‘Slovenija’ カテゴリーのアーカイブ

不法滞在者になった顛末

2011年8月18日 木曜日
Fjaka-Tシャツ

ポレチのホテルで売っていたTシャツ。気分にぴったりだったもので。

こちらに半年や一年滞在すると、何か一つは大問題が起こるものだが、かつてのボンでの開腹手術、前回のリュブリャーナ滞在時の寝台車での盗難に相当する「事故」は、ここでやってきた。知らぬ間の不法滞在。

半年の在外研究期間でウィーンに居を定めたわけだが、3月末の出発の直前、在日オーストリア大使館はあの地震(とその後の問題)のため一時的に大阪に移転するという騒ぎの最中で機能しておらず、到底ヴィザの発給事務を行なえるような状態ではなかった。調べたら、どこかに、ヴィザなしで6カ月まで滞在できると書かれていた。あれ?3カ月ではなかったっけと思いながら、ならば9月中旬帰国予定の今回は6カ月以内だし、ヴィザなしで行っても問題はあるまいと判断して、パリ経由でウィーンに入った。ウィーンの芸大からは招聘状を出してもらっていた。アパートも借り、4カ月つつがなく暮らしてきたわけだ。この間、7月にEU域内のイタリアにちょっと出ただけだった。

7月末、子どもたちが夏休みに入り、妻とともにやってきた。ウィーンで二三日過ごしたあと、彼らの旧知も多いスロヴェニアに一緒に移動した。山岳地方のボヒンでしばらく過ごし、リュブリャーナに出た。そこまではよかった。スロヴェニアの海岸地方からは目と鼻の先の、クロアチア領のイストラ半島、海辺のポレチでほんの2泊過ごそうと考えたのが運の尽きだった。スロヴェニアで車を借り、クロアチアに入るところでスロヴェニア側の国境官吏に捕まった。日本から来たばかりの家族は問題ない。3月末からオーストリアというかEU域内にいる僕が見とがめられた。

スロヴェニアの国境官吏が言うには、旅券で6カ月というのは、年間に6カ月であって、連続6カ月ではなく、連続的に滞在できるのは3カ月までで、その間にいったんEUを出ていなければならない。聞いてねーよ(関係ないが、スロヴェニアのゴレンスカ地方にあったダチョウの飼育所は、前の鳥インフルエンザ騒ぎのときに閉鎖されたらしい)。いまから僕にできるのはとにかくクロアチアに出て、ザグレブのオーストリア大使館に行き、再入国許可を得ることだと。そしてそこで半時間ほども空しく費やし、不法滞在の過料(科料?罰金?)200ユーロを払わされ(これもちょっとふざけていて、本来400ユーロのところ、その場で現金で払うと半額に割引されるらしい。まあ、外国人が日本への出入国に際して同じようなトラブルに遭ったら、もっとひどい目にあいそうな気もする)、クロアチアに入った。クロアチア側の官吏は、当然ながら、何も言わずに我々を通した。スロヴェニアがEU・シェンゲンに加盟してしまった(いやー、よかったねえスロヴェニア、おめでとう!)のが問題というか、クロアチアがまだ入れてもらえていないのが問題と言うべきか。ともかくかなり遅い時間に、予約してあったポレチのホテルにたどり着いた。

本当はここに2泊して、まる一日海辺でゆっくりする予定だった。しかし来たのが木曜で、ザグレブのオーストリア大使館に行くとすれば、翌日金曜しかない。やむなく2晩目はキャンセル…した翌朝9時半、ザグレブに電話したら、業務時間は朝9時〜12時だという。ザグレブまでは少なくとも3時間…間に合わねえ。しかも、月曜は8月15日。カトリック国の祝日。火曜の午前中にいらっしゃいという。

