‘Musik’ カテゴリーのアーカイブ

レイト・スターター

2008年11月1日 土曜日

レイト・スターターという日本語は、どうやらヴァイオリン(とその他の弦楽器?)に関してのみ用いられる。この言葉、柏木真樹がひねり出して広めた。本人もそう書いているから間違いないだろう。しかしまあよくぞ普及したものである。でもその普及ぶりには理由があったのだと思う。

英語的におかしいという文句がある。英語的におかしいのはもちろんだが、英語と勘違いして英語圏に行って使ったりしなければいい。これは日本語なのだ。「テレビ」はおかしいからTVとか television と言え、というようなものではないだろうか。(どちらかというと個人的には「マンション」や「ホームページ」のほうがずっと気持ち悪い。でもこれらの日本語に文句を言う筋合いはない。自分では使わないだけだ。)

これが「差別語である」(最近ネット上の二箇所ほどで見かけた)というのも事実とズレているように思われる。どちらかというと、この言葉はもっぱら自称として使われているからだ。(逆に差別はむしろこれを差別語であると言う人々の側にあるのではないか。)まあ、自称としての「逆差別」だという見方もあり得ないではないが。

重要なことは、この言葉が、この言葉にあてはまる人たちにとって、一種の確かなアイデンティティを作り出しているという事実だ。たんに遅く始めた人たち(が自ら)をくくる言葉としてこの言葉があって、「でも楽しい」「でもがんばっている」というところに繋がっている。楽器は小さいうちに始めなければ、という言説は昔からあって、遅く始めることには、たしかにもちろん不利なところもたくさんあるから、それは間違ってはいないのだけれど、そのために、遅くなって始めた人たちを語る言葉が存在しなかった。そういう人たちは存在していても存在しないも同然だったのだ。そんな事情があって、いや、そういう人たちもたくさんいるんだよ、と認識させたのがこの言葉であり、そういう人たちに自らを語る手段を与えたのがこの言葉なのだと考えるべきだろう。

早く始めようが、どんなに指が回ろうが、どんな難曲を(一応)こなそうが、センスのない者、怠け者(これは僕のことだ)はダメなのだ。レイト・スターターという言葉は、そういう区別とは別のところにある。僕としては「レイト・スターター」の人たちを応援するだけだ。

Cooper と Meyer の、リズムと拍子に関する議論

2008年10月4日 土曜日

クーパーとマイヤーの『音楽のリズム構造』(1960)は、よい訳者にめぐまれたこともあり、この手の書物の中では、日本でも比較的よく読まれているほうではないかと思う。だが、その議論には根本的な問題があるとぼくは思う。

「リズムと拍子の相互作用は複雑である。一方では、ある楽曲の客観的な組織づけ─時間的な諸関係、旋律的・和声的な構造、強弱表現法(デュナーミク)など─がアクセントと弱拍(非アクセント)を作り出し、両者の関係を規定している。そして、これらアクセントと非アクセントがなんらかの規則性をもって生じたときに、拍子を特定するように思える。この意味では、リズムを生み出す諸要素が、拍子をまた生み出すのである。」 (123)

リズムやアクセント構造が拍子と一致することは少なくない。つまりリズムやアクセントが拍子の構造を支え、規定する要素として機能しているケースは多い。そのことは疑いを容れない。問題は、拍子がリズムやアクセントから独立し、対立しつつ存在することもありうるということである。

「他方、拍子は明らかにリズムからは独立して存在することができるが、これは、拍子がなんらかの確定的なリズムの組織づけなしに存在できる、という意味だけでそう言えるのではない。リズムの組織づけが、確立されている拍子と衝突したり、それにさからって働くこともありうる、という意味でもそう言えるのである。」(同所)

このようにクーパー&マイヤーは、拍子とリズムが対立し衝突しうることを確認し、その諸現象を記述していくのだが、拍子がリズムやアクセントの支えなしにいかにして存立しうるのかに関する考察はない。拍子がひとえにアクセントやリズムに依存しているのであれば、そのリズムが、書かれている縦線や拍子記号と食い違っている場合、拍子はただ無化されているだけで、リズムに「衝突」したり「対抗」したりすることは不可能なはずである。衝突や対抗が「感じられる」のであれば、拍子は別の原理ないし基盤によって生きているのだ。

