‘Musik’ カテゴリーのアーカイブ

ヴァイオリンの左手首

2008年8月8日 金曜日

handgelenk.gifヴァイオリン(ヴィオラ)の左手首は下腕からほぼまっすぐで、手首が楽器本体よりに曲がってしまってはいけないことになっている。

これは、初心者がもっとも陥りやすい「悪いクセ」の一つ(僕もかつてこれを直すのに苦労した)。これだと左手のフレームががたがたになって、音程がなくなる。ヴァイオリンを習い始めた人は、多くの場合、第一ポジションの次に第三ポジションを学ぶのだけれど、そのときにこのクセが付きやすいから気をつける必要がある。(第三ポジションの前に第四ポジションを、それによってポジション移動を教えたらいいのではないかと思う。第四ポジションだと、楽器のボディにぶつかるので、手首が曲がる余地はない。)

しかしまた、基本はあくまでもその通りだとしても、手首は絶対にこのように曲がってはならない、というのもまたウソではないだろうか。三度の和音を押さえるときは、第三指、第四指が低い弦に置かれる。ほかのたいていのパタンと違って、三度のときは、例外的に、手の小さめな人であればことさら、この「誤り」とされる形に近い形を意識してとる必要があるのではないだろうか。むしろそのことによって三度音程は安定するのではないだろうか。

(図は、Annemarie Jochum “Geige spielen. Ein Ratgeber fuer Liebhaber” Baerenreiter, 1994 ISBN: 3-7618-1142-X から。)



3rd_position.gif3度の和音のことはおいておいて、サードポジションの話に戻す。カトー・ハヴァシュ Kato Havas の A New Approach to Violin Playing (Bosworth) を読んでいたら、「サードポジションで手(手首)が楽器の胴に当たってよいか否かには議論があるが、自分は原則として(例外はいつでもあるが)当たってよいと考える」と書いてあった。ところが、そこに掲載されているイラスト(画像)を見ると、手首は曲がっていない。ちょうど手首はまっすぐなまま、まともなフレームのままで、手首が楽器の胴に接している図になっている。僕の経験では、サードポジションで手首が楽器の胴に接するには、手首は曲がってしまう(手が甲側に曲がる)しかない。ヴァイオリンの標準サイズは決まっているはずだから、これは手の大きさの違いということになるだろうか?

いずれにしても、ここから読み取れるのは、サードポジションで手首が胴に接してよいとするハヴァシュの発言は、その状態で手首が曲がらず、フレームがくずれないことを前提にしているはずだということだ。僕の場合を含む多くの日本人の、やや小さめな手では、これをやると確実に手首が曲がる。おそらく、ハヴァシュにとってこれは「例外」にあたるはずだ。だから、第四ポジションからがいいかもしれないという主張は、一見ハヴァシュの言っていることに反するようであっても、「手の小さめの人は」という限定を付けた上であれば、撤回する必要はなさそうに思う。

(親指と人さし指の股をネックにぴったりと付ける流儀もあるらしくて、それだとサードポジションで手が胴に当たる。)

いずれにしても、初心者がポジション移動の練習をするとき、左手全体のフレームに気をつけるべきだということは言える。その上で、以前のエントリで紹介したガールの練習なども加えていけば効果的だろう。

演奏は足し算ではなく割り算

2008年7月17日 木曜日

前のエントリで書いたように、大学の初心者集団のアンサンブルを、ときどき診ている。今年は珍しく「経験者」の新入生が多くて、いろいろと面白い新たな「経験」をさせてもらっている。ヴァイオリンの「経験者」で、いまレッスンでメンデルスゾーンの協奏曲をみてもらっています、という学生(月末にこの曲で「コンクール」に出るそうだ)がいて、先日、その演奏を見せて/聴かせてもらった。そのときに言ったこと。

