‘Musik’ カテゴリーのアーカイブ

クラシックの破壊

2008年4月7日 月曜日

metronome.jpg19世紀の中途半端なテクノロジーがクラシックを破壊してきた、いまも破壊し続けていると、最近はほぼ確信するに到っている。メトロノーム(19世紀初頭の発明)と平均率ピアノ(最初の生産は1840年頃)のことだ。

音律の問題つまり平均率が問題であることに関しては、「古楽」系の人たちをはじめとして色々言われるようになって、近頃は一般の認識もかなり変わってきた。今のテクノロジーによれば、キーボードであっても、自在に音律を変えて演奏することもできる。たとえば、Mac 用の SuperPiano X は、そうしたテクノロジーの感嘆すべき成果だ。(安価な点でも感嘆すべきだ。)それでもいまだに平均率を前提した「絶対音感」など云々し続けている阿呆もいるが。

問題は拍節のほうだ。つまり、いまだに、というかますます多くの人々が、メトロノーム的な均等拍が拍だと思い込まされていることだ。

こんなことは、ちょっと音楽の分かっている人ならば、二言三言、ヒントのようなことを言えばすぐに分かってもらえるものと思っていた(以前かかわっていた音楽系某SNSでは、そういう反応も多く、意を強くしていた)。それが、違った。近頃かかわるようになったアマオケの、歳若い、非常に優秀なプレイヤーである友人たちが、まるで理解できずにいるらしいことに、ショックを受けた。彼らはそれほどまでにメトロノームの洗礼を受けてきてしまっているのだ。彼らに分かってもらうためには、これは相当腰を据えてかからなければならない。相当きちんと言っていかなければならない。

どうやら、今日、音楽家は、プロアマを問わず、2種類に分かれてきているように思える。拍節感を持つ者と、メトロノーム的な拍しか知らない者と。(漠然とした感覚で、その都度いずれにも意識せずに合わせている第三のカテゴリーの人々もあるかもしれない。)この種類の異なった者がアンサンブルをしようとすると、どうにも音楽がまとまらない。同種の者同士であれば、簡単にまとまる。それならばそれで、それぞれにめでたしめでたしのようだが、メトロノーム同士の音楽は、もちろん音楽の残骸であると、ぼくは考えている。最初に書いたように、19世紀的テクノロジーに殺された音楽の骸なのだ。ぼくはそんなものを聴きたいとは思わない。聴いていて、苦痛でしかない(かれらに合わせるのはもっと苦痛だ)。しかしそれが拡大傾向にある。だからこのメトロノームたちに、拍節とは何なのかをなんとかして理解してもらうことが、今、緊急の課題なのだと思われる。何しろ、この2種類異なってしまっていることも認識されていないし、だからなぜ合わせにくいのかも理解されていないのだ。

先日、いわゆる「古武術」系の書物をまとめて読んでいて、この点に引きつけて深く頷いたのは、一つは「日常的な、当たり前の身ごなしや技術は忘れ去られやすい」ということだ。当たり前のことは書かれない。ことさらに概念把握されない。だからいったん忘れられたらあまりにはかなく消えてしまう。もう一つは、甲野善紀氏が言っているという、「小成は大成を妨げる」ということだ。メトロノームでも音楽みたいなことはできる。でもそれは本来の古典音楽ではない。しかしメトロノーム的小成に安んじている人たちには、そのことが分からない。小成している、つまりともかく形になってしまっているように見えるからだ。だから、当たり前のことが発掘され、きちんと書かれなければならないのだ。

前々から、この拍節の問題に関しては、まとまった形で書こうと思い、紀要論文や、ブログでのメモの形で書き散らしてきた。材料は少しずつそろってきている。あとは、フーゴー・リーマンの読み直し、このジャンルでの重要な仕事である Hasty の『リズムとしての拍節』を評価すること、そしてまともな演奏の実測値の取得といったあたりが課題だ。いや、このへんは前々からやらなければと思いながら、雑事にかまけて先延ばしにしてきたのだった。今年はできるだけ一気に先に進めることにしよう。

弦楽器のイントネーション(ピアノとのアンサンブル)

2008年3月19日 水曜日

カザルスは言っている。



「抑揚は良心の問題です。生活のなかで何か悪いことをしたと気づくと同じように、ある音がよくないと気づくものなのです。悪いことはほうっておいてはいけません」(ウェッバー編『パブロ・カザルス 鳥の歌』ちくま文庫、168ページ)