この点をクーパー&マイヤーはまったく見ていないことがよく分かるのが、上の引用のすぐ後の、シューマンのピアノ協奏曲の第3楽章に関する次のような議論だ。

「しばしば作曲家は、演奏家が真の拍子の構造を解釈し、またそれを聴き手に伝達してくれることを当てにして、拍子記号と小節線をいくぶん無頓着に──単に便利な道具として──使っている。[引用者注:そういう作曲家もありえないではない。]たとえば、シューマンのピアノ協奏曲(イ短調)の終楽章は、楽章を通して3/4で書かれているが、80小節めで入ってくる旋律は、第一次レベルでは非常に強力な2拍子であり、したがってそこではもはや、拍子の構造を実質的には表わしていないことになる。この場合、それ以前の3拍子が、演奏家ならびに聴衆の心と運動反応の中で引き続いていることから、音楽はいくぶん緊張を孕んだ──ヘミオラのような──ものになっている。そしてまた他方で、新しい拍子は、それ以前の6/4(2×3/4)ではなく、3/2(3×2/4)のようになっている。」(124)

そうだろうか。通常第二主題と見なされるホ長調のこの部分、2小節組の各1小節めの第一拍の四分休符は、第一拍ゆえの「重さ」(ここではとりあえずこの語を使っておく)が感じられなければならない。これはあくまでも「弱起」の音型なのだ(シューマンの、バッハ、ヘンデルやその当時の舞曲の研究の影響が指摘されている)。各組2小節めの四分休符は、中間拍であるために逆に「軽い」。この箇所を2拍子だと見なしてしまえば、先にクーパー&マイヤーが述べていたはずの「リズムと拍子の対立」は無化されてしまう。たしかに、クーパー&マイヤーは、この箇所以前の3拍子の言わば「残像」との間に対立・緊張の効果を見ているようだが、緊張はこのフレーズ自体の内部にあると言うべきである。単純な2拍子として弾き飛ばすなら、まさにシューマンが意図したであろうその緊張を、雲散霧消させてしまう。そもそも、シューマンがここで本当に2拍子を望んでいたならば、改めて2/4の拍子指示を書き込むことができたはずである。シューマンがそうはしていないことを、クーパー&マイヤーは単なる「手抜き」だと言っているわけだ。シューマン自身が評論の中で(吉田秀和の注釈によればとっとと死ねという意味で)十字架を謹呈したマイヤベーアや、あるいはロッシーニあたりならともかく(いや、彼らはそもそもこんな音楽は書かない)、シューマンにそれはないのではないか。

クーパー&マイヤーは挙げていないが、シューマンのきわめてよく似た書法は、たとえば交響曲第3番の冒頭にも見られる。この旋律を、シューマンはなぜ3/2ではなく3/4で書き出したのだろうか。これは曲の劈頭であり、ピアノ協奏曲でクーパー&マイヤーが想定しているような、それ以前の部分の「残像」はあり得ない。もちろん逆に、3/2かと思って聴いているといつの間にか──というより7小節めからだろうが──3/4になる、という「効果」は考えられないではない。しかしその場合は対立・緊張ではなく、単なる曖昧さと言うべきだし、「効果」としてはかなり限られたものになるだろう。何より、クーパー&マイヤーがピアノ協奏曲で考えているような「手抜き」の記譜であるなら、シューマンは最初から3/2で書き、ここで明らかに3/4となる7小節め以降をそのまま3/2で書いたのではないだろうか。

