‘Musik’ カテゴリーのアーカイブ

公開レッスン通訳終了

2007年11月18日 日曜日

通訳の仕事が終わった。ウィーンの音大のR先生の、関西での2回の公開レッスン。

1回目は10日ほど前。音楽学部を持つある大学のホール。前半は先生の小リサイタル、後半が優秀な学生二人のレッスン。先生と生徒の間のコミュニケーションはうまく手伝うことができたのではないかと思った。やってみて改めて感じたのは、この仕事は、ドイツ語が多少できても、音楽や楽器についても相当以上に分かっていなければ無理だろうということだ。同じ先生の東京でのレッスンでは通訳降板劇があったとも聞いた。

先生と生徒の間の媒介はできたと思う。のだけれど、公開レッスンの場合、もう一つ、そこで語られていることを客席の観客・聴衆の方々に分かりやすく伝えるという責務があって、一回目はそちらの方向にはあまり神経が行っていなかった。

この1回目は、かなりの大きさのホールで、とりわけ人の声は、マイクを介しても、明瞭に出さなければ伝わりにくい空間だったのだとも、あとから聞いた。そういう会場でのこういう仕事は初めてだったから、「至らぬ点」が多々あったわけだ。どちらかというと、黒子っぽく控えめに出てきてさっと引っ込もうという方向に気が行っていた。しかしそれだと、客席の人々にはよく伝わらない部分が多くて、うまくなかったらしい。主催側に噛んでいる世話役の方のお一人からは、takuyaさん自身がレッスンをしているかのように話してくださればよかったんですよ、とアドバイスされた。

大昔、スメタナ四重奏団メンバーの公開レッスンを東京で聴きに行ったことがある。場所は忘れたが、かなり大きなホールだった。通訳は黒沼ユリ子さん。今から考えると、チェコ語、弦楽器という組み合わせでは最善の通訳だっただろう。客席のぼくらは特に通訳を意識することもなく聞かせていただいた。それだけ通訳も上手だったということだと思う。これもかなり前、京都の小さな会場で行われたアマデウス四重奏団の生き残りメンバーの公開レッスンを見にいったこともあるが、そのときは公開レッスンの通訳固有の問題以前に、通訳の女の子のドイツ語がまるでダメだった。
 
初めてだからという言い訳が効かなくなる2回目。1回目の経験が活かせるし活かさなければならない2回目。今度はヴァイオリンの先生たちの協会が主催で、小4から高1までの子どもたち7人。みんな難しい曲をよくさらっている。一人30分〜45分で、間に短い休みを入れたとは言え、午後1時から6時近くまで。R先生にとってもぼくにとってもかなりの持久戦。1回目の経験は多分活かせたのではないかと思う。生徒に対して日本語にしてあげる言葉が、できるだけそのまま客席にも理解されるものになるよう、あるいは補足する言葉を増やすよう心がけた。一回り小ぶりなホールだったこともあって、客席側に声が聴き取りにくくなるということもあまりなかったようで、わりあいご好評をいただいていたようだ。

僕は別に通訳のプロでもなんでもない。大昔、学生としてボンにいたとき、ベートーヴェンの生家の付属小ホールを建てる話があって、まさにバブル期だった日本から資金集めが行われた(今では考えにくい)。その日本側窓口がD通で、その担当が東京の大学時代の音楽仲間だった。それで頼まれて彼とベートーヴェンハウスの館長さんとの間の通訳をやったことはある。ホールは無事建ったのだから、それなりの資金が集まったのだったのだろう。他にもほんの数件、いずれも学生時代のほんのちょっとしたバイトだけだった。

今回の2回は、もちろん疲れたけれど、まあ楽しくやらせていただいたし、音楽的にも当然勉強になった。
そしてこういうレッスンの通訳という仕事。こういう仕事一つとっても、そのスキルの奥の深さには計り知れないものがありそうだ。

もっと練習しま〜す!

2007年10月23日 火曜日

ピアノ三重奏の舞台が終わった。細かい擦り傷切り傷はたくさんあったけれど、全体としてはそれなりにスジの通った「音楽」になっていたのではないかと思う。(いや、骨折もあったかな…。)yorikoさん、kaikenくん、お疲れさま・ありがとう。

ところで、昔、70年代くらいまでかな、日本の観光地では、観光地の名前の入った、フェルト製で横長の三角形の「ペナント」なるものを売っていたと記憶する。いつの間にか廃れたようで、もはや見かけない。起源も終焉も謎。少し調べていたら、ニッポン観光ペナント展示館なるサイトに行き当たった。何というか、すごいなあ。ここの「展示」を見ると、80年代初頭まではまだあちこちで生産・販売されていたらしい。

kueche.jpg

ペナントでも「観光記念」でもないのだけれど、ドイツでは、今でもよく、観光地の土産物屋などで、金属製のジョーク・プレートを売っている。

上の画像は我が家のキッチンの入り口に掲げられているプレート。
「キッチン 立ち入りは手伝う意志のある者のみ」

kinderzimmer.jpg

お次は我が家の子ども部屋の入り口に掲げられているプレート。「子供部屋 立ち入りは自己責任で」



以上二つはいずれも15×20センチほどのサイズで、ドレースデンの土産物屋で購入。


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3番目は冷蔵庫の扉などに貼り付けて紙などを挟むのに使うマグネット。
「コーヒーブレイク 8:00-12:00 昼休み 12:00-17:00 
休憩のあいだは邪魔しないでください」