池田香代子氏がここで「抑揚」と訳しているのは、イントネーションのことだ。

intonation.jpg弦楽器のイントネーションのことは、早くからヘマンの本(『弦楽器のイントネーション』竹内ふみ子訳)の翻訳が出されて、比較的知られてはいるが、個々のアンサンブルのケースで具体的にどのようなことがあるのか、あまり詳しい説明はなかなか僕らの視野には入ってこない。

近ごろSchott 社から精力的に弦楽器関連のマニュアル本を出しているゲルハルト・マンテルが、弦楽器のイントネーションに関しても一冊書いている。
Intonation. Gestaltungsspielräume für Streicher

この本の最後のほうの章で、マンテルは、弦楽器同士のアンサンブル、ピアノとのアンサンブル、管楽器とのアンサンブル、チェンバロやオルガンとのアンサンブル、オーケストラ内でのアンサンブルについて、それぞれ3−4ページずつながら、触れている。

ピアノとのアンサンブルでマンテルが強調しているのは、すべて平均率に合わせなければいけないわけではないということだ(分かっている人には当たり前のことだろうけど)。ピアノとのアンサンブルであっても、同じ曲のなかで、どういう箇所かによって、弦楽器は平均率から和声的イントネーションへ、ピタゴラス的イントネーションへと、飛び移ることができるのであって、それこそが、こと音程に関しては、探究しがいのある課題なのだ。

Beethoven Cellosonate Op.5-2ここでマンテルはベートーヴェンのチェロソナタop.5 Nr.2 から例を引いている(画像)。こういう具体例が、僕などにはありがたい。

アダージョ・ソステヌート・エド・エスプレッシーヴォの4小節目。この4分音符の h を、チェリストは、次の1拍目の c への導音のように感じて高く弾きがちだが、ここはピアノのオクターブ上の h に合わせなければならない。これに対して4つ目の16分音符の h は、まさしく c への導音として、高めに取ってよい。ここではピアノは鳴っていない。

チェロの5小節目最後の8分音符の cis に関してはまた逆で、チェリストは、5小節目の d への導音として高くとりたくなる気持ちに逆らって、低めに押さえなければならない。ここで8分音符というのは和声的なイントネーションを要求するに十分な長さなのだ。この部分を支配しているのはピアノの左手の a であり、さらにピアノの右手の cis も響いている。

Suzuki Viola School

2008年3月10日 月曜日

suzuki.jpgヴィオラを一から始める人のための教則本で、初級から中・上級まで系統立ったコースになっているものは、現時点では、スズキ・メソッドの全八巻のこれがほとんど唯一ではないかと思われます。スズキのヴァイオリン教本をヴィオラ用にアレンジして、アメリカで制作されているもので、スズキの本家の日本国内では出版されていません。ヴァイオリン教本と重なる曲が多いですが、ヴィオラ独自の曲も加え、よく出来ていると言えます。

楽譜専門店などでも手に入りますが、国内で購入する場合は、おそらくアマゾンが一番安い。ところが、残念なことに、日本のアマゾンの商品表示は不親切で、どれが何巻なのかが分からなくて往生します(表紙の画像がある場合は、そこに書かれた Volume 1 などの文字で見分けがつきますが、画像がない場合も多い)。そこで、ご参考のため、日本のアマゾンの各巻へのリンクを以下に並べておきます。(実はここでISBNを調べてアフィリエイトリンクを張っただけ。)

Suzuki Viola School: Viola Part, Volume 1
Suzuki Viola School: Viola Part, Volume 2
Suzuki Viola School: Viola Part, Volume 3
Suzuki Viola School: Viola Part, Volume 4
Suzuki Viola School: Viola Part, Volume 5
Suzuki Viola School: Viola Part, Volume 6
Suzuki Viola School: Viola Part, Volume 7
Suzuki Viola School: Viola Part, Volume 8

なお、収録曲などは、出版元 Alfred Publishing が出している Suzuki 教本の PDF カタログをご参照ください。

ボクシングとボウイング、そして左腕

2008年3月6日 木曜日

甲野善紀氏の本数冊(荻野アンナ・甲野善紀『古武術で毎日がラクラク!―疲れない、ケガしない「体の使い方」』なんてのも含めて)に続いて、『ナンバ走り 古武術の動きを実践する』 (光文社新書)を読む。甲野式の動きを取り入れて成果を挙げているスポーツ界の話をスポーツライターの織田淳太郎がまとめた本だ。