われわれの拍節理解(両端拍がわずかに長くなり中間拍がわずかに短くなる)によれば、ここでシューマンがやっていることは明快に説明がつく。第1小節3拍目から第2小節1拍目へとタイで繋がれたヴァイオリンと木管のB(変ロ音)は、二つの両端拍の上にあるがゆえに、長く、「重く」なる。この部分を3/2拍子として「解釈」してしまった場合、このBは中間拍(第2拍)となり、短く、「軽く」なり、またそれによってこのフレーズ全体が恐ろしく軽快なものに性格を変えてしまう。「ライン」の愛称で知られるこの交響曲は(これはシューマン自身の命名ではないようだが、この曲が作曲家のライン河畔、デュッセルドルフへの赴任を契機として書かれていることは事実である)、3/4であるからこそ、ライン川(シャフハウゼンではなくデュッセルドルフ辺りの!)の悠揚とした流れが想起されもするのであって、3/2ではとんでもない急流になってしまう(そういう演奏もまま耳にするが)。この曲は3/4 でなければならないのだ。

「機械」のメタファー、「機械的」ということ

2008年9月26日 金曜日

このところ、ダルクローズやフルトヴェングラーを読んでいて、音楽に関する言説に現れる「機械的」mechanisch, mécanique という言葉について改めて考えている。ダルクローズもフルトヴェングラーも、この語をネガティブな意味で使っている。

現在では、機械的・無機的/有機的 という対と、デジタル/アナログ という対が共存しており、いずれも極めて曖昧に比喩的に用いられている。

しかし今日の「機械」は、もはや「機械的」という比喩でイメージされるものとは必ずしも合致しなくなっている。デジタルはあくまでも量子化された離散値を扱うが、最小値を小さくしていくことで、連続値に近づく。今日ではまた、必ずしも均等ではない、一定の法則に従って伸縮する「拍」をデジタルに描くことも、さほど困難ではないはずだ。「機械的」という言葉で喚起されるイメージは、同じ離散値でも、最小値がひどく大きいし、あくまでも均等で、微細なゆらぎを表現することはできないもの、なのではないだろうか。19世紀的な「機械」のイメージ、古典的な時計の、つまりは振り子のイメージだ。

「機械的」とは、広辞苑では、こうだ。比喩的な用法として問題になるのは (1), (2)。

きかい‐てき【機械的】
(1)機械が動くように単調な動きを見せるさま。「–に手を動かす」
(2)個性的でなく、型どおりのさま。「–に処理する」「–に目を通す」
(3)力学的。力学の法則に還元できる過程についていう。
(広辞苑 第4版)

Duden の Das große Wörterbuch の mechanisch の項で、ここで問題にしているような比喩的な用法は4番目に挙がっており、

4. a) ohne Steuerung durch Willen od. Aufmerksamkeit [vor sich gehend, geschehend]; automatisch: eine -e Bewegung; m. antworten; b) gleichförmig u. ohne Nach-, Mitdenken, Überlegung vor sich gehend:
© 2000 Dudenverlag

とある。意志や注意によるコントロールなしに、というあたりは、ダルクローズの使っている「機械的」とは正反対なのだが、これは実はあまり大きな問題ではない。(ダルクローズにとっては、「機械的」は本能やインスピレーションと対立し、「知性」や「意志」の側に算入される。)

ここで gleichförmig 一様に、という語が重要だろう。広辞苑が「単調な動き」という言葉で捉えていた側面が、ここにもたしかに見られる。つまり、「機械的」という比喩で表わされるイメージには、自動的な、意志の媒介を経ない、といっただけでなく、等速運動、もっとはっきり言えば均等拍のイメージも不可欠の構成要件として含まれている。ということは確認しておくに値するだろう。

おそるべきことに、Das große Wörterbuch の Metronom の項には、mit Metronom spielen, üben (メトロノームに合わせて演奏する・練習する)という「用例」が当然のように出ているのだった。

リトミックとオイリュトミー

2008年9月23日 火曜日

ちょっと気になって調べている途中なのだが、基本的なことのはずなのにまだ調べきれずにいる。オイリュトミーとリトミックの関係だ。

フランス語 Wikipedia の Rythmique の項目は書きかけらしく、

La rythmique est une méthode d’éducation musicale élaborée par le pédagogue Émile Jaques-Dalcroze, fondée sur la musicalité du mouvement

たったこれだけとそっけない。

ドイツ語 Wikipedia の Eurythmie の項目の冒頭は、

Die Eurythmie (auch Eurhythmie, gr. Gleichmaß von Bewegung oder schöne Bewegung) ist eine expressive Bühnentanzkunst, die Anfang des 20. Jahrhunderts (etwa 1908-1925) in Deutschland und der Schweiz im Umkreis von Rudolf Steiner, dem Begründer der Anthroposophie, entstand. Äußerlich ähnelt sie entfernt dem klassischen Ballett, sie wird aber im Allgemeinen weniger artistisch und körperbetont inszeniert.