そういうわけで、キャンセルをキャンセルし、とりあえずやはりポレチにもう一泊することにした。泊まっていたのはポレチの湾に浮かぶ小さな島のホテル。その離れのような19世紀の城館のスイートを当初2泊取っていたのだが、キャンセルした分は即座に埋まっていて、2泊目は本館の通常のホテルルームになった。しかしよくよく考えてみれば、中途半端に急いでザグレブに行っても仕方がない。子どもたちにも海辺の方がいいだろう。そう思って、さらに2泊、とどまることにした。だがハイシーズンのしかも連休。ホテルは満杯で、フロントの女性は近くの系列の宿にも問い合わせてくれたのだが、どこも塞がっている。ややあって、もう一人のフロント係のおじさんが、ちょっと待て、と奥に引っ込んで何やら相談して出てきた。この島全体がこのホテルのもののようで、離れの城館のさらに背後に、何棟かの「バンガロー」がある、そこの部屋が空いている、バスタブもTVもないが、という。別にTVなど要らないし、とにかく子連れで一々移動したくもなかったので、その「バンガロー」を見せてもらい、泊まることにした。城館→ホテルの部屋→バンガロー。とある家族の没落の物語。

まあ、バンガローもそんなにひどいものではなく、島の西の海べりで、海に(正確にはその向こうのイタリアに)沈む夕日がよく見えたし、屋根裏には鳩が巣を作っていてときどきくーくー鳴いていて、朝は起してくれたし(軒端の穴から出入りする鳩を眺めて、なるほどもしかするとこれが鳩時計の原型なのではないだろうかなどと考える)、バンガローと海の間の疎林と草地には、ぴょこぴょこ走り回る野うさぎのすがたが見られたし、決して悪いものではなかった。とにかく4泊、おかげでイストラの海を堪能しましたよ。透明度の高い、水中眼鏡などなくてもかなりの深さまでくっきりと見える水。大小の魚の群れ、ウミウシ、そしてイカまで。スタッフは終始にこやかに親切だった。クロアチアの観光業はうまくいっているようだ。その利害と絡んでいるとはいえ、接客する人々のホスピタリティもたいしたものだと思った。

月曜の朝、陸の街外れに止めてあった車でザグレブへ。イストラ半島を横断してリエカを通り、ディナル山脈を越えて内陸へ。高速道路は本当に高速で走ることができて、最後の市内で少し手間取ったものの、3時ごろ、ほぼ問題なくザグレブのホテルに着いた。この宿も、前日、iPhoneのホテル予約アプリで取った。夏の観光地とは違って、そんなに激混みではないが、家族5人で泊まれる選択肢は多くはなく、適当に取ったら5つ星ホテルだった。しかし法外な値段ではない。海辺から来ると、ザグレブはかなり蒸し暑く感じられた。

翌朝、家族をホテルに残し、タクシーでオーストリア大使館に行った。結局分かったことは、日墺の互いの国民は連続6カ月までパスポートだけで相手国に滞在できることに間違いはないのだった。しかしこれは日墺間の独自の取り決めで、他のEU圏すべてに当てはまるものではないし、他の国、たとえばスロヴェニアの与り知るところではない。スロヴェニアにとってはあくまでも「EU内に3カ月以内」なのだ。同じEUだからオーストリアとスロヴェニアの間では入国チェックはなく、それですんなりスロヴェニアに入ってしまったのだが、現在のEUの外縁を守るスロヴェニアのクロアチア国境の勤勉な官吏によって、「出国」するときになって、僕は不法滞在していたと認定されてしまったわけだ。したがってスロヴェニアの官吏にもどうやら落ち度はない。なんとややこしいことか。スロヴェニアに入った時点で実質違法になっていたわけだが、クロアチアに出ようとしなければ、あるいはクロアチアがEUに入ってしまっていれば、問題は発覚しなかったことだろう。ザグレブのオーストリア大使館は僕の日本出発時の駐日大使館の状況についても理解があり、大使も出てきて話をしてくれたのだが、とにかくオーストリア側としては問題はないので、一番手っ取り早くベストなのはのはザグレブから飛行機でオーストリアに飛んで戻ることだと言う。