3×5センチほどのサイズ。ボンのデパートのキッチン用品売り場で購入。

この手のいかにもドイツ的なクサいジョーク・プレートは、ドイツのどこでも売っていて、実にさまざまなバリエーションがあり、僕は実は嫌いではない。いずれも、しっかりした金属製で、文字の部分が裏から打ち出されて、ちゃんとエンボスになっているところがミソ。

同様の内容のシール・ステッカーの類もよくある。そういう中で、あ、ちょっと欲しいかも、と思ったのは、以前、ボン大学のオケにいたとき、ヴァイオリンの誰かがケースに貼っていた

Ich übe noch!

というステッカー。「私、もっと練習しま〜す!」
尋ねたところでは、自動車教習所で手に入るのではないかということで、もともと運転を習いたての人が車に貼るものらしい。でも車より楽器ケースに貼る方がいい。そう思いながら、今に至るまで手に入れられずじまい。ドイツにお住まいの方、売っているところをご存知でしたら教えてください。

ちなみに自動車学校と言えば、ドイツ(おそらくヨーロッパはどこでも)には、日本の箱庭のような教習所はない。自動車学校 Fahrschule はたいてい個人経営らしく、街中に小さなオフィスを構えていて、要するにすべて「路上教習」なのだ。だから細いS字路とかクランクとかの練習もないことになる。

さて、次のピアノトリオの相談もしているのだが、まずは来年2月のオーケストラ本番に向けて、ブラームスの「悲劇的序曲」と交響曲第1番、モーツァルトの交響曲第31番「パリ」。
あ、その前にレッスン通訳のためにドイツ語のブラッシュアップもしなければいけないのだった。いずれにしても、もっと練習しま〜す!

ハイドン「鳥」とクロアチア民謡

2007年10月20日 土曜日

弦楽四重奏を始める人がまず取りかかるのはたいていハイドンの作品で、中学生のときの僕も例外ではなかった。なかでも明朗な作品33、その中でもポピュラーなのが「鳥」の愛称のある作品33の3(Hob. III:39) ハ長調だろう。中野博詞は作品33の明るさ軽快さのよって来たるところを18歳年下の歌手ルイジア・ポルツェリとの恋に帰している(『ハイドン復活』春秋社、1995、115-116ページ)が、それはともかく。

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作品33を、ハイドンの「まったく新しい特別な方法」で作曲したという言葉に結びつけ、さらにモーツァルトの「ハイドン・セット」への影響を云々するのが(チャールズ・ローゼンに到るまで)解説の定番だが、最近初めて知って面白いなと思ったのが、この終楽章(2/4拍子)ロンドの主題がクロアチア民謡にもとづいているということだ。



第4楽章のレガートで短調の第二主題がマジャール(ハンガリー)的であることは誰もが気付くが、この楽章冒頭のスタッカートの第一主題がそもそも「コロ」と呼ばれるクロアチア(フェーダーはダルマチア=クロアチア海岸部やボスニアの、と言っている)民謡に拠っていることは、あまり言われていないし知られていないように思う。それを知ったのは、Georg Feder. Haydns Streichquartette. Ein musikalischer Werkführer. Beck, 1998 (S.61-62) から。(楽譜の画像も同所より。上がクロアチア民謡、下がハイドン。)

haydn_kolo.gif

(クリックで拡大)


iTunes Store: コダーイ四重奏団による作品33の3、第4楽章
icon(試聴できるのは第二主題部分)

フェーダー(ハイドン研究の大御所の一人らしい)が典拠として引いているのは、1880年や1900年のハイドン研究論文で、実はかなり古くから指摘されていた事実のようだ。憶測だが、ハイドンの音楽が南スラブの民俗音楽に負うものがあるなどということは、20世紀の政治的気候(二つの大戦、東西対立)の中ではまともに取り上げられなかったのが、21世紀に入る前後の政治変動によって、改めてきちんと認識されるようになったということではないかと思われる。

クロアチア語は分からない。僕の貧弱なスロヴェニア語の知識から類推で分かるのは、Jer sam mlada がスロヴェニア語の Ker sem mlada (だって私(女)は若いのだから)だろうというあたりだけで、いずれちゃんと知りたいなと思っている。フェーダーも歌詞の訳は付けていない。たぶんフェーダーも分かっていないのだろう。(分かったらどうだというのではないけれど。ハイドン自身は…歌詞は分かっていたかもしれないし、分かっていなかったかもしれない。)