ひとまず目に付いたのはこんなポイントだ:

ボクシングでは、「拳を内側に捻り込むようにして打つべし」と、よく言われる。劇画『あしたのジョー』でも、丹下段平が矢吹丈にボクシングの初歩段階として教えていた。
これは、パンチの威力が増すという理由で指導されるのだが、実は拳を捻り込むことで、肩の「分離」も促されているのである。それによって、腕が瞬間的に長くなり、パンチのスピードが加速され、インパクトの衝撃がそれだけ大きくなる。さらに、捻り込むことで、上腕の筋肉線維のラインが真っ直ぐに伸び、力をよりダイレクトに拳に乗せることができるという利点もある。(43)

これはおそらくボクシングの「常識」(ぼくは知らなかったが)なのであって、ことさらに「ナンバ」ではないが、ダウンボウで弓先へ行くときの右腕の動きと一致する。その際も、手は内側に捻り込むようにして手首が下がり、肘が前に出て腕がまっすぐ伸びる。だからこのパンチの動きもよく理解できる。(この動きが「井桁崩し」とも重なり合うことは前に触れた。)

ではヴァイオリンを弾く場合の左腕はどうなのだろう?

「実は腕は肩からついているのではない。腕がついているのはさらに肉体の奥、すなわち鎖骨と胸骨の間にある胸鎖(きょうさ)関節からだ」(27)という認識は、(たとえばアレクサンダー・メソッド系の書物を通じて)以前から持っていた。だが、その意識を右腕にはある程度生かせているつもりでも、左腕のその点に関しては等閑に付してきたところがあった。

ヴァイオリニストの左腕は、つねに肘のところで曲がっており、また左手も、ネックの右側から楽器に接する以上、内側に、つまり左手のこの場合時計回りに、捻ることはありえない。(ネックに左手指を正しく置いていくためには、逆のひねりがむしろ必要で、ほんとうの初心者にはこれが案外難しいようだ。)

おそらく、上の記述に言う「肩の分離」ということが、左腕でも重要になってきそうな気がする。「肩甲骨と上腕骨の分離感覚」(30)とも言われている。「古武術では”割れる”という表現を使う」が、これは「上腕と肩を独立させて、別々に使う」ことと同義だという(40)。そもそも普通は利き腕ではないうえに、遠く伸ばすよりも折り畳んでいく動作が多くなる左腕は、この点の訓練が足りず、左肩が固まってしまっている奏者、つまり左腕のシフティング(ポジション移動)に鎖骨から肩にかけての部分が全く使えていない奏者(ぼくはたぶんそうだ)が多いのではないか。一旦楽器を置いて左腕を伸ばし、パンチングの動きを元にして左肩も柔軟にしていけば、左腕全体の動きにプラスになりそうな予感がする。

パンチや「投げる」動作は、体幹部から「投げる」感覚が重要であり、上腕と肩の「分離」感覚はそのために役立つという。そして体幹部から投げる感覚を伸ばすには肋骨を意識的に変形させるストレッチや、肩甲骨を柔軟に動かすストレッチが有効であるという。これも演奏のためにそのまま使えそうだ。

謙虚さについて

2008年3月4日 火曜日

謙虚ということについて考えていた。

ええっと言われるかもしれない。身近で、口の悪い人や勘違いしている人には、おまえの辞書に謙虚なんて単語載ってるのかよ、なんて言われかねない。

この言葉自体は、たしかにぼくはあまり好きではない。だがその理由は、安易に使われすぎてすり切れており、空虚な標語と化してしまう可能性が高いからだ。たんに卑屈に縮こまった姿勢を導き出す可能性もある。それがどう機能するかはポワン・ド・キャピトン、つまり状況や文脈による。

少なくともスキルや知識に関することでは、謙虚という言葉に意味があるとすれば要は、自分のまだ知らないもの、分かっていないものがそこにあるのではないかと予感する能力、そしてそれを探究していこうとする好奇心なのではないだろうか。いずれにしても、こうした定義を考えて、それを短縮する意味でしか、謙虚とか、そんな言葉は使えない。たんに謙虚さが必要だ、と口にすることには意味がない。