話は比較的短時間で済んだ。11時にホテルに戻る。荷物をまとめ、またiPhoneでその日の夕方のザグレブーウィーン便の席を取る。リュブリャナで借りた車を返しに行かなければならないし、リュブリャナの友人宅に少し荷物も残してあったから、妻と子どもたちはいったん車でリュブリャナへ行くことになる。彼らのため翌日のリュブリャナーウィーン便の席も予約。…しようとしたのだが操作に手間取っているうちに席が塞がり、翌々日の便に。小さなプロペラ機しか飛んでいない路線で人数が多いとこういうことになる。

ぎりぎりの12時にチェックアウトし、昼食後、車で出て行く家族を見送り、ホテルのカフェでしばしぼーっと過ごしたあと、タクシーでザグレブの空港へ。正味35分のフライトでシュヴェヒャート着。

リュブリャーナ

2011年8月9日 火曜日

五年ぶりのリュブリャーナ。この間の変化に驚く。リュブリャニツァ河畔には遊歩道が整備された。青空市場の北側には、かつてプレチニクが計画したデザインとは違うようだが、「肉屋橋」が架けられた。それに伴い、かつては味気ない駐車場だったリュブリャニツァ北岸部分に、人々で賑わうプロムナードが延びた。スーパーMAXIの店内もすっきりと小綺麗に整備された。市営バスのジュトンが廃され、プリペイドカードになった。中心部は完全な歩行者天国になり、バス路線も変更された。三本橋前、ブレシェレン広場の、人と車がカオス的に行き交う風景はもう見られない。パリやウィーンにあるような市営のレンタルバイクスポットが各所に設けられた。街角のゴミ・資源回収ボックスが地中埋め込み式の新たなデザインに変わった。城山にケーブルカーが設けられた。かつてカフェしかなかった城にレストランができた。
総じてますます小綺麗に、「西欧的」になっている。

20110809-102309.jpg

スロヴェニアの小学校の人工岩壁

2009年10月18日 日曜日

近頃はボルダリングが流行りだしているらしい。wander-z さんのボルダリングジムの人工岩壁の画像を見て、そういうものがスロヴェニアの小学校にもあったことを思い出した。

日本の学校は、どうやら法で定められているわけでもないのに、どこもそれなりの広さの「校庭」を備えている。ヨーロッパの学校は、あの「プチ・ニコラ」を読んでも分かるとおり、街中のふつうの建物で、校庭と言えば狭い内庭しかないところが多い。

数年前、子供がスロヴェニアのリュブリャーナで半年ほど通っていた小学校は、城山の麓にあり、やはりごくごく狭く細長い裏庭のような「校庭」しかなかった。背後はすぐ石垣で、その上を、斜面を登る道路が通っていて、いく筋かの住宅があった。その端の校舎の壁に、ボルダリングジムのような登攀用の突起が付けられていたのだった。高さはせいぜい2メートル程度。シュタイナー系の私学だったが、この設備はシュタイナーよりもスロヴェニアであればこそだったのではないかと思う。

山口由美さん(『世にもマニアな世界旅行』)の表現で言えば「小さくて体育会系の国」、スロヴェニアは、ヨーロッパアルプスの東端に位置していて、登山が「国民的スポーツ」だということになっている。旧ユーゴの最高峰でもあったトリグラウは、標高はたかだか2864mとは言え、森林限界はかなり低く、非常にアルペン的で急峻な石灰岩質の岩嶺。森林限界も2500メートル辺りだと思う。富士山に登らずば日本人にあらずみたいなつまらない台詞と同様、トリグラウに登らずばスロヴェニア人にあらず、みたいな言い回しがあるようだ。ちなみにぼくとかみさんはかつてトリグラウの肩にあたる小トリグラウまで登った(そう言えばその話はまだ書いていなかった)が、知り合ったスロヴェニア人はほとんど登ったことがない奴ばかりだった。(と言う自分は富士山に登ったことがない。)

スロヴェニア語辞書を「辞書」アプリで

2009年1月19日 月曜日

slovar.pngスロヴェニア語-英語-日本語辞書データが Mac OS X の「辞書」アプリで利用可能になっている。Slovarji.net で利用できるデータを Mac OS X 用に変換したものの模様。

blog 0-12 GMTから Slovenian-English-Japanese.zip をダウンロードし、解凍してできた “Slovenan-English-Japanese.dictionary” フォルダを “~/ライブラリ/Dictionaries/” に入れるだけ。