・きみはハイポジションに行ったときに背中が丸まって前屈みになる癖があるようだ。意識して逆に動いた方がいい。ハイポジションでは左ひじが中に入ってくる。前屈みになれば、ひじは体に当たりかねず、いずれにせよ動きが不自由になる。ハイポジションに行った時こそ、胸を張った方がいい。
・もっと大きなフレーズを考えて組み立てよう。音楽は(少なくとも演奏する場合は)一音ごと、一小節ごとの足し算ではなくて、初めにフレーズありき、曲ありきの割り算なのだ。大きなフレーズを考えて、その中で部分部分をどうはめ込んでいくか考えた方がいい。
・弓の配分をもう少し考えよう。付点二分音符は4分音符の三倍の弓幅を使う、というのは初心者に対して言われることであって、いつまでも杓子定規に守っていてはいけない。前のフレーズが付点二分で終わり、次のフレーズ(のアウフタクト)が4分で始まって、いずれもアップボウになるとき、むしろ弓幅は逆転して1:3であってもいいし、アウフタクトは弓を先まで戻してしまって弾いたっていい。
・アルペジオでぱらぱら跳ばすには、右手首の動きを加えるといい。ダウンの最後で手首から先を下に振り、アップの最後で上に振る。
・弓先アップでアクセントを付けるのがうまくいっていないようだ。それをやるにはコツがあって…。

などなど。

まあ、確かに、こんなことを「教え」、相手の演奏がたちまち変わっていくのを見ていると面白い。一般教養の語学教員たちが自分の(無理矢理でっちあげた)「大学院」で、院生を教えたいと思う気持ちも分からないでもない気がしてくる。

Bowmaster

2008年7月8日 火曜日

bowmasterヴァイオリン初心者が弓の「持ち方」を安定させるためのアクセサリ。Super-Sensitive Music Instrument Companyという、なんだかなーという名前の会社の製品。フルフルさんのところで教えていただいて、購入してみた。Amazon.com に出ていたので、他の本を注文するついでに買えば送料の点でも有利かなと思ったが、実体は、amazon.com に間借りしているだけの別の小売店で別会計。本と一緒に送ってもらうことはできなかった。品物は6.95ドル。送料が22.50ドル。送られてきた大きな箱のいっぱいの詰め物の中に、ころっと入っていた。(昔のコーンフレークのおまけを思い出す。)

ぼく自身が使うためではない。大学の「宗教センター」で活動している音楽団体の、初心者の学生を「診る」ことがある。たいていは合奏の指導をしているのだが、個人レッスンみたいなこともやる。で、その中でも弓の持ち方を教えるのはとても難しい。それで、彼らに感じをつかんでもらうためのきっかけや補助になるだろうか、と思ってポケットマネー(って死語か?)で入手した。

言うまでもないことかもしれないが、自分ができるということと教えられるということはまったくもってイコールではない。

甲野善紀さんの周辺の書物をまとめて読んでからか、体の各部をいかに連携させて使っていくかが肝心だということが明確に分かってきてからは、ある程度できている学生が困っている場合、わりあい的確なアドバイスができるケースが多くなってきた。チェロの学生が、隣り合った弦を連続して交互に移弦するやり方に苦労していた時、肩からひじ、手へのラインが繋がっていないのがすぐに見え、手先だけでこねているのが分かったから、肘をちょっとあげてごらん、と言ってやることができた。そこに一つのラインを作り出すためだ。とたんに学生の顔が明るくなった。

でもこれはある程度できている学生の場合だ。まったくの初心者に弓の「持ち方」を教えるのは、難問のなかでもとりわけ難問に属すると思う。

弓の持ち方、いろいろな人がいろいろに表現を工夫して書いている。

ひよこをつかむように(ぎゅっとにぎったらひよこは死んでしまうよ)、とか、

しかしこの手の言葉は、分かってしまっている人から見ると、なるほどね、などと思うのだが、分かっていない人が読んでもさっぱり意味が分からないというケースが少なくない。そこにはどうしても、言わば「暗闇の中の跳躍」が、跳んでしまって、分かってしまって初めて分かる(まるでトートロジーだが)という事態が存在するのだ。