甲野善紀氏の仕事と音楽を考え合わせる

2008年3月3日 月曜日

なにしろテレビは10数年来ろくに見ていないものだから、一部そうしたメディアも上手に利用して知られてきていたらしい甲野善紀氏のこともほとんど知らなかった。

とりあえず手に取ったのが文庫本3冊。

どうもナンバ的な感覚がクラシックの拍節に真っ向から対立する・障害になるのではないかと思っていわゆるナンバ周辺のことを調べはじめ、甲野氏の本も何冊か読むことになったのだけれど、氏の「武術」の身ごなしは、そんな単純なものではまったくないのだった。むしろ、現にスポーツをはじめとしてあらゆる領域で様々な人たちによって応用が模索されているように、楽器の演奏にもそのまま当てはめて考えてみるべきことが多く、それがそれでまた僕の関心を引いている。たとえば甲野氏の身ごなしの具体的な出発点となった「井桁崩しの術理」。ヴァイオリンのボウイングなどは、この「井桁崩し」の動きそのものではないかと思う。「初心者」のボウイングは、肩を中心にした「ヒンジ運動」になる。それが、楽器、弓と組み合わさった「井桁崩し」にならなければならないのだ、と、この言葉を使えば、言える。(『身体から革命を起こす』にはまた、甲野氏のアドヴァイスを受けながら奏法を改良していったフルート奏者白川真理さんの話が出てくる。)

またたとえば、「表の体育」と「裏の体育」の相克に関する洞察は、平均律と均等拍に縛られた「表の音楽教育」の問題に重ね合わせてみることもできる。

拍節のことに話を戻すと、甲野氏の研究は(乱暴な纏めかたになるが)気配を消し、瞬発的な動作の効果を高める方向を向いているので、通常音楽に現れるような拍子や「リズム」は少なくとも表面的には出てこない。一方で、日本の、(クラシック的に見て)ダメな奏者のリズム感というのは、やはり現時点の僕にとっては、「ナンバ的」と名付けるのがしっくりくる。「よいナンバ」と「悪いナンバ」を区別するべきなのだろうか?

この問題、まだまだじっくり調べていかなければならないようだ。

左手のフレームを確実にする

2008年2月29日 金曜日

Gerle の左手の練習ロバート・ガールの『ヴァイオリン練習の技法』Art of Practicing the Violin: With Useful Hints for All String Players(←リンク先は日本のアマゾンですが、高価な古本しか出てこないかもしれません。その場合は米アマゾンあたりで探された方ががよいでしょう)が面白い。そこに出ていた左手の練習法の一つがこれ。
ガールはまずは左手の4本の指の位置のパターン分類から始めます。パターン1から3は、1指と4指の間が2全音半となる基本とも言うべき形で、3、4指の間が半音となるのがパターン1。ここまではどこにでもある着眼かもしれません。

で、まずはそのパターン1で、二本の弦を1指で5度把弦したまま、その高い方の弦で4指まで行って帰ってくるだけの練習。半音ずつ上がっていってはこれをやります。G線D線で始め、4、5ポジションまで行ったら隣の弦(D線A線)に移る。譜面に書くと上掲画像のようにややこしくなりますが、非常にシンプルな練習です。

これは左手のフレームを確かなものにして、正確なイントネーションを作っていくうえで、非常に効果的な練習だと思います。パターン1〜3では、4指を押さえたとき、1指とオクターブになるわけで、純正さが簡単に分かります。この練習をやってみて、4、5ポジションあたりで、自分のフレームが微妙に狂っていることがたちまちはっきり分かってびっくりしたのでした。一発で正確に取れていないのです。このあたりのポジションでの、左腕の入りこみ具合についての感覚が、ほんのちょっとズレているらしい。

こんな恐ろしく基本的なところに穴があったか、という発見(うう)。フレッシュでも小野アンナでもスケールを真面目にやっていればこんな欠点はおのずと修正されていたはずなのかもしれませんが、怠け者のぼくはそれをあまりちゃんとやってきませんでした。それに、ただのスケール練習では、この狂いは自覚しにくい。この練習をしばらく続けて治療することにしようと思います。

ガールの上掲書には、他に、ボウイング、初見、暗譜などの効果的な練習のしかたが紹介されている。まだぱらぱらとしか見ていないのだけれど、なかなかイイです。ボウイングのみに特化したThe Art of Bowing Practice: The Expressive Bow Techniqueもあります。