スロヴェニア言語・文化シンポジウム

2008年5月15日 木曜日

Flag_of_Slovenia.png6月に東大駒場で「スロヴェニア言語・文化シンポジウム」が行われます。

2002年だったかな、に続いて2回め。「スロヴェニア語文学の父プリーモシュ・トルーバルの生誕500周年およびスロヴェニアがEU議長国を勤める2008年を記念して」というサブタイトル(?)が付いています。

トルーバルは、プロテスタントの聖職者で、スロヴェニア語で初めて書物を書き、聖書のスロヴェニア語訳をやった人物。ルターの聖書ドイツ語訳の仕事と同じように、スロヴェニア語の原点と見なされているようです。そういうわけで、ハプスブルク治下にあったスロヴェニアは現在も圧倒的にカトリックであるにもかかわらず、宗教改革記念日は祝日だし、トルーバルもナショナルな偉人として扱われているわけです。この前まで使われていたトラル札、10トラル札には彼の肖像が入っていました。

trubar.jpg2008年はトルーバルの年(The Year of Trubar 2008)として、様々なイベントがあちらこちらで行われるらしい。トルーバルが客死したドイツのテュービンゲンでも、記念行事があるようです。(でもここ↑のイベントカレンダーには駒場のやつは入っていないけど…。)

プログラムはこちら:スロヴェニア言語・文化シンポジウム プログラム

第一回のときもお招きいただいたのですが、錚々たる学者・研究者の方々のなかで、ぼくだけアマチュアみたいなもの。相変わらずスロヴェニア語はダメだし。言ってみればたんなるスロヴェニア・ファンです。まあ、そんな視点からでも、ひょっとしたら何か貢献できることもありえないではないと考えることにして、今回も末席を汚します。

ちなみに、Trubar の生家はリュブリャーナから28キロのラシツァ Rašica にあり、現在、トルーバル記念館になっているようです。
Ljubljana Tourism の Rašica に関するページ
Slovenia Info のトルーバル記念館に関するページ
トルーバル記念館 Trubarjeva domačija Rašica
tel. +386 (0)1 788 10 06

スロヴェニアを知るための本

2008年5月10日 土曜日

独立から十数年経って、スロヴェニアに関する「概説書」は既にいくつか出ている。
まずはイギリスで出版されているこれ(英語)。
Slovenia and the Slovenes (REPRINT DUE JULY)

それからドイツのこれ。

SlowenienSlowenien.

クセジュの「スロヴェニア 」はすでに日本語にされているけれど、あまり翻訳がうまくいっているとは思えない。訳者の千田善さんは、自ら書かれている通り、あまりフランス語が得手ではないようだ。それでも、千田さん自ら付加された地図や図表はさすがにこの地域の専門家の仕事で、このおまけのためだけにも日本語版は手に入れる価値がある。

イタリア語でも、もしかしたらロシア語やチェコ語やセルビア語でも、ひょっとしたら韓国語でもありそうだけれど、それは残念ながら僕には分からない。

最近、日本でも、ついに「地球の歩き方」シリーズのガイドブックが、かつては「中欧」とひとくくりにされた巻のみだったのが、「A34 クロアチア/スロヴェニア」という一巻が独立した。記述は表面的だし、地名のカナ表記は相変わらずデタラメもいいところ(トリグラウはやっぱり「トリグラフ」にされている)だが、ぼくがハントケの『反復』だけをたよりにスロヴェニアに行った1994年から考えると、隔世の感がある。

最近知ったのだが、山口由美さんという旅行作家の方の『世にもマニアな世界旅行』(新潮社)には、ナミビアだのボルネオだのアラスカだのコスタリカだのの間に挟まって、スロヴェニアが登場している。2004年の出版。この前、ウチがリュブリャーナに滞在した前の年に出ていたのだ。「せっかくだから、日本人のあまり行かない国がいい。名前を聞いてもイメージすら湧かない国がいい」という「マイナー路線」で「行き着いたのがスロヴェニアだった」のだそうだ。あまり小さい小さい、マイナー、マイナーと連呼されると、ぼくなどはうーんと思ってしまうが、さすが旅のプロ、さほど長くもなさそうな期間にリュブリャーナ、ピラン、シュコツィアン、イドリヤ、ブレットと回って、的確な観察を記している。で、結論的に、スロヴェニアは「小さくて体育会系の国」なのだそうだ。いいところを突いているなあ。