とあって、ドイツとスイスでシュタイナーの周辺で成立したとはあるが、ダルクローズの名前は出てこない。

これが、New Oxford American Dictionary (Mac OS X 付属のもの)だと、

eurythmics
a system of rhythmical physical movements to music used to teach musical understanding (esp. in Steiner schools) or for therapeutic purposes, created by Émile Jaques-Dalcroze.

となって、シュタイナーとダルクローズが結びつけられている。

Encyclopedia-Britannica は、eurythmics をもっぱらダルクローズと結びつけており、この文脈でシュタイナーへの言及はない。(話がそれるが、Encyclopedia-Britannica オンライン版は、ちょっと検索するたびに、ユーザー登録をしろ、とうるさい。が、iPhone 用の Web アプリ版だとそういうこともないし、iPhone に最適化された画面で、大変読みやすい。)

ここらへんで気づいたのは、ともかく、英語圏では、ダルクローズの rythmique のことを eurythmnics と呼ぶらしいということだ。シュタイナーの Eurythmie は、通常、eurythmy と訳されているらしい。

eurythmics とeurythmy ──なんとも紛らわしい。

英語版 Wikipedia の Eurythmy の項目は、もっぱらシュタイナーに関わっているし、Eurhythmics の項目は、もっぱらダルクローズに関わっている。

してみると、両者を繋げているのは、New Oxford American Dictionary (NOAD) だけだ。NOAD が勘違いしているということだろうか? 

それにしても、シュタイナーとダルクローズの軌跡は同時代のスイスで交差しているはずだし、リトミックとオイリュトミーの内容は、重なり合うところが少なくないから、まったく無関係とは考えにくい。だが、NOAD を例外として、オイリュトミー/シュタイナーの解説はリトミック/ダルクローズに触れることがないし、逆もまたしかり。日本でも「リトミック」と「オイリュトミー」はまったく別に布教されており、両者はたがいに関心も持っていないように見える。(「関係はない」という断定も、ざっと見た限りでは見当たらないのだが。)不思議だ。

どなたかお詳しい方がいらっしゃいましたらご教示ください。

便利な曲

2008年9月23日 火曜日

プレーヤーにとって便利な曲というのがある。たいしたことがなくても超絶技巧に聞こえる曲というのはその一つだろう。ヴァイオリンではその代表格がチャルダッシュあたりだと言えるかもしれない。モンティの原曲は本来はマンドリンの曲だそうで、マンドリンでやったらどうなのかはぼくにはわからないが、これに対して、ものすごく難しいのに、聴くと地味な曲というのは、ショーアップしたいプレーヤーには当然ありがたくない。クラシックではどちらかと言うと後者のほうが多いような気がする。

だからレパートリーとしてまず最初にチャルダッシュを持ってくるヴァイオリニストに出会ったら、眉に唾をつけていい。チャルダッシュでぼくが思い出すのは、スロヴェニアのノヴァ・ゴリツァのカジノ・ホテルのレストランだ。

そこに来ていたヴァイオリニストというか、「楽士」という名がぴったりだと思うのだが、彼が披露していた曲の一つがチャルダッシュだった。かなり年配のプレーヤーで、チャルダッシュでも「省略」している音が少なくなかった。それでも「聴ける」んですよ、あの曲なら。そういう曲なんです。