ダルクローズ的教育ペシミズム

2008年2月16日 土曜日

先に引いたダルクローズの本の中で、印象に残った箇所の一つがこれ。

「だが、多くを求めて人に恐れを抱かせてはならない。そんなことをしても、何も得るところはない…。他人のために〈より良いこと〉を望む者、他人に何かを──彼らが、自分が持っていないことに気づいていない何かを──求めるべきであると気づかせることによって、彼らの平安をかき乱す者を待ち受けているのは、悲嘆と落胆である。自分のことだけ考えて、あるがままの現実に満足して幸せに生きるがいい。他の人はみんな現状に満足しているのだから…。」『リズムと音楽と教育』山本昌男訳、全音楽譜出版社、p.14(訳文の一部変更)

ありふれた話かもしれないが、これは身につまされる。フロイディアンならここで防衛機制について語るかもしれない。

ダルクローズはもちろん、こうしたペシミズムは跳ね返すべきだと言っているのだが、あまり説得力がないというか、彼の本を読んでいると、とにかくそんなペシミズムは力任せに振り切って、強引に前進していった感じだ。体力気力がないと参考にならないというか…。いや、「汝の欲望をあきらめるな」と言うではないか…。

次はジョン・ホルト『ネヴァー・トゥー・レイト 私のチェロ修業』松田りえ子訳、春秋社から:

「生徒たちが教えられたことを学ばない。その理由の大部分は、自分はできないと生徒たちが思い込んでいるからだ。」(144)

この本当に不思議な心理にはいたるところでぶつかる。『ブリキの太鼓』のオスカーではないが、「成長」することを恐れている、「成長」したくないという心理がいたるところに蔓延している。もちろん、これも、ダルクローズ的な絶望の原因の一つだ。要するに、「教える」ことの難しさ。

年配になってチェロを始めたいきさつと洞察を綴ったホルトは、もともとアメリカの教育界で活躍してきた人だった。で、こんなことも書いている。

「可能性には限界がないのだろうか? もちろん、限界はある。でも私たちが思っているよりずっと遠くにある。」(126)

その通り。でも、それを分かってもらうのが難しい。

で、こうしたダルクローズ的ペシミズムを回避して学びの実効性を上げるための技術として、昨今は一部(どちらかというと「ビジネス・経営」系)で「コーチング」がもてはやされたりしているわけだ。もちろんそこから学び得ることは多い。「コーチング」に関しては、牛が汗をかいたり棟が一杯になってしまうほど書籍が出ているし、ネット上にもいろいろ転がっているだろうから、ここでは詳述しない。ちょっと面白いのは、もともとテニスコーチで、音楽家向けに『演奏家のための「こころ」のレッスン』も書いたガルウェイの名が、「コーチング」の始祖の一人として挙がってくることだ。

ダルクローズの拍節憎悪

2008年2月15日 金曜日

ダルクローズが拍節に対する憎悪をぶちまけている文章が面白い。

「リトミック」の元祖ダルクローズの著作は、つい最近初めて読んだのだけれど、その中で拍子、拍節をリズムと対立させて攻撃している部分がとても興味深い。

Dalcroze
Encyclopædia Britannica Online. 15 Feb. 2008.

『リズムと音楽と教育 新版』の第13章「リズム、拍子、気質」という、1919年に書かれた文章。

ここで、ダルクローズは、明らかに拍節をメトロノーム的な均等拍として理解している。もし拍節がほんとうにそのようなものであるなら、ダルクローズの憎悪はもっともだ。ダルクローズは拍節に関する通念にのっとって、それに対する反対意見を述べているのであって、その基盤になっている通念は(今日にいたるまでごくありふれた)誤解、すべての拍は均等だという誤解だと思う。つまり、ダルクローズが否定しているのは均等拍であって、本来の(とぼくが考える)拍子、拍節ではないのだ。

「知的産物である拍子は、機械的な仕方で生命の要素とその組み合わせの連続と秩序を司るのに対して、リズムは、生命の本質的な諸原理の総合性を確立する。拍子は反省から生まれ、リズムは直観から出現する。大事なことは、リズムを作り上げている持続的な動きを拍節的に規制することが、この動きの本質や特質を損なわないことである。(226f.)