フェーダーはコロ kolo とは「車輪」のことだと注釈しているが、どうやら「歌と器楽伴奏によるクロアチア・セルビアの舞曲」を指すらしい。


そして kolo で検索すると、たとえばこんな団体が出てくる。





フェーダーの解説によれば、この楽章の冒頭のチェロが高目の音域に置かれ、重音の内声とともに、音高の点で全パートが密集させられて、四六の和音になっている。これが、民俗音楽的な色彩を強めているという。

たまたま手元に Croatia, 21 Favourite Songs なる怪しげな CD が、いつどこで買ったのか、転がっていた。オーストリア製。解説もなければそもそも演奏者も記されていない。引っ張り出して聴いてみると、そのものずばりの曲は入っていなかったが、タンブリッツァというのか、おそらくマンドリンのような撥弦楽器が中心になって演奏される軽やかな2/4拍子の曲(たいていポルカの名が冠されている)は、たしかに「鳥」の終楽章冒頭にそっくりな音型に満ちている。Tambracka Polka という曲の冒頭部分:

ハイドンとクロアチアというと、一瞬虚を突かれるような気がするかもしれない(僕はそうだった)が、現代のクロアチアもハンガリーと長い国境線で接している。かつてクロアチアはハンガリーの実質的な支配下にあり、ハンガリーはハプスブルク帝国の主要部分をなしていた。エステルハージ家に仕えていたハイドンにクロアチアの民俗音楽に接する豊富な機会があったであろうことは、考えてみれば想像に難くない。

europakarte.gif
ハンガリーとクロアチアは国境を接している。

僕はこのことを知る前は、この楽章冒頭の三度で飛び跳ねる8分音符も、たんに鳥のさえずりの一種として捉えていた。それ自体は誤りとは言えないだろうし、このメロディがそれだけ曲全体の中に見事に統合されているということにもなりそうだが、タンブリッツァの調べと聴き合わせてみると、この曲も、また少し違った見方ができそうな気がしてくる。

この前8ヶ月、クロアチアの隣のスロヴェニアに滞在したときには、少なくともザグレブには、一度は出かけようと思いつつ結局機会を失してしまった。僕にとってクロアチアと言えば、まだぎりぎりユーゴスラヴィアだった時代に訪れたドブロヴニクの記憶だけだ。この次行くチャンスがあったら逃さないようにしよう。


その後知ったのだが、Wikipedia 英語版には既にずばり「ハイドンと民俗音楽」という項目があり、クロアチア音楽についても一項が割かれている。 
これによれば、交響曲104番「ロンドン」終楽章の冒頭主題も、103番「太鼓連打」終楽章の冒頭主題も、それどころかあのドイツ国歌になっている「皇帝」四重奏の変奏曲主題も、クロアチア音楽起源だという。ただし「鳥」についてはここには言及はない。

ハイドンがクロアチア音楽に負うものを明らかにしたのは19世紀末のクロアチアの民俗学者フラニョ・クハチ、それを英語圏で紹介したのがヘンリー・ハドウだそうだ。ハドウの本の一部はネット上で読め、ここで「鳥」の主題についても触れられている。

ロスヴィータ・ランダッハー公開レッスン

2007年10月19日 金曜日

ロスヴィータ・ランダッハー公開講座(相愛大学)randacher.jpg
2007年11月6日(火)18時15分〜20時30分
相愛大学南港ホール
入場無料

ロスヴィータ・ランダッハー公開レッスン(日本弦楽器指導者協会)
2007年11月17日(土)13時〜18時
新大阪ムラマツリサイタルホール
入場料:当日2000円、前売り1500円

ウィーンのヴァイオリニスト(ウィーン国立音楽大学ヴァイオリン演奏科教授)、ランダッハーさんの関西での2回の公開レッスンの通訳を引き受けることになりました。(ぼくは関わっていませんが、東京でも10月27日に公開レッスンがあるようです。)相愛のほうはランダッハーさんの演奏のあと、大学生二人のレッスン。ムラマツホールのほうは小中高生の受講者。それにしてもみんな難曲を弾きますね。

大阪(11月8日)、東京(11日)、広島(13日)でリサイタルもあります。詳しくは「ロスヴィータ・ランダッハー来日公演」サイトでご確認ください。

肩当て

2007年10月18日 木曜日

新しい肩当てを買った。カナダの Mach One というブランドのもの。2000年になって新たに出てきた肩当て。製作者の名前が Peter Mach さんであるらしい。西宮北口の弦楽器店で、弓の毛替えに行ったついでに7千円あまりで購入。

machone.jpg

Mach One はカエデ材から一つ一つ削り出されている。これまで使っていたプラスティック素材の VIVA LA MUSICA(KUN に近いタイプで、スロヴェニア!製)のものと比べて、楽器自体の音色が格段に良くなる。倍音が増える感じだ。ネット上のショップの売り文句や個人の評を見ると、装着感のよさを前面に押し出している場合が多いようだが、決定的なのは音色だと思う。木の楽器に付けるものだから、木で作るというのが正解なのだろう。(Mach One ブランドでもプラスティック製のものもあるらしい。)