たとえば、動詞一つとっても、「持つ」「握る」「つかむ」のいずれも、適正な状態からはズレた表現になってしまう。弓が手の中にすぽっとはまっている感じ、「弓に演奏させる」感じなのであって、言わば他動詞の能動態で表現することは到底不可能なのだ。ところがこれから習得していこうとする人は、これも言ってみれば「主体」として、「能動的に」、弓に対してアプローチしていくしかない。不作為の作為が必要だ、という、禅問答みたいな話になってしまうのだ。

歳経りたツタのように弓にきゅうっと絡み付いている学生の右手指を弓から一本一本引きはがし、この指はここらへん、指の形はこんなふうに円く、親指はこんな形でこのへんに、小指の先は六角形の弓身のこの面に当てて、などとやって、いちおうそれらしい形にするのだが、本人がすぐにそれを自分のものにできるわけではない。他のことに気を取られていると(そして楽器演奏には気を取られるようなさまざまな要素が絡み合っている)、あっという間にへんなところに力が入り、右手の形もくずれてしまう。だから右手の形を安定させるこの小道具は役に立つかもしれないと思ったのだ。

まったく、この手の、教育の方便としての道具を作らせたら、いまだにアメリカ合州国人たちの右に出るものはないと思う。明らかにある種の合理主義と、オプティミズムと、独特の熱意とエネルギーが感じ取れる。(ヨーロッパの連中だったら恥ずかしくてこんなもの作れないだろうという気がする。)

まもなく期末試験期間。学生たちの音楽活動はしばらく休止するから、この小道具を実際に使ってみるのは少し先のことになる。少しでも効果があればよいと思う。

ウサギ跳びをするゾンビたち

2008年7月7日 月曜日

メトロノームと呼ばれることになるものをオランダのウィンケルが発明したのが1812年、それを改良して拍・韻律とノモスを合した名称でメルツェルが特許を取ったのが1816年。この本質的になんとも単純な機械仕掛けで均等なパルスを発する器械が、その後の音楽を呪縛することになる。(それはヨーロッパの外、たとえばアメリカや日本でとりわけ著しい影響力を揮うことになる。)

巨人の星ちょうど実用化されたメルツェルのメトロノームに、ベートーヴェンははしゃぎ、自分の作品にメトロノーム速度を書き入れる。しかしその表記はのちのち論議の的ともなった。ベートーヴェンがメトロノームに感動したのは、あくまでも意図したテンポを伝える手段としてであり、メトロノームに「合わせて」演奏などするものではないということも、彼ははっきりと書いている。

“Gar kein Metronom! Wer richtiges Gefühl hat, der braucht ihn nicht, und wer das nicht hat, dem nützt er doch nichts…”
「メトロノームは無しだ! ちゃんとした感覚のある奴なら、メトロノームは必要ない。感覚の無い奴なら、使っても意味がない。」
(Rostal and Ludwig, 1991, Ludwig van Beethoven: Die Sonaten für Klavier und Violine. )
Sylvio Krause, Das Probespiel Violine, Friedrich Hofmeister Verlag, 2001, S. 7 からの孫引き。

さて、メトロノームとは何の役に立つのだろう? どう役立てるべきものだろう?

  • もちろんおおよそのテンポを知るには役立つ。
  • テクニカルな練習曲で、難易によって途中で無意識にテンポが変わってしまわないようにチェックするため、アドホックにちょっと使う、というのもアリだろう。

しかしそうした範囲をはるかに越えて、「メトロノーム練習」が行われている。それにしても、なぜにこれほど無反省に、惰性的に、「メトロノームに合わせる練習」が行われているのだろう?

それはちょうど、ウサギ跳びにとてもよく似ている。歯を食いしばって苦行に耐えることで、何か功徳を積んでいるかのような感覚に浸れるのだろう。文字通り「機械的」な、音楽とは無縁の作業でしかないのに。ウサギ跳びがスポーツや体力作りとは実は無関係で、むしろ害になるのと、実によく似ている。

かくして拍節感は育たず、生命を欠いた楽しくも何ともない「音楽」があちこちで生産される。この音楽的ゾンビたち、キョンシーたちには、いたるところで出くわす。本人は生きているつもりなのだが、実は「おまえはもう死んでいる」と言うべきなのだ。頼むからそんなものを聴かせないでほしい。

