレットからは徒歩か、バスで Podhom ポドホムまで。バスは、6月末から9月中旬まで、Alpetour というバス会社がブレットのバス駅から毎朝9時半に走らせている。歩くなら、ブレットのバス駅から北西に Prešernova ulica プレシェレン通りを行き、Partizanska cesta パルチザン通りに入って北に向かい、それから牧草地の中をまっすぐ北西に向かう Cesta v Vintgar ヴィントガル通りを歩く。すると Podhom の集落に着くので、そこから道標に従い西に1.5キロ、坂を登って下ると峡谷の入り口に着く。あるいは馬車をチャーターすることもできる。ポドホムからヴィントガルへの最後の区間、かなりの急坂の部分、御者は馬車から降り、馬の負担を軽くしてやっている。

kutsche.jpg

興味深いのはこのゴルジュの形成史。Peter Skoberne “Triglav National Park” Ljubljana, 1991 によれば、最後から二番目の氷河期に、ボヒン氷河が Radovna ラドウナ川の流れを堰き止めて湖にした。それまで、ラドウナ川はブレットでサヴァ川に注ぎ込んでいたのだが、その道を塞がれ、 Hom ホム山 (834m) と Poljana ポリャーナの間の峠からサヴァ・ドリンカ川に向かって流れ出す。高度差があったため、長さ1.6 キロにおよぶ峡谷が比較的短期間に形成された。水流が掘り込んでいった両岸の断崖はほとんど垂直で、狭く深い谷ができた。断崖は最大で高さ300mにおよぶ。そして峡谷の出口は落差13メートルの Šum シューム滝となった。スロヴェニアで、川の途中に滝があるのは珍しい(断崖の途中から吹き出す滝のほうがありふれている)。滝の直上を、イェッセニツェからボヒンを経てノヴァ・ゴリツァまで結ぶ鉄道の、古い石造りの橋がまたいでいる。

ラドウナ川にはマスやニジマスや北欧原産で放流されているヒメマスが多く、釣り客もよく訪れるようだが、峡谷内は入漁禁止。峡谷が少し広がったところで漁をしているのが(『スタンダード仏和』の訳語によれば)川烏という鳥。もっとも、大きくて20センチぐらいの小鳥だから、マスを捉えるわけではない。2000mぐらいまでの山地の急流に住み、フランス語で cincle plongeur という名の通り、水中にダイブ (plonger) して小動物や魚の卵などを食べる。ドイツ語で Wasseramsel (水ツグミ)。フランス語でもほぼそれと同じ merle d’eau という呼び名もある(英語でも似たような water ouzel という呼び名があるようだ。もう少し広義では dipper)。スロヴェニア語では…知らない。ダイビングも含めて、とても動きがすばやくてよい写真が撮れなかったので、この画像は Der Brockhaus in Text und Bild 2004 から拝借。お食事中のようだ。

wasseramsel.jpg

やっぱり全身が見えないと、ということで、こちらは Les Oiseaux des forêts et des montagnes というヨーロッパの山野の鳥のフランス製CD-ROM図鑑(惜しいことに Mac では Classic 環境でしか動かないが、たいへんよくできている)から。こちらも何かくわえている。

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シューム滝で峡谷が終わり、前方の視界が開けてくるあたり、両岸の斜面にV字に枠どられて、ずっと向こうにオーストリア国境のカラヴァンケ山脈の、おそらく Stol ストウ山 (2236m) が白く輝いている。

峡谷の終端からは、往路を戻るのが普通だが、北に小さな峠を越えて Blejska Dobrava の鉄道駅に出ることもできるし、右に、南西方向の山道をたどり、Hom 山の東側、小さな聖カタリナ教会堂のある峠(634m、眺めがよい)を越えて、ブレット方向に戻ることもできる。また、カタリナ教会のところから尾根伝いに Hom を越え、出発点の Vintgar 入り口に戻ることもできるようだ。