肩当ては使わない方がいいのだと主張する人もいる。が、たいていの場合、根拠は明確ではない。体格にもよるだろう。かつて、自身猪首のEというヴァイオリニストが、弟子にも肩当て無しを強制していたというような話も聞いた。どのていど正確か分からないが、昔はスーツの肩にはパッドを入れてあるのが当たり前で、だからこそ肩当てなど当時は不要だったのだという話を読んだ記憶もある。肩当てを排除する唯一説得的な根拠は、楽器の響きを阻害するというものだが、Mach One ならその点は問題がないか、きわめて小さそうだ。

佐々木朗氏のサイトによれば、Mach One は当初はもっと薄く作られていた。それが、割れてしまったりなどのクレームがあって、現在のものは元のものよりやや厚手になってきているという。これは重量の点ではもちろん、音響の点でも不利だと言えるだろう。そこで佐々木氏は現在の Mach One を軽量化する記事を掲載なさっている。いまこれをやってみようという気はぼくにはないが、木製だから、腕のいい楽器職人さんに依頼すれば、フィット感の調整などはある程度可能なわけだ。しかし割れてしまうというのは、肩当ての問題というより、その奏者の肩と顎に無駄な力が入っている可能性の方が高いように思えるのだが…。

唯一の難点は、これは KUN などの他の肩当てでも同じだが、楽器に装着する脚の部分が演奏中にずれてきて、悪くすると弾いている最中に楽器からはずれてしまうことだ。対策は、脚のゴム部分に松脂の粉を塗ることだと、購入先の楽器店で教えていただいた。なるほど、いつも弓に塗っていて、スポーツでも使われる松脂(野球のピッチャーが使うロージンバッグなど)の役割がすべり止めであることを、すっかり忘れていた。

# 追記:スロヴェニアのツェリエの VIVA LA MUSICA も木製の肩当てを出しているらしい。残念ながら僕はまだ(使って)見たことがない。

ホームコンサート

2007年10月14日 日曜日

第126回ホームコンサートdurenne.jpg
2007年10月21日(日)午後2時
伊丹市立文化会館「いたみホール」
B1F多目的ホール
入場無料

「ホームコンサート」という名のミニコンサート。126回を数えるというのだからすごい。今回はいたみホールだが、甲東園の張記念館で行われることも多いらしい。縁があって、ピアニストのyorikoさんと、炎のチェロ弾きkaikenくんと、今回ここでモーツァルトのピアノ三重奏曲ハ長調 KV.548 を弾くことに。

他には、二台ピアノによるプーランクの曲、ショパンのバラード、フォーレの舟歌、ドビュッシーのヴァイオリンソナタが演奏される模様。われわれの出番は3番目。

しかしモーツァルトなんて、よりによってどうにも誤魔化しのきかない曲を選んでしまったものだ。復習わなきゃ。

# 画像はデュレンヌの『夏の室内楽』Sommerliche Kammermusik。現在はブレーメンの美術館にあるらしい。

ペルナンブーコ2

2007年10月13日 土曜日

弓職人とペルナンブーコ材の現在に関しては、2005年7月16日付けの「ベルリン新聞」紙のヴォルフガング・クーナトの記事が、読みやすく興味深いストーリーとなっている。Magazin とあるから、ドイツの新聞によくある、週末版の付録誌に掲載されたものだろう。掻い摘んで紹介したい。

pernanbuco01.jpg

ペルナンブーコの木。
画像は
Global Trees Campaign より。

主人公は旧東独ドレスデン出身の弓職人ヨッヘン・シュミット氏。ペルナンブーコ、あるいはドイツ名でフェルナンブーク材は子供の頃から知っているが、生きて生えているその木を見るのは初めて。数人の仲間とともに、ブラジルの熱帯林をしばらく歩いて、まれにみる見事な木の前に立った。

ドイツには弦楽器の弓のメーカーが40軒ある。全世界ではその10倍程度。ほとんどが個人経営。全世界で、年間およそ8万本の弓が造られていると見られる。

弓メーカーはペルナンブーコ材が頼りだ。これに代わる素材はない。約250年前から、この木が使われてきた。「ヴァイオリンは弓だ」と言ったのは18世紀の名手ヴィオッティ。楽器本体よりも弓を重視する奏者も少なくない。そのヴィオッティの時代、音楽史上の革命が起こっている。フランスの時計職人だったトゥルテが、弦楽器の弓の形態を完成させたのだ。そのトゥルテがそれまでの素材に替えて選んだのがペルナンブーコ材。

トゥルテの弓は、楽器からより大きな音を引き出すことが可能で、それは時代の要請に適っていた。音楽が、貴族の室内で楽しまれるものから、大ホールで市民が聴くものとなっていったからだ。フランス革命の時期、史上初めて「野外コンサート」が開かれている。この時期に近代的な弓が形作られたのは必然であった。

ベルリン・フィルのヴァイオリン奏者ペーター・ブレムは、楽器も弓も等しく重要だと見なす。彼の持っている弓はいずれも100年ほど経った3本で、価格はどれも約1万ユーロ。「歳をとるほど軽い弓のほうがよくなってくる」というブレムは、57グラムのヴォワランを愛用している。繊細な音楽ほど軽い弓。逆にブルックナーなどでは62グラムのヒルの弓を使う。500ユーロの安弓を使うことは考えられないが、5万ユーロのオールド・ボウを求める人がいるのは理解できる。