あなたの演奏がダメなのは、メトロノームに合わせているからこそなのだ。あるいは、メトロノーム的な拍節感しか持っていない、つまりは拍節感が無いからなのだ。そのことに、なぜ気づかないのか。いや、気づきたくないのだろう。音楽を忘れ、自己目的化した「訓練」。そこには一種の倒錯した快感があるであろうことは容易に想像がつく。自分はこんなにもまじめに一生懸命練習しているのだ、善行を積んでいるのだ、という満足感があるのだろう。それが決して「音楽」に資するものではないことは見ようとしない。(このことが分からない人たちには本当に分からないようだ。そこには明らかに心理的な問題がある。分かりたくないのだ。)

ダルクローズが拍節(ダルクローズはこの言葉を明らかに均等拍の意味で使っている)に敵意を剥き出していたこと、フルトヴェングラーが「歌」Gesang という言葉で要求していたこと(フルトヴェングラーが「法則」Gesetz という言葉を「歌」に近接させて使用していることは示唆的だ)は、あまり理解されているとは思えないが、ほぼ間違いなくこの問題にかかわっている。

必要なことは、拍節的なゆらぎを作り出し、ゆらぎをコントロールし、ゆらぎに乗ること、聴き手をそのゆらぎに乗せること、アンサンブルであれば互いのゆらぎをすり合わせること(「縦の線を合わせる」というのはこのこと以外ではない)、大きなアーチを、波を作り出すことだ。均等拍が基本で、ゆらぎはその香辛料、などではない。少なくともクラシックにおいて、ゆらぎは拍の本質に属するのだ。

「体育会系」と呼ばれるメンタリティと、ウサギ跳びはとてもよく合う(そもそも、「表の体育」がそれ自体「体育会的」なのだ。この点については、甲野善紀『表の体育 裏の体育』が非常に示唆に富む)。そして日本の大学オケの多くと、クラシック関係の一部の人たちもまた、とても体育会的だ。うっかり日本のそこらのアマオケなどに行くと、おまえは十分に死んでいないと言って怒られることになる。あるとき、ある若いヴィオラのゾンビは自信たっぷりに言った。「××さん、そこ、出るの早いです」(××にはぼくの名前が入る)。アウフタクトは早めに入って長めになる。それが、死体から見ると、たんに飛び込んでいるように思えるのだ。

(このことがぼくにとってショックだったのは、長いことまさか彼はゾンビではあるまいと思い込んでいたからだ。不明を恥じるしかない。いや、一般に優秀と目されるプレイヤーたちのほとんどがゾンビであるなどということはあるまいと思っていたのだ。このあたりで気づいたことは、現実はそうではないということだ。事態はそれほどまでに深刻なのだ。)

ウサギ跳びの無意味さが認識されるようになったのも、そう古いことではない。「メトロノームに合わせる」練習の問題性が広く認識されるようになるのはいつのことだろうか。

モーツァルトの未知の曲の遺稿?

2008年5月23日 金曜日

mozart.jpgDie Zeit 紙が伝えているところによれば、ポーランドの修道院でモーツァルトの総譜手稿18点が発見され、そのうちの3曲はケッヘルのカタログにも収録されていない未知の作品だという。もし本当にモーツァルトのものだとすれば、晩年のウィーン時代のものだとか。

AFP による記事は、いったいどういう編成のどういう曲なのか、一切伝えていない。うーむ。

クラシックの破壊

2008年4月7日 月曜日

metronome.jpg19世紀の中途半端なテクノロジーがクラシックを破壊してきた、いまも破壊し続けていると、最近はほぼ確信するに到っている。メトロノーム(19世紀初頭の発明)と平均率ピアノ(最初の生産は1840年頃)のことだ。

音律の問題つまり平均率が問題であることに関しては、「古楽」系の人たちをはじめとして色々言われるようになって、近頃は一般の認識もかなり変わってきた。今のテクノロジーによれば、キーボードであっても、自在に音律を変えて演奏することもできる。たとえば、Mac 用の SuperPiano X は、そうしたテクノロジーの感嘆すべき成果だ。(安価な点でも感嘆すべきだ。)それでもいまだに平均率を前提した「絶対音感」など云々し続けている阿呆もいるが。