ヴァイオリンの左手首

2008年8月8日 金曜日

handgelenk.gifヴァイオリン(ヴィオラ)の左手首は下腕からほぼまっすぐで、手首が楽器本体よりに曲がってしまってはいけないことになっている。

これは、初心者がもっとも陥りやすい「悪いクセ」の一つ(僕もかつてこれを直すのに苦労した)。これだと左手のフレームががたがたになって、音程がなくなる。ヴァイオリンを習い始めた人は、多くの場合、第一ポジションの次に第三ポジションを学ぶのだけれど、そのときにこのクセが付きやすいから気をつける必要がある。(第三ポジションの前に第四ポジションを、それによってポジション移動を教えたらいいのではないかと思う。第四ポジションだと、楽器のボディにぶつかるので、手首が曲がる余地はない。)

しかしまた、基本はあくまでもその通りだとしても、手首は絶対にこのように曲がってはならない、というのもまたウソではないだろうか。三度の和音を押さえるときは、第三指、第四指が低い弦に置かれる。ほかのたいていのパタンと違って、三度のときは、例外的に、手の小さめな人であればことさら、この「誤り」とされる形に近い形を意識してとる必要があるのではないだろうか。むしろそのことによって三度音程は安定するのではないだろうか。

(図は、Annemarie Jochum “Geige spielen. Ein Ratgeber fuer Liebhaber” Baerenreiter, 1994 ISBN: 3-7618-1142-X から。)



3rd_position.gif3度の和音のことはおいておいて、サードポジションの話に戻す。カトー・ハヴァシュ Kato Havas の A New Approach to Violin Playing (Bosworth) を読んでいたら、「サードポジションで手(手首)が楽器の胴に当たってよいか否かには議論があるが、自分は原則として(例外はいつでもあるが)当たってよいと考える」と書いてあった。ところが、そこに掲載されているイラスト(画像)を見ると、手首は曲がっていない。ちょうど手首はまっすぐなまま、まともなフレームのままで、手首が楽器の胴に接している図になっている。僕の経験では、サードポジションで手首が楽器の胴に接するには、手首は曲がってしまう(手が甲側に曲がる)しかない。ヴァイオリンの標準サイズは決まっているはずだから、これは手の大きさの違いということになるだろうか?

いずれにしても、ここから読み取れるのは、サードポジションで手首が胴に接してよいとするハヴァシュの発言は、その状態で手首が曲がらず、フレームがくずれないことを前提にしているはずだということだ。僕の場合を含む多くの日本人の、やや小さめな手では、これをやると確実に手首が曲がる。おそらく、ハヴァシュにとってこれは「例外」にあたるはずだ。だから、第四ポジションからがいいかもしれないという主張は、一見ハヴァシュの言っていることに反するようであっても、「手の小さめの人は」という限定を付けた上であれば、撤回する必要はなさそうに思う。

(親指と人さし指の股をネックにぴったりと付ける流儀もあるらしくて、それだとサードポジションで手が胴に当たる。)

いずれにしても、初心者がポジション移動の練習をするとき、左手全体のフレームに気をつけるべきだということは言える。その上で、以前のエントリで紹介したガールの練習なども加えていけば効果的だろう。

演奏は足し算ではなく割り算

2008年7月17日 木曜日

前のエントリで書いたように、大学の初心者集団のアンサンブルを、ときどき診ている。今年は珍しく「経験者」の新入生が多くて、いろいろと面白い新たな「経験」をさせてもらっている。ヴァイオリンの「経験者」で、いまレッスンでメンデルスゾーンの協奏曲をみてもらっています、という学生(月末にこの曲で「コンクール」に出るそうだ)がいて、先日、その演奏を見せて/聴かせてもらった。そのときに言ったこと。

・きみはハイポジションに行ったときに背中が丸まって前屈みになる癖があるようだ。意識して逆に動いた方がいい。ハイポジションでは左ひじが中に入ってくる。前屈みになれば、ひじは体に当たりかねず、いずれにせよ動きが不自由になる。ハイポジションに行った時こそ、胸を張った方がいい。
・もっと大きなフレーズを考えて組み立てよう。音楽は(少なくとも演奏する場合は)一音ごと、一小節ごとの足し算ではなくて、初めにフレーズありき、曲ありきの割り算なのだ。大きなフレーズを考えて、その中で部分部分をどうはめ込んでいくか考えた方がいい。
・弓の配分をもう少し考えよう。付点二分音符は4分音符の三倍の弓幅を使う、というのは初心者に対して言われることであって、いつまでも杓子定規に守っていてはいけない。前のフレーズが付点二分で終わり、次のフレーズ(のアウフタクト)が4分で始まって、いずれもアップボウになるとき、むしろ弓幅は逆転して1:3であってもいいし、アウフタクトは弓を先まで戻してしまって弾いたっていい。
・アルペジオでぱらぱら跳ばすには、右手首の動きを加えるといい。ダウンの最後で手首から先を下に振り、アップの最後で上に振る。
・弓先アップでアクセントを付けるのがうまくいっていないようだ。それをやるにはコツがあって…。