シュミットの子供の頃の回想。「オイストラフ、ロストロポーヴィチなど、ソ連のスターがみんな、DDR(東ドイツ)にやってきた。彼らはDDRでカネを稼ぎ、そのカネでDDRで楽器や燕尾服を買った。連中は私の父のところに出入りしていたのだ。」祖父の代から続いてきた弓メーカーとして、DDR時代も経営を続けていくことができた。なんと言っても外貨を稼ぐからだ。だが国がブラジルで買い付け、弓メーカーに割り当てるペルナンブーコ材の品質は粗悪なことが少なくなかった。


※トゥルテ、ヴォワランについては「フランス弓辞典」
あたりをご覧ください。

東側の体制が崩壊したとき、シュミットは、祖母のアドバイスに従って、フォークトラントのマルクノイエンキルヒェンへ行き、ベルナンブーコを買いあさった。マルクノイエンキルヒェンはドイツのかつての楽器製造の中心地で、戦前には150人の弓職人がいた。シュミット「90年代初頭に、たくさんの木を買いましたよ。一部はマイスターが戦争で亡くなった工房で、おかみさんがストックに手を付けていなかったところから。」こうしてシュミットは何トンもの木を手に入れた。「一番いいのは、60年や80年前のものです。最近になるほど品質は落ちている。環境破壊の影響かもしれません。」ともあれ、ヴァイオリンの弓一本の木は40グラムあまり。数トンということは、当面は困ることはないということだ。

vogtland.png
ドイツの中でのフォークトラントの位置。
http://de.wikipedia.org/wiki/Vogtland による。

※フォークトラント。原文では Voigtland となっていたのを訂正。ザクセン州、テューリンゲン州(以上2州は旧東独)、バイエルン州、ベーメン(チェコ)4国の境界付近の地域。シューマンの故郷ツヴィッカウもこの地にある。現在のフォークトラントは、楽器製造の伝統もウリの一つとして、保養地として売り出し中らしい。フォークトラントの観光局サイトを参照。


弓に使われる木材は、加工する前に最低8年は寝かせておかなければならない。だから弓メーカーはすべてストックを持っている。そのため、ブラジルでペルナンブーコが絶滅の瀬戸際にあり、自分たちの仕事が長期的に見て危機に晒されていることに彼らが気付くには時間がかかった。

ペルナンブーコ材の故郷はブラジルの大西洋海岸森林地帯。1500年4月22日にカブラルが初めてブラジルに上陸したとき、ブラジル東海岸の南北130万平方キロを覆っていた。そしてその後のブラジルとは、何世紀にもわたって海岸部だけの国と言ってよかった。もっぱら沿岸部が伐採され、開墾され、開発されてきて、内陸部に人が入っていったのはずっと後になってからだった。

アマゾンの原生林の伐採が国際的に問題視されていたとき、沿岸部の森林については誰も何も言わなかった。それはもはや壊滅状態だったのだ。「アマゾンの森林以上に、大西洋岸森林は、ブラジル最大の環境破壊の悲劇の舞台だったのです」とリオデジャネイロ植物園の研究所長アロルド・カバルカンテ・デ・リマは言う。元の130万平方キロのうち、現在残っているのは、5万2千平方キロにすぎない。それも、小さな切れ端のように、ぽつり、ぽつりと。

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16世紀(オレンジ色)と21世紀初頭(紫色)のブラジル大西洋岸林の広がりを示す。
http://www.ipci-comurnat.org/eng04.htm より。

トゥルテがヴァイオリンの弓に最適な素材としてペルナンブーコ材を発見する以前から、赤色の染色材料としてのペルナンブーコには大きな需要があった。ブラジルがヨーロッパ人によって「発見」されて4年後には、毎月100トンのペルナンブーコがヨーロッパに送られた。当時の船の大きさを考えれば、驚くべき量である。1502年にはすでに、ポルトガル王はこの染料木材を国家独占下に置く布告を出し、それが以後358年間続く。19世紀半ばの合成染料の発明によってこの天然素材は急速に価値を失う。実はその数年前には国家独占の上がりはイングランド銀行によって差し押さえられていた。

不確かな推測に過ぎないが、5世紀のあいだに、2千2百万本のペルナンブーコが伐採されたという。400年前にもペルナンブーコの乱伐を禁止する法はあった。守られていないのは今日の環境保護法も同じだ。今日ブラジルで伐採される熱帯林材の86%、年間3千万立方メートルは、非合法だ。かつてと違うのは、その大部分はブラジルの国内で取引され、外国人を利することはないということだ。