問題は拍節のほうだ。つまり、いまだに、というかますます多くの人々が、メトロノーム的な均等拍が拍だと思い込まされていることだ。

こんなことは、ちょっと音楽の分かっている人ならば、二言三言、ヒントのようなことを言えばすぐに分かってもらえるものと思っていた(以前かかわっていた音楽系某SNSでは、そういう反応も多く、意を強くしていた)。それが、違った。近頃かかわるようになったアマオケの、歳若い、非常に優秀なプレイヤーである友人たちが、まるで理解できずにいるらしいことに、ショックを受けた。彼らはそれほどまでにメトロノームの洗礼を受けてきてしまっているのだ。彼らに分かってもらうためには、これは相当腰を据えてかからなければならない。相当きちんと言っていかなければならない。

どうやら、今日、音楽家は、プロアマを問わず、2種類に分かれてきているように思える。拍節感を持つ者と、メトロノーム的な拍しか知らない者と。(漠然とした感覚で、その都度いずれにも意識せずに合わせている第三のカテゴリーの人々もあるかもしれない。)この種類の異なった者がアンサンブルをしようとすると、どうにも音楽がまとまらない。同種の者同士であれば、簡単にまとまる。それならばそれで、それぞれにめでたしめでたしのようだが、メトロノーム同士の音楽は、もちろん音楽の残骸であると、ぼくは考えている。最初に書いたように、19世紀的テクノロジーに殺された音楽の骸なのだ。ぼくはそんなものを聴きたいとは思わない。聴いていて、苦痛でしかない(かれらに合わせるのはもっと苦痛だ)。しかしそれが拡大傾向にある。だからこのメトロノームたちに、拍節とは何なのかをなんとかして理解してもらうことが、今、緊急の課題なのだと思われる。何しろ、この2種類異なってしまっていることも認識されていないし、だからなぜ合わせにくいのかも理解されていないのだ。

先日、いわゆる「古武術」系の書物をまとめて読んでいて、この点に引きつけて深く頷いたのは、一つは「日常的な、当たり前の身ごなしや技術は忘れ去られやすい」ということだ。当たり前のことは書かれない。ことさらに概念把握されない。だからいったん忘れられたらあまりにはかなく消えてしまう。もう一つは、甲野善紀氏が言っているという、「小成は大成を妨げる」ということだ。メトロノームでも音楽みたいなことはできる。でもそれは本来の古典音楽ではない。しかしメトロノーム的小成に安んじている人たちには、そのことが分からない。小成している、つまりともかく形になってしまっているように見えるからだ。だから、当たり前のことが発掘され、きちんと書かれなければならないのだ。

前々から、この拍節の問題に関しては、まとまった形で書こうと思い、紀要論文や、ブログでのメモの形で書き散らしてきた。材料は少しずつそろってきている。あとは、フーゴー・リーマンの読み直し、このジャンルでの重要な仕事である Hasty の『リズムとしての拍節』を評価すること、そしてまともな演奏の実測値の取得といったあたりが課題だ。いや、このへんは前々からやらなければと思いながら、雑事にかまけて先延ばしにしてきたのだった。今年はできるだけ一気に先に進めることにしよう。

弦楽器のイントネーション(ピアノとのアンサンブル)

2008年3月19日 水曜日

カザルスは言っている。



「抑揚は良心の問題です。生活のなかで何か悪いことをしたと気づくと同じように、ある音がよくないと気づくものなのです。悪いことはほうっておいてはいけません」(ウェッバー編『パブロ・カザルス 鳥の歌』ちくま文庫、168ページ)

池田香代子氏がここで「抑揚」と訳しているのは、イントネーションのことだ。

intonation.jpg弦楽器のイントネーションのことは、早くからヘマンの本(『弦楽器のイントネーション』竹内ふみ子訳)の翻訳が出されて、比較的知られてはいるが、個々のアンサンブルのケースで具体的にどのようなことがあるのか、あまり詳しい説明はなかなか僕らの視野には入ってこない。