「今日、音楽教育は[...]音楽の学習をリズムの方に向かわせる代わりに、拍子の方に向かわせている。拍子だけに意を用いることに心を奪われて、入念な訓練によって、動きへの衝動の開花に有利に計らうことを怠っている。同じことが、我が国の最も著名な専門学校[アカデミー]で、もっぱら身体的テクニックのセンスがきめ細かく指導されているダンスの教育においても行われている。この教育が目指すのは、拍子的精神の勝利であって、気質の発達のおかげで、自然な身体的リズムが開花することに力をかす代わりに、身振りや動きの勝手気ままな連なりに規制を加えることで事足りているのである。(227)

ここに、「拍子/リズム」と重ね合わされている「反省/直観」「意志/気質」「規制/自発性」といった二項対立の道具立てを見て取ることはたやすいし、20世紀初頭の「生の哲学」の流行にのっていることも明らかだと言っていい。

「驚くほどよく制御されている機械は、リズムではなく、拍子で制御されているのである。(228)

「拍子の意図的な訓練は、規則正しさを確立してくれる。──この規則正しさがどうしても必要な場合もある。しかし、このように終始機械的に秩序を追い求めることは、生の自発的な発現という性格を不自然に歪める危険をはらんでいる。拍子は人間のために創られたもので、人間にとっては道具となってくれるものなのだが、この道具は、往々にして、いつの間にか人間の主人になってしまい、彼の動きのディナミズムやアゴーギクに影響を及ぼし、その人間性を因習的な仕掛け[メカニズム]の奴隷にしてしまうのである。(228)

ここでは「機械/生」という対立が前面に出てきている。拍子を「機械」的なものと考えていることがよく分かる。つまり均等拍のことなのだ。

もし今ダルクローズ先生がここにいて、ねえ、ダルクローズさん、あなたが問題にしているのは均等拍であって、本当の拍子や拍節ではないですよ、と申し上げたら、簡単に同意してもらえるだろうという気がする。

しかし、今の「リトミック」はどんなふうになっているのだろう? 二三、国内で書かれた書物を見た限りでは、この点に関する反省や修正は出てきていないように思える。拍子に関しては、あくまでも均等拍が前提されているように見えるのだ。だとすると、おそらくそれはダルクローズ先生の本当の志とは異なっている。

ナンバ的拍節感

2008年2月14日 木曜日

寡聞にして知らなかったのだけれど、少し前、「ナンバ歩き」というのが一部で話題になっていたらしい。右足が前に出る時は左腕が前に出るような今日当たり前の歩き/走り方は、近代になって西洋から導入され定着したものであって、「昔の日本人」は、右手と右足が同時に出るような(そもそもあまり腕を振らない)歩き方・体の使い方をしていたというのだ。

甲野善紀氏がこの歩き方を実演してみせている動画が見られる。

この「ナンバ」の身ごなし、動きには合理性がある、「ナンバ歩き」は「健康によい」などと主張されている。山歩きをするのに、もっぱら「ナンバ歩き」を心がけているという人もいるらしい。一方で、ほんとうに「昔の日本人」がすべてそうだったのか、現在のような歩き方・走り方はまったくしなかったのかという点については、当時の映像が残されているわけでもなく、決定的な証拠はなさそうで、不確かな言説の流布に対する批判の声も多くあがっていたようだ。ふつうにそんな歩き方するわけねーじゃねーか、という単純な否定もあちらこちらで見られる。

歴史的な事実の詳細はともかく、これがそんなに特異な動作かというと、そうでもないように思われる。日本舞踊や「古武術」では普通に行われてきている動作ではあるらしい。そう思ってみるとしかし、そもそも今現在でも、周囲にはこの「ナンバ」的なセンスの身ごなしが、実はありふれて見られることに気づく。それが見られるのは、「歩く」ことそのものとは別の場面だ。

ぼくが考えているのはクラシックの演奏の場面、アマチュア・オーケストラの練習などの場面。「ナンバ」はそれ自体の合理性はあるのかもしれないけれど、クラシックを演奏するのにこれが決定的に邪魔になっていることに気づく。どうにも音楽が形にならない人の動きというのは、多くの場合、明らかにこの「ナンバ」系なのだ。

ナンバ的な身体動作はわれわれの周囲に、むしろ歩く動作以外のところで、現にありふれているということと、クラシック音楽をやるときは、ナンバは困るということ。ここで指摘したいのはその二点だ。まさにその困る場面でこそありふれた現象として見られることに気づかれる。