シュミットら弓職人たちは、ペルナンブーコを伐り出すために大西洋海岸林へ行ったわけではない。ペルナンブーコを救うためだ。この木は、500年前から知られていながら、分かっていないことはたくさんある。いまブラジルのどこにどれだけ生えているのか。ペルナンブーコの亜種は3つあるが、その地理的分布はどうなっているか。どのように繁殖するか。遺伝子構造はどうなっているか。どのような土壌や気候を好むのか。栽培し、今後も利用していくためにはこれらは不可欠の知識だが、どれも欠けているのだ。目標は、50万本を植えて、遠い未来の弓製造に利用すること。

現在活動している弓職人のほとんどは、直接その恩恵にあずかることはないだろう。伐採が可能になるのは30年後のことだからだ。よい木は必要だが、それほど大量には要らない。年間250立方メートルほどだろうとシュミットは言うが、もっと大きな数字を挙げる者もある。

仲間の弓職人の多くは、「ペルナンブーコ料金」を価格に上乗せし、また他の職人は金や弓を寄付している。ウィーンのコンツェルトハウスでは、ペルナンブーコの保全のためのチャリティコンサートも開かれた。

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ペルナンブーコ材。上が12年、下が27年のもの。
この赤い心材部分のみが使われるわけだ。
出所:IPCI

ペルナンブーコ木はブラジルのバイア州南部で栽培することになっている。たとえば600ヘクタールあまりの、あるカカオ・プランテーション。農業改革で、土地を持たない52戸の家族に譲与されたものだ。弓メーカーたちは、彼らにペルナンブーコの世話を依頼して金を払う。一昨年(2003年?)からカカオ価格は6割も下落しているだけに悪くない副業だ。遠いいつかこの木が売れるようになって手に入るであろう金だけが目当てなら、今現在のペルナンブーコ材のブラックマーケット価格にも話が行かざるを得ない。だがその話は避けたい。カカオ農園にはすでに成木となっているものも何本かあり、売れば立方メートルあたり140〜300ユーロになるとなれば、農家にとっては誘惑的である。

だがまず現存するペルナンブーコの調査が済まないことには、ブラジルの自然保護官庁 Ibama は商用化の相談には応じない。そうしないと、弓メーカーが、たとえば数十年前に植林された木の利用について交渉することもできないのだ。ストックがますます減ってきている今、これは中期的な問題解決のための緊急の案件なのだが。

特にやっかいな立場に立たされるのはブラジルの弓メーカーたちだ。ペルナンブーコ材の取引はブラジルではおよそ5年前から非合法になっており、彼らのストックの一部も非合法なのだ。弓職人のマルコ・ラポーサは傑作な当座の解決方法を見つけ出した。ペルナンブーコ材は色と音を作り出す目的ばかりに使われてきたわけではない。シロアリにも強いため、以前はしばしば線路の枕木や牧場の柵にも利用されてきた。昨年末から、ラポーサは80本以上の保存状態のよい柵木を買い取ってきた。ひびさえ入っていなければ、その一本一本から10本の弓を作ることができるのだ。

「ベルリン新聞」の記事の紹介は以上。
ポルトガル語やブラジルについて無知なこともあり、思わぬミスを犯しているかもしれない。お気付きの場合はお知らせください。



ペルナンブーコ1

2007年10月11日 木曜日

ヴァイオリンという楽器そのものについて、実はあまり詳しくない。大学生の頃に、ほどほどの楽器を手に入れて(それもいろいろいわくがあるのだが)満足し、1回、そこそこの弓に買い替えて、ずっとそのまま。弾くだけで満足していて、弦楽器の材料に関する知識は、自分で楽器を作ってしまうような人(これが意外と多い)とちがって、まるでない。

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ヴァイオリンの表板がドイツトウヒ (Fichte) で、裏板がカエデだということくらいはなんとなく知っていた。弓に使われる木材のペルナンブーコという名前も耳にしていた。が、そのペルナンブーコがどういう木なのか、全く知らなかった。

あまり詳しい文献を持っていなくて、たまたま手元にあった藤原義章『ヴァイオリンとヴィオラの小百科』(春秋社、1999)にも、佐々木朗『弦楽器のしくみとメンテナンス2』(音楽之友社、2000)にも、記述は多くない。それで、最近ぽつぽつ、あちこち調べてみていた。それなりに色々出てきたので、メモ代わりにここに。


ペルナンブーコはブラジル東部海岸森林地帯原産のマメ科の高木。学名Caesalpinia echinata。ペルナンブーコはブラジル北東部の州の名前で、木の方はペルナンブーコ木(ぼく)と呼ぶのが適当なのかもしれない。ブラジル木とも言うらしい。樹は高さ30m,幹の直径1mになり、幹には棘がある。

これも知らなかったのだが、ブラジルで産するからブラジル木ではなくて、ブラジル木 (Pau brasil) を産するところからブラジルの国名が生まれたらしい。

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ペルナンブーコの花

さらに、そもそもは、ブラジル木と呼ばれていたのは、このブラジル木ではなくて、インド、マレーシア原産の蘇芳(スオウ Caesalpinia sappan)だった。こちらは豆科の小高木で高さ5メートルほど。スオウは日本へは飛鳥時代に中国から伝わっている。正倉院収蔵の木工品の染色にも使われていた。漢方では収れん剤,止瀉剤として用いられる。