近ごろSchott 社から精力的に弦楽器関連のマニュアル本を出しているゲルハルト・マンテルが、弦楽器のイントネーションに関しても一冊書いている。
Intonation. Gestaltungsspielräume für Streicher

この本の最後のほうの章で、マンテルは、弦楽器同士のアンサンブル、ピアノとのアンサンブル、管楽器とのアンサンブル、チェンバロやオルガンとのアンサンブル、オーケストラ内でのアンサンブルについて、それぞれ3−4ページずつながら、触れている。

ピアノとのアンサンブルでマンテルが強調しているのは、すべて平均率に合わせなければいけないわけではないということだ(分かっている人には当たり前のことだろうけど)。ピアノとのアンサンブルであっても、同じ曲のなかで、どういう箇所かによって、弦楽器は平均率から和声的イントネーションへ、ピタゴラス的イントネーションへと、飛び移ることができるのであって、それこそが、こと音程に関しては、探究しがいのある課題なのだ。

Beethoven Cellosonate Op.5-2ここでマンテルはベートーヴェンのチェロソナタop.5 Nr.2 から例を引いている(画像)。こういう具体例が、僕などにはありがたい。

アダージョ・ソステヌート・エド・エスプレッシーヴォの4小節目。この4分音符の h を、チェリストは、次の1拍目の c への導音のように感じて高く弾きがちだが、ここはピアノのオクターブ上の h に合わせなければならない。これに対して4つ目の16分音符の h は、まさしく c への導音として、高めに取ってよい。ここではピアノは鳴っていない。

チェロの5小節目最後の8分音符の cis に関してはまた逆で、チェリストは、5小節目の d への導音として高くとりたくなる気持ちに逆らって、低めに押さえなければならない。ここで8分音符というのは和声的なイントネーションを要求するに十分な長さなのだ。この部分を支配しているのはピアノの左手の a であり、さらにピアノの右手の cis も響いている。

Suzuki Viola School

2008年3月10日 月曜日

suzuki.jpgヴィオラを一から始める人のための教則本で、初級から中・上級まで系統立ったコースになっているものは、現時点では、スズキ・メソッドの全八巻のこれがほとんど唯一ではないかと思われます。スズキのヴァイオリン教本をヴィオラ用にアレンジして、アメリカで制作されているもので、スズキの本家の日本国内では出版されていません。ヴァイオリン教本と重なる曲が多いですが、ヴィオラ独自の曲も加え、よく出来ていると言えます。

楽譜専門店などでも手に入りますが、国内で購入する場合は、おそらくアマゾンが一番安い。ところが、残念なことに、日本のアマゾンの商品表示は不親切で、どれが何巻なのかが分からなくて往生します(表紙の画像がある場合は、そこに書かれた Volume 1 などの文字で見分けがつきますが、画像がない場合も多い)。そこで、ご参考のため、日本のアマゾンの各巻へのリンクを以下に並べておきます。(実はここでISBNを調べてアフィリエイトリンクを張っただけ。)

Suzuki Viola School: Viola Part, Volume 1
Suzuki Viola School: Viola Part, Volume 2
Suzuki Viola School: Viola Part, Volume 3
Suzuki Viola School: Viola Part, Volume 4
Suzuki Viola School: Viola Part, Volume 5
Suzuki Viola School: Viola Part, Volume 6
Suzuki Viola School: Viola Part, Volume 7
Suzuki Viola School: Viola Part, Volume 8

なお、収録曲などは、出版元 Alfred Publishing が出している Suzuki 教本の PDF カタログをご参照ください。

ボクシングとボウイング、そして左腕

2008年3月6日 木曜日

甲野善紀氏の本数冊(荻野アンナ・甲野善紀『古武術で毎日がラクラク!―疲れない、ケガしない「体の使い方」』なんてのも含めて)に続いて、『ナンバ走り 古武術の動きを実践する』 (光文社新書)を読む。甲野式の動きを取り入れて成果を挙げているスポーツ界の話をスポーツライターの織田淳太郎がまとめた本だ。

ひとまず目に付いたのはこんなポイントだ:

ボクシングでは、「拳を内側に捻り込むようにして打つべし」と、よく言われる。劇画『あしたのジョー』でも、丹下段平が矢吹丈にボクシングの初歩段階として教えていた。
これは、パンチの威力が増すという理由で指導されるのだが、実は拳を捻り込むことで、肩の「分離」も促されているのである。それによって、腕が瞬間的に長くなり、パンチのスピードが加速され、インパクトの衝撃がそれだけ大きくなる。さらに、捻り込むことで、上腕の筋肉線維のラインが真っ直ぐに伸び、力をよりダイレクトに拳に乗せることができるという利点もある。(43)

これはおそらくボクシングの「常識」(ぼくは知らなかったが)なのであって、ことさらに「ナンバ」ではないが、ダウンボウで弓先へ行くときの右腕の動きと一致する。その際も、手は内側に捻り込むようにして手首が下がり、肘が前に出て腕がまっすぐ伸びる。だからこのパンチの動きもよく理解できる。(この動きが「井桁崩し」とも重なり合うことは前に触れた。)

ではヴァイオリンを弾く場合の左腕はどうなのだろう?

「実は腕は肩からついているのではない。腕がついているのはさらに肉体の奥、すなわち鎖骨と胸骨の間にある胸鎖(きょうさ)関節からだ」(27)という認識は、(たとえばアレクサンダー・メソッド系の書物を通じて)以前から持っていた。だが、その意識を右腕にはある程度生かせているつもりでも、左腕のその点に関しては等閑に付してきたところがあった。

ヴァイオリニストの左腕は、つねに肘のところで曲がっており、また左手も、ネックの右側から楽器に接する以上、内側に、つまり左手のこの場合時計回りに、捻ることはありえない。(ネックに左手指を正しく置いていくためには、逆のひねりがむしろ必要で、ほんとうの初心者にはこれが案外難しいようだ。)

おそらく、上の記述に言う「肩の分離」ということが、左腕でも重要になってきそうな気がする。「肩甲骨と上腕骨の分離感覚」(30)とも言われている。「古武術では”割れる”という表現を使う」が、これは「上腕と肩を独立させて、別々に使う」ことと同義だという(40)。そもそも普通は利き腕ではないうえに、遠く伸ばすよりも折り畳んでいく動作が多くなる左腕は、この点の訓練が足りず、左肩が固まってしまっている奏者、つまり左腕のシフティング(ポジション移動)に鎖骨から肩にかけての部分が全く使えていない奏者(ぼくはたぶんそうだ)が多いのではないか。一旦楽器を置いて左腕を伸ばし、パンチングの動きを元にして左肩も柔軟にしていけば、左腕全体の動きにプラスになりそうな予感がする。

パンチや「投げる」動作は、体幹部から「投げる」感覚が重要であり、上腕と肩の「分離」感覚はそのために役立つという。そして体幹部から投げる感覚を伸ばすには肋骨を意識的に変形させるストレッチや、肩甲骨を柔軟に動かすストレッチが有効であるという。これも演奏のためにそのまま使えそうだ。

謙虚さについて

2008年3月4日 火曜日

謙虚ということについて考えていた。

ええっと言われるかもしれない。身近で、口の悪い人や勘違いしている人には、おまえの辞書に謙虚なんて単語載ってるのかよ、なんて言われかねない。

この言葉自体は、たしかにぼくはあまり好きではない。だがその理由は、安易に使われすぎてすり切れており、空虚な標語と化してしまう可能性が高いからだ。たんに卑屈に縮こまった姿勢を導き出す可能性もある。それがどう機能するかはポワン・ド・キャピトン、つまり状況や文脈による。

少なくともスキルや知識に関することでは、謙虚という言葉に意味があるとすれば要は、自分のまだ知らないもの、分かっていないものがそこにあるのではないかと予感する能力、そしてそれを探究していこうとする好奇心なのではないだろうか。いずれにしても、こうした定義を考えて、それを短縮する意味でしか、謙虚とか、そんな言葉は使えない。たんに謙虚さが必要だ、と口にすることには意味がない。