プレチニク Plečnik (5) あれも、それも、これも、どれもプレチニク

2008年3月30日 日曜日

Kako čas hiti! 月日の経つのが恐ろしく早い。スロヴェニアから帰って来てもう丸2年経ってしまった。「リュブリャーナ日記」として滞在記を書いていた頃、書きかけたまま放置してあった記事がまだかなりある。これからでも、出せるものは少しずつ出していこうと思う。

プレチニクの建築についても、いくつか紹介してきたが、彼の作品はまだまだいくらでもある。さすが「プレチニクのリュブリャーナ」だけあって、リュブリャーナを歩いていると、犬でなくても、いたるところでプレチニクに当たるのだ。関係ないけど、リュブリャーナでは犬の糞を放置していく飼い主が多い。パリほどひどくはないけれど、ちょっと気をつけて歩かなければならない。

ええと、いたるところにあるプレチニクの話。たとえばぼくらの住んでいたアパートのすぐ近くのこれ。

アイロン (1933-34)

peglezen.jpg
「アイロン」Peglezen

非常に細長い三角形の土地に建てられた建物。青空市場のほうを向いた鼻先には旗の掲揚ポールがある。

鋭角な三角形の狭い敷地に建てられた作品。土地が高価で狭隘な日本ではありふれているかもしれないが、こちらではかなり稀なチャレンジだったのではないかと思われる。その形から「アイロン」 peglezen と呼ばれている。一階にはちまちました店舗があり(一番手前は衣料品店で、『グッバイ・レーニン!』──あの映画は旧東独の話だが──で、ドイツ統一後、主人公の姉が赤ん坊に向かって、ほーら、あたしたちこんな代物を着ていたのよ、と見せる古着のような衣類が飾ってある)、上は住居。ウチの住んでいたアパートのあるポリャンスカ通りの入り口にあって、最初からよく目にしていたのだが、それがプレチニク作品の一つだということに気づいたのはしばらくしてからだった。

1階の南面は6つのアーチ状の窓。そのアーチのそれぞれの上に、2階の窓が2つずつ。3階の先端は4対の柱に囲まれたガラス張りの温室状の空間。その後ろの部分にはもう1階あり、小さな窓と軒蛇腹が目立つ。先端部が3階、後ろが4階というのは、高さの低い市場周辺の建物と、背後のポリャンスカ通りの建物(当時の計画では)の高さとを繋ぐ意図があったという。今でもすぐ後ろの建物は一回り低いのだが。
あと、この建築で面白いのは、屋内の階段。踊り場で180度折り返す階段は、1階から踊り場へ、踊り場から2階へと、つねに下が幅広く、上が狭く作られている。パースペクティブ上のトリックが仕掛けられているわけだ。(日本でも古くは鎌倉の鶴岡八幡宮参道の段葛がそうだ。)

ピオニール・ハウス (1938-1941)

pionirski_dom1.jpgリュブリャーナの鉄道の駅の北側の殺風景なベジグラート地区にずどんとたつピオニール・ハウス Pionirski dom。現在は青少年文化センターとして使われており、スロヴェニア語教室の会場にもなっている(そうそう、以前に書いた「自販機で博打」の話はここのことだ)。野球場のような丸い外観。実際は、上の開いたΘ(シータ)型になっている。

pionirski_dom2.jpgこのΘの真ん中の横棒の部分が、両サイドからの入り口と、それに続く列柱に囲まれた階段になっている。このあたりにやはりプレチニクらしさが感じられる。