などなど。

まあ、確かに、こんなことを「教え」、相手の演奏がたちまち変わっていくのを見ていると面白い。一般教養の語学教員たちが自分の(無理矢理でっちあげた)「大学院」で、院生を教えたいと思う気持ちも分からないでもない気がしてくる。

Bowmaster

2008年7月8日 火曜日

bowmasterヴァイオリン初心者が弓の「持ち方」を安定させるためのアクセサリ。Super-Sensitive Music Instrument Companyという、なんだかなーという名前の会社の製品。フルフルさんのところで教えていただいて、購入してみた。Amazon.com に出ていたので、他の本を注文するついでに買えば送料の点でも有利かなと思ったが、実体は、amazon.com に間借りしているだけの別の小売店で別会計。本と一緒に送ってもらうことはできなかった。品物は6.95ドル。送料が22.50ドル。送られてきた大きな箱のいっぱいの詰め物の中に、ころっと入っていた。(昔のコーンフレークのおまけを思い出す。)

ぼく自身が使うためではない。大学の「宗教センター」で活動している音楽団体の、初心者の学生を「診る」ことがある。たいていは合奏の指導をしているのだが、個人レッスンみたいなこともやる。で、その中でも弓の持ち方を教えるのはとても難しい。それで、彼らに感じをつかんでもらうためのきっかけや補助になるだろうか、と思ってポケットマネー(って死語か?)で入手した。

言うまでもないことかもしれないが、自分ができるということと教えられるということはまったくもってイコールではない。

甲野善紀さんの周辺の書物をまとめて読んでからか、体の各部をいかに連携させて使っていくかが肝心だということが明確に分かってきてからは、ある程度できている学生が困っている場合、わりあい的確なアドバイスができるケースが多くなってきた。チェロの学生が、隣り合った弦を連続して交互に移弦するやり方に苦労していた時、肩からひじ、手へのラインが繋がっていないのがすぐに見え、手先だけでこねているのが分かったから、肘をちょっとあげてごらん、と言ってやることができた。そこに一つのラインを作り出すためだ。とたんに学生の顔が明るくなった。

でもこれはある程度できている学生の場合だ。まったくの初心者に弓の「持ち方」を教えるのは、難問のなかでもとりわけ難問に属すると思う。

弓の持ち方、いろいろな人がいろいろに表現を工夫して書いている。

ひよこをつかむように(ぎゅっとにぎったらひよこは死んでしまうよ)、とか、

しかしこの手の言葉は、分かってしまっている人から見ると、なるほどね、などと思うのだが、分かっていない人が読んでもさっぱり意味が分からないというケースが少なくない。そこにはどうしても、言わば「暗闇の中の跳躍」が、跳んでしまって、分かってしまって初めて分かる(まるでトートロジーだが)という事態が存在するのだ。

たとえば、動詞一つとっても、「持つ」「握る」「つかむ」のいずれも、適正な状態からはズレた表現になってしまう。弓が手の中にすぽっとはまっている感じ、「弓に演奏させる」感じなのであって、言わば他動詞の能動態で表現することは到底不可能なのだ。ところがこれから習得していこうとする人は、これも言ってみれば「主体」として、「能動的に」、弓に対してアプローチしていくしかない。不作為の作為が必要だ、という、禅問答みたいな話になってしまうのだ。