このスオウの近縁種で、南米に生えていたやつを、1540年にポルトガル人が「発見」し、その後こちらの方がブラジル木と呼ばれるようになった。「ブラジル」は、ポルトガル語の brasa (燃えるように赤い)から由来しているようで、スオウと同様、心材を刻んで煮て、色素を抽出する。スオウもブラジル木も、心材にブラジリン brazilin(C16 H12 O5 )という赤色の色素が含まれているのだそうだ。染料や赤インクの材料のほか,昔は薬用としてマラリアに用いられた。

以上はおもに平凡社世界大百科事典からの受け売り継ぎはぎ。そしてこの事典の「ブラジルボク」の項には「また材は堅くて耐久性があるので,細工ものや工芸品にも使用される」とは書いてあるけれど、弦楽器の弓のことにはまったく触れられていない。

ブラジルの国名の元となったブラジル木 Pau-brasil =ペルナンブーコは、ブラジルの国樹。ブラジルの社会・経済史と深いかかわりがある。

もともと大西洋岸3000キロにわたる地域、Mata Atlantica と呼ばれる森林に生えていた。花期は9月末から10月半ば。強い芳香を放つ。11月から1月にかけて実が熟していく。画像で見ると、やっぱりマメ科だなとも思うし、ランの花のようにも見える。生育は遅く、花を付けるまでには三、四年かかる。花は一日か二日でしぼんでしまう。ペルナンブーコの林は、ランやコケ、地衣類にとっても重要な生育環境であるらしい。


前の事典に、ポルトガル人が「発見」したという記述があったが、それ以前から、ブラジルの先住民(ブラジル・インディアン)たちは、この木を弓矢の製造や染色に利用してきた。植民地時代、ポルトガル人によって大量に伐採され、染色材料や家具・木工用高級木材として利用される。乱獲が始まった時期として世界大百科は1540年という年を挙げていたが、1501年と言っているものもある。当初、このブラジル木を採る者たちをブラジレイロスbrasileirosと呼んだ。これは現地の人たちの奴隷労働者化をも招いた。

3世紀にわたって、ブラジル木はブラジルの主要輸出品目の一つだった。このため、19世紀には、自生地域は絶滅に瀕する。19世紀後半に代替となる化学染料が開発されるが、それまでに大量のブラジル木が伐採され輸出されており、ブラジル木の減少はさらに1920年代まで続く。現在では、自生しているブラジル木を見つけるのも困難だという。ペルナンブーコは絶滅危惧種だったのだ。

ヴァイオリンの弓の材料として使われ始めたのは18世紀末から。重さ、密度、強度、柔軟さの点で、理想的だった。

染料としては代わりになるものが登場したが、弦楽器の弓の材料としては、代わりになるものは今にいたるまで存在しない。(他の木ではダメだし、カーボンファイバー製のものは、佐々木1999によれば、低価格品以外はまだまだ「使えない」ようだ。)現在でもブラジル木の輸出は続いており、それがどれほどの量なのか、正確な数字はわからない。少なくとも、年間の世界需要は200立方メートルを超えるという。

ヴァイオリンの弓の生産では、最上の部分を利用するため、最終的な弓となるのはもとの材料の15%ほどだという。つまり85%は捨てられてしまうのだ。

# 以上は主に

http://www.globaltrees.org/reso_tree.asp?id=25
http://www.humanflowerproject.com/index.php/weblog/pernambuco_play_on/
http://www.arkive.org/species/GES/plants_and_algae/Caesalpinia_echinata/
(いずれも英語)
および

http://addnaturam.blogspot.com/2004_10_01_addnaturam_archive.html
のポルトガル語記事(画像も同所から)をSYSTRANの自動翻訳で英語にしたものに拠った。日本語への自動翻訳よりはまだかなりマシな訳文を吐き出してくれるのでありがたいが、もしかするとそれによる読み違いがあるかもしれない。

なお、
http://www.caisdomar.net/a_discovery.html
には、日本語による簡略な記述と、リオ・デ・ジャネイロの植物園の説明板画像が、日本語訳とともに掲げられている。

またその後、日本の森林学専門家による Mata Atlantica の歴史と現況の詳しいレポートに行き当たった。



円運動としての拍節

2007年10月8日 月曜日

僕が拍節の考え方を教えていただいたのは20年以上も前、藤原義章さんからだった。拍(藤原氏の言う「自然リズム」)は微細に伸縮する。最終拍(いわゆるアウフタクト。4拍子なら4拍め)が一番延びる。次に第一拍。中間拍(4拍子なら2・3拍め)は短くなる。

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斎藤秀雄『指揮法教程』、6ページより

しかしその後藤原さんがお書きになった本(たとえば『美しい演奏の科学―生きたリズムの表現のために』春秋社など)は、あまり説明がうまくいっていないように思える。ヴィジュアルな面では、4分円を使っていろいろ精緻な図を描いていらっしゃるものの、どうもピンと来ない。