元々神学校のための建物として構想されていて、Θという文字にしても、ギリシャ語の「神」テオスの頭文字なのだ。ぼくらが見るとすぐに野球場を連想するのだが、プレチニクが野球などというものを知っていたとは考えにくい。モデルはローマ人たちのコロッセウムのようだ。

festivalna_dvorana.jpg
この画像のみスロヴェニア観光局のサイトより拝借

3分の2ほどできあがった1941年、戦争で建設は中断。戦後、T. ビテンツによって完成された。

リュブリャーニツァ川水門 (1939-1944)

wehr2.jpgリュブリャーニツァ川に沿って、プレチニク作品として誰の目にも留まる三本橋と青空市場を過ぎ、ドラゴン橋も過ぎてしばらく歩くと、水門がある。ウチの住んでいたアパートからだと、前の通りを「アイロン」とは反対方向にほんの少し歩いたところ。以前に書いたゲリラ的ミニ食料品店の少しだけ先。これもプレチニクなのだ。

wehr1.jpg両岸と中央に相似形の箱形の塔。凝った軒蛇腹のついた屋根を載せ、市の中心部側、上流側には三匹のドラゴンの頭の付いた水盤型の装飾があり、下流側には、渦巻き模様と人の頭部の彫刻が施されている。水門のメカニカルな機能を覆って、少々エジプトっぽくも古典的な印象を与える作品。写真は2006年3月11日に撮影。雪だったのだ。

wehr4.jpg

参考:
Peter Krečič, Das Ljubljana von Plečnik. Cankarjeva založba, 1991
Andrej Hrausky & Janez Koželj, Archictectural Guide to Ljubljana. Darila Rokus, 2004

うつくしい水が飲みたい。

2007年2月15日 木曜日

うつくしい水が飲みたい。関西の水をなんとかしてほしい。

radenska%20light%20sml.JPG.jpg

時々訪れるスロヴェニアのアルプス山中、ボヒン地方のカムニェという村のヴァカンスアパートの水道水はとてもおいしい。それがいい水であることは、洗い物をしていても如実に分かる。ほんの少しの洗剤でも、食器の汚れがさっと落ちるのだ。水が生きているのだ。そういうことを家人が家主のアドルフおじさんに言ったら、わが意を得たりというふうに、そうだろう、そうだろうと嬉しげだった。ほんのちょっと下流の、ボヒンスカ・ビストリツァの水は、もう違うのだという。家人は水に手触りがあるということをボヒンで初めて知った、と言っていた。

スロヴェニアのあたり、いやヨーロッパはたいていの土地で、水はいわゆる硬水なのだが、そんなことは問題ではない。もちろん Radenska のミネラルウォーターはいつも購入して愛飲していたが、水道水もいい水であることは間違いないのだ。ドイツでは水道水は直接飲むものではないなどと言われる。たしかに、ポット類には、ほんの少し使っただけで、かなりの石灰分がこびりつく。でもそれは、実はどうもたいした問題ではないという気がする。水の善し悪しの基準になるものは、もっと別なところにあるようだ。

少し前に、オーストラリアのクイーンズランド州が水不足に対処するために下水を処理して飲用水にするという話がニュースになっていて、淀川水系ではそんなのとっくの昔からやっていることじゃん、と思っていたら、案の定、Slashdot でそういうコメントが付いていた。

今僕は関西に住んでいる。もともと腸が弱いのだが、たぶん関西に移った10数年前からは殊に、慢性の下痢に悩まされるのを通り越して、自分の腸が過敏なのだ、こんなものでノーマルなのだと思ってきた。昼にラーメンを作って食べると、あとが調子悪い。寝る前にウィスキーをロックで飲むと、翌日調子が悪い。

なんでこんなことを思いつかなかったのかと思うが、少し前から、極力水道水を摂取するのを避けて、コーヒーもラーメンもその他の料理もスーパーで買った水を使うようにしたら、下痢がほとんど止まった。ラーメンはスープもほとんど飲んでしまう性癖で、その水が問題なのだった。ウィスキーはどうやら水道水で作った氷が問題だったらしい。もちろん、浄水器は使っているが、このあたりの水道水、ちょっとやそっとの浄水器ではどうにもならない。