おそらく、歩く動作に限っては、今日ほとんどの人が右足左腕が同時に出るクロス動作を「自然な」ものとして身につけている。ところがそれ以外の部分で、ナンバ的なセンスの動きは、しっかり生きているのだ。そのことは、それ自体悪いことであるとは思えないが、クラシックをやるときには障害になる。

それで思い出したのが、一年ほど前、ギタリストの村治佳織が、染五郎との対談で、こんなことを言っていたということだ。

村治:[...] 私は二十歳のころ日本舞踊を半年やりました。面食らったのは拍子の取り方が上から下に落ちるような感じだったこと。クラシックは下から突き上げる拍子の取り方をするのです。その感覚がうまくつかめませんでした。

染五郎:日本舞踊の動きのきっかけは歌で取ったり三味線、鼓で取ったりする。ここは唄、ここは掛け声、ここは三味線と。だからリズムで覚えようとすると絶対無理。

[日本経済新聞 2007.1.1 元旦第三部2面 新春対談「今に生きる東西の古典 伝統と新風で受け継ぐ」村治佳織、市川染五郎]

染五郎の、日本舞踊は「リズムで覚えようとすると絶対無理」という指摘は、また別に検討する必要があるかもしれないが、とりあえず村治の発言のほうに注目すると、この「上から下に落ちるような感じ」の拍子の取り方とは、「ナンバ」的な動きに他なるまい。村治が言うように、これはクラシックにはまったく馴染まない。これに対するクラシックの拍節感、村治の言う「下から突き上げる拍子の取り方」とは、アウフタクトで上向きのモーメントがあった上で第一拍に入るような動きを基本とする拍子のことだ。(音楽で普通に使われる「アウフタクト」はドイツ語。「アウフ」とは、上への動きを意味する接頭辞だ。英語のアップビートと同じことだと言ってしまった方がはやいか。)ナンバにはアウフタクトがない。

かなり前のことだが、大阪の某国立大学のオーケストラで、ブラームスの「ハイドンの主題による変奏曲」を聴いた。なんだか酒盛りで一升瓶抱えて手拍子打っているような、ひどい演奏だった。音楽が前に進んでいく感じが全くない。ぼくはそれを「花見宴会系1拍子」と呼んでいたのだが、考えてみるとこれもナンバである。要するにアウフタクト(この場合2拍子の2拍目)が死んでいて、そのまま音楽が下に落ちていき、そのつど改めて第1拍が打たれるような形になっているのは、すり足のナンバの歩みなのだ。

アマオケの中などで、うなずくように上半身を動かして拍子をとっている人がたまにいる。あれが音楽を壊し死んだ音楽を生み出すことには以前から気づいていた(だからかつて所属していたオケで、この動作を「禁止」したことがある)が、あれもナンバ系である。

練習にメトロノームを使う人は、この点でも十分に気をつけなければならない。言ってみればメトロノームはアウフタクトを知らない。拍頭を打つだけのメトロノームは、ナンバに親和性が高く、下手をするとこのナンバ的な傾向を助長するおそれがある。(そのことをしっかり把握していさえすれば、テンポの不本意な揺れをコントロールしたりするのに、メトロノームはやはり有益でありうる。)

実を言うと、クラシックの演奏の問題とナンバのことを結びつけうることを知ったのは、深山尚久『目からウロコのポイントチェック Let’s ヴァイオリンレッスン』(レッスンの友社、2007年)の記述からだった。そこでは深山は、ダウンボウのさいに体全体が一緒に下がっていってしまうという症例について、ナンバに結びつけて語っている。それを読んで、遅ればせながら初めてナンバのことを少し調べてみたわけだ。深山はそのようには論じていないが、これは上述のようにむしろ拍子の感覚のほうに直接的に相関した問題であると思う。

誤解のないようもう一度確認しておくが、ナンバそれ自体が悪いのではない。ナンバには特定の状況、条件ではそれ固有の合理性や有用性があるという可能性を否定するつもりはない。ただクラシックをやるには決定的に具合が悪いと言っているだけだ。場面場合によって、両方とも使い分けられるようにしておけばいいのではないか。

今ここでとくに関心を向けたいのは、ナンバという概念が、むしろわれわれのクラシックの演奏の問題点、悪い点を洗い出す上で、きわめて発見的 (heuristic) な、有益な道具となりうるということにある。演奏がどうにも不細工になってしまうがその治療法が分からない、どこがいけないのか分からない、というときに、問題を切り出す一つの鍵になりうるはずだ。