拍子というのは要するに何ものかが規則的に回帰することだ。その回帰が感じ取れることで、聴き手は音楽に「乗る」ことができる。
そして西洋古典音楽においては、何より、拍節単位(たとえば小節)の下位単位(小節に対しては拍)が微細な伸縮を繰り返すことこそが、この回帰を表現する。


おそらく、拍子のイメージは、回帰の運動そのものである円運動が一番よく表わすのではないか。それも、等速円運動ではなく、重力のかかる場(要するに地球上)での、垂直な円運動のイメージ。円を登っていった頂点が最終拍で、すとんと落ちた一番下の点が第1拍。すとんと落ちた点だから、第1拍はある種の重さがある。そこから上昇していくので、重力の影響から最後はゆっくりになる。それに最終拍は円の頂点から一番下まで落ちる拍なので、距離的には一番長くなる一方、第1拍へは、重力による加速度も加わる。

そんなことを考えていて、斎藤秀雄の古典的な書物、『指揮法教程』(音楽之友社、初版昭和31年)を読み返したら、その冒頭はまさにこの(加速・減速を伴う)円運動の提示から始まっているのだった(図)。さすがである。しかし外見的には、つまり指揮法としては、この円運動は1拍子しか示しえないので、当然のことながら、このあとこの書物では、「打点」を増やしていく方向に話が進む。円全体をたとえば1小節としてその分割を感じるといった(僕の考えているような)方向には、斎藤は議論を進めていない。

いまここでは指揮法ではなく、奏者が拍節をいかに考え、感じるかを問題にしているので、あくまでもこの一つの円の分割を考える。重力は(あるいは円運動をする物の質量は)何拍子であるかによって変動する。

先に書いたように、円の一番下の点が当然第1拍の始まりだが、一番上の点がアウフタクトの始まり。そうすると、何拍子だろうと、2拍子だろうと5拍子だろうと6拍子だろうと、この円の片側を昇っていく動きをその数(拍子の数マイナス1)で割ればいいだけだ。(たとえばドヴォルザークの「新世界」スケルツォ末尾のヴィオラの厄介な部分、八分音符6つから5連、4連、四分音符3つと移っていくところなども、この感じ方が掴めれば難しくはない。)

遅くともウィーン古典派以降、20世紀初頭までのいわゆるクラシックのメイン・レパートリーに属する音楽は、こうした拍節の上に乗っているのであって、これを均等拍でやると聴くにたえないものになる。均等拍というのは要するに1拍子でしかないので、回帰を表現することができない。均等拍で演奏されたクラシックを聴かされる者は、何度も音楽から放り出され、そのつど苦労して「乗り」なおすしかない。そんな音楽が楽しいはずがない。

均等拍を前提とした現代の多くのポピュラー音楽などでは、ではどうしているかというと、たとえばパーカッションなどのオスティナートが多用される。毎小節、同じリズムパターンを繰り返すのだ。クラシックの世界でも、伸縮する拍節感が確立する以前のバロック期までと、拍節感が失われてきた現代曲でオスティナートが多く見られる事実も、ここで辻褄が合う。

Never too late

2007年10月4日 木曜日

ネヴァー・トゥー・レイト―私のチェロ修業

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つい最近知ったのだが、これはすぐれた書物だと思う。副題は翻訳では「私のチェロ修業」とされている。クラシックには縁がなかったはずなのに、「三十四歳になってからフルートを、四十歳でチェロを始めた。どちらも二年くらいでやめてしまったが、五十歳になってからまたチェロを始めた。今では、家にいるときは毎日三〜四時間は演奏するようにしている…。」という著者の音楽との出会い、そして柏木真樹の言い方で言えば、「レイト・スターター」としての発見と洞察を綴っている。

原著はかなり以前に出版され、著者はもう亡くなっているようだ。イヴァン・イリイチなどの影響も受けながら、アメリカの教育畑で活躍していた人らしい。そうしたバックグラウンドもあって、豊かな智慧に満ちている。そのほんの一部:

「可能性には限界がないのだろうか? もちろん、限界はある。でも私たちが思っているよりずっと遠くにある。」(126)

「生徒たちが教えられたことを学ばない。その理由の大部分は、自分はできないと生徒たちが思い込んでいるからだ。」(144)

フルートを学んだ時の失敗について
「練習の仕方が他人頼みで、工夫が足りなかった。先生に言われたことはすべてやったが、指摘された問題点の克服方法を、自分で考えたりはしなかった。」(163)

「すべての音楽教師は、自分の生徒の何人がまだ音楽を愛しているだろうか、という質問を自分自身に問いかけてみるべきだ。」(188)

近ごろの日本では、遅くになって音楽を、楽器を始める人が増えているように思われる。そういう人にはもちろん、本書は大きな勇気づけになることだろう。そういう「レイト・スターター」でなくとも、さまざまな示唆に富んだ書物だ。

唯一、文中に頻出する「メトロノームに合わせる練習」だけは文字通りに受け取らない方がいい。それだけは鵜呑みにすると危険だ。