実家のある神奈川県では、思い起こしてみれば、これほどひどくはなかった。神奈川県の水源である相模川は、上流に大都市がないからだろう。

大阪周辺の水が悪いことは周知のことだ。それでも、浄水施設の性能向上によって、最近はずいぶんよくなっているのだとしきりに言われる。しかしそれでもいまだにダメなことは、僕の体が証明している。何かが浄化し切れていない。それが何なのか、それを取り除くには何が必要なのかは、おそらくいまだに明らかにされていないのだろう。

淀川水系だけではない。西宮は酒どころのはずだし、六甲の「おいしい」水も製品になっている。いずれも相当深いところから取水しているのだろう。そうでなければ、まともな酒ができるわけも、「おいしい」水がとれるわけもない。おそらく日本の山地でも最も古くから開発の進んだ六甲山の沢は、ほとんどどれも、下水の匂いがする。ことにゴルフ場の下流など、ひどいものだ。

徳島出身で近くに住んでいる友人がいる。彼女の知り合いに関西ネイティブの米にうるさい人がいて、ではその米を炊く水はどうするのだと尋ねたら、え、普通の水道水だよと言われて、その人の「グルメ」を信用するのはやめた、と言っていた。僕は深く同意する。関西に生まれ育ったら、こんな水でも平気なのかもしれない。しかしそういう人々の感覚を信用する気には、とうていなれない。

バケーションになると・・・

2006年8月5日 土曜日

5月にも入ると、我が家の前のリュブリャニッツァ沿いの
フリーパーキングスペースには毎夜キャンピングカーが数台並ぶ。
我が家ではこれが一種の”夏を告げる”風物詩みたいなものになっている。
十中八九がイタリアナンバー。恐らく、リタイア組。
中にはフランスから来ているキャンピングカーもいる。

これが、7月にもなると、ハイウェイは他国ナンバーで溢れる。
ヨーロッパのナンバープレートにはそれぞれの国コードが青地に
白で書かれているか、(EU加盟国だけかな)

120px-DE_car_registration_plate.jpg

楕円形の国コードの表示されたステッカーを車体に貼るのが風習。
(規則かな)

si_00001.jpg

ヨーロッパ各国の車が、バルカン半島を南下したり、
ギリシャ、果てはトルコまで(ってのはあまり聞いたことがないけど)行くとなると、
スロベニアは一瞬の通過点となる。

なので、移動していくヨーロッパ人をよくハイウェイで観察しているのだけど・・・
するとちょっと面白いお国柄が幾らか垣間見られる。

一番目立つNLナンバープレート。
そう、オランダ人。大体牽引式のキャンピングカーを付けている。

poroco01083.jpg

これもまた、十中八九、牽引式のキャンピングカーがNLナンバーだと言って
過言ではないと思う。
時にはスロベニアのハイウェイをキャラバンのように黄色いナンバープレートで
牽引式キャンピングカーが悠長に連ねて走っていたりする。
体格のよい彼らは決して大型では無い車に、(私たちから見れば)
ギュウギュウになって乗っている。
でも、何故かイタリア人の様なエンジンのついた居住性あるキャンピングカーではなく、
牽引式のものが定番。移動する間も広いほうがいいと思うけど。
キャンプ先に着いてからの移動性を考慮してなのかな。

さて、私たちも先日、初めて車で移動、のバケーションを味わって来た。
片道700km弱、行った先はクロアチアのドゥブロブニクだったのだけど、
丁度バケーション真っ盛り、ドゥブロブニクにも他国ナンバーが溢れていた。
私の友人曰く、
「イタリア半島がクロアチアコーストにカット&ペースト」された状態。
幸い平日の夕刻リュブリャナを出発したので、
渋滞に巻き込まれる事はなかったのだけど、
確かに、帰路、反対車線の南下する車の半分はイタリアナンバーだった。

他には、勿論スロベニア、A(オーストリア)、D(ドイツ)が目立つ。
観光用の看板もドイツ語、クロアチア語、イタリア語の表記。
しかし意外だったのはSL(スロバキア)、PL(ポーランド)、CZ(チェコ)、
(H)ハンガリーナンバーが思ったよりいたこと。
でも、よくよく考えてみれば、これらの国には泳げるような温かい海がないからか。

そして、運転にも特徴がある。
ハイウェイで追い越し車線をパッシングしながら飛んで走るのが、
D(ドイツ)か、A(オーストリア)ナンバー。
しかも、これもまた十中八九、アウディ。
そこにきて、イタリア人はハイウェイではなく、ワンレーンの対面相互の道で
チョロチョロと隙あれば追い越そうと狙っている。
(勿論地元のHRコード(クロアチア)をつけた車は一枚上手だけど)

しかしながら、全くと言っていいほど見かけないのがスペインの車。
彼らは国内で楽しんでいるのか、車で移動するバケーションの風習がないのか、
気になるところではある。

しかし、それより何より、今回のドゥブロブニク旅行中、車のナンバープレートに関して
ずーーっと気になった上、全く解決していない事項がある。
それは、クロアチア内で何台も”カリフォルニア”ナンバーを見かけたこと。
ドゥブロブニクで見かけた際、私は友人にすかさず
「どうやって、来たのかしら・・・?」、とつぶやいたのだけど、
返って来た応えは、「DHLだよ。三日で届くね。」と。
その時は、私ものって「そうね、それがグローバルスタンダードだもんね、」
なんて、テキトウに返答したのだけど、
その後も何台か”カリフォルニア”ナンバーでHRの楕円ステッカーを貼った車を見かけた。
         images.jpg
こういうプレートを付けた、HRステッカーの車。

これ以外にも、クロアチアはナゾの多い国でしたが、どなたかこのナゾ、解いて下さい。

ラン・ローラ・ランの中のトラル

2006年8月4日 金曜日

lola_tolar.jpg
Lola rennt

最近復活した The Glory of Carniola に出ていた記事。Run, Tolar, Run。何回も観たはずなのに、これは僕も気がつかなかった。1998年のドイツ映画で、かなりヒットした『ラン・ローラ・ラン』 Lola rennt の中に、スロヴェニアのトラル札を拡大した画像が出ていたのだ。その「第二ラウンド」で、ローラが父親を人質に銀行の現金出納窓口に入り込んで10万マルクを要求するシーン。その窓口後方の壁に、大きく引き伸ばされた100トラル札の画像が掲げられているのだった。なんで?

このトラル札が造られたのはスロヴェニア独立の年1992年。フランカ・ポテンテ主演、トム・テュクヴァ監督の『ラン・ローラ・ラン』が公開されたのは1998年。ドイツの通貨がマルクからユーロに替わったのが2002年1月だから、ローラはまだユーロではなくてマルクを要求している。

ローラの父親の銀行は Deutscher Transfer (もちろん架空)ということになっていて、名前からして外国との間の送金業務を柱にしているかしてきたはずで、そこに外国紙幣が飾られていてもおかしくはない。でもこんなところにトラルがあった、というのはやはり意外だった。そしてそれがなぜトラルでなければならなかったのかはまだ分からない。

Bankovec_100-1992-front.jpg
出所

ここに出てくる100トラル札に描かれているのはスロヴェニア印象派の画家リハルト・ヤコピッチ Rihard Jakopič (1869-1943)。

ユーゴスラヴィアのディナルに替わって登場したスロヴェニアの通貨トラルは、The Glory of Carniola でも触れられているとおり、来年早々にユーロに置き換わる。100トラルは現在日本円にして62円弱。スロヴェニア国内だと、やっぱり100円くらいの感じがしていて、在SLO中はさんざんお世話になった札だ。それが、それだけではなくあらゆるトラル札・硬貨がなくなってしまうのは少々さびしい気がする。

ついでに、トラルの話には関係ないけれど、今回ドイツの Wikipedia の記述を見ていて、『ラン・ローラ・ラン』の作中、マーニ(モーリツ・ブライプトロイ)にテレフォンカードを貸してくれる盲目の老女を演じているのは、ブライプトロイの実の母親、モニカ・ブライプトロイだということを初めて知った。