歳経りたツタのように弓にきゅうっと絡み付いている学生の右手指を弓から一本一本引きはがし、この指はここらへん、指の形はこんなふうに円く、親指はこんな形でこのへんに、小指の先は六角形の弓身のこの面に当てて、などとやって、いちおうそれらしい形にするのだが、本人がすぐにそれを自分のものにできるわけではない。他のことに気を取られていると(そして楽器演奏には気を取られるようなさまざまな要素が絡み合っている)、あっという間にへんなところに力が入り、右手の形もくずれてしまう。だから右手の形を安定させるこの小道具は役に立つかもしれないと思ったのだ。

まったく、この手の、教育の方便としての道具を作らせたら、いまだにアメリカ合州国人たちの右に出るものはないと思う。明らかにある種の合理主義と、オプティミズムと、独特の熱意とエネルギーが感じ取れる。(ヨーロッパの連中だったら恥ずかしくてこんなもの作れないだろうという気がする。)

まもなく期末試験期間。学生たちの音楽活動はしばらく休止するから、この小道具を実際に使ってみるのは少し先のことになる。少しでも効果があればよいと思う。

ウサギ跳びをするゾンビたち

2008年7月7日 月曜日

メトロノームと呼ばれることになるものをオランダのウィンケルが発明したのが1812年、それを改良して拍・韻律とノモスを合した名称でメルツェルが特許を取ったのが1816年。この本質的になんとも単純な機械仕掛けで均等なパルスを発する器械が、その後の音楽を呪縛することになる。(それはヨーロッパの外、たとえばアメリカや日本でとりわけ著しい影響力を揮うことになる。)

巨人の星ちょうど実用化されたメルツェルのメトロノームに、ベートーヴェンははしゃぎ、自分の作品にメトロノーム速度を書き入れる。しかしその表記はのちのち論議の的ともなった。ベートーヴェンがメトロノームに感動したのは、あくまでも意図したテンポを伝える手段としてであり、メトロノームに「合わせて」演奏などするものではないということも、彼ははっきりと書いている。

“Gar kein Metronom! Wer richtiges Gefühl hat, der braucht ihn nicht, und wer das nicht hat, dem nützt er doch nichts…”
「メトロノームは無しだ! ちゃんとした感覚のある奴なら、メトロノームは必要ない。感覚の無い奴なら、使っても意味がない。」
(Rostal and Ludwig, 1991, Ludwig van Beethoven: Die Sonaten für Klavier und Violine. )
Sylvio Krause, Das Probespiel Violine, Friedrich Hofmeister Verlag, 2001, S. 7 からの孫引き。

さて、メトロノームとは何の役に立つのだろう? どう役立てるべきものだろう?

  • もちろんおおよそのテンポを知るには役立つ。
  • テクニカルな練習曲で、難易によって途中で無意識にテンポが変わってしまわないようにチェックするため、アドホックにちょっと使う、というのもアリだろう。

しかしそうした範囲をはるかに越えて、「メトロノーム練習」が行われている。それにしても、なぜにこれほど無反省に、惰性的に、「メトロノームに合わせる練習」が行われているのだろう?

それはちょうど、ウサギ跳びにとてもよく似ている。歯を食いしばって苦行に耐えることで、何か功徳を積んでいるかのような感覚に浸れるのだろう。文字通り「機械的」な、音楽とは無縁の作業でしかないのに。ウサギ跳びがスポーツや体力作りとは実は無関係で、むしろ害になるのと、実によく似ている。

かくして拍節感は育たず、生命を欠いた楽しくも何ともない「音楽」があちこちで生産される。この音楽的ゾンビたち、キョンシーたちには、いたるところで出くわす。本人は生きているつもりなのだが、実は「おまえはもう死んでいる」と言うべきなのだ。頼むからそんなものを聴かせないでほしい。

あなたの演奏がダメなのは、メトロノームに合わせているからこそなのだ。あるいは、メトロノーム的な拍節感しか持っていない、つまりは拍節感が無いからなのだ。そのことに、なぜ気づかないのか。いや、気づきたくないのだろう。音楽を忘れ、自己目的化した「訓練」。そこには一種の倒錯した快感があるであろうことは容易に想像がつく。自分はこんなにもまじめに一生懸命練習しているのだ、善行を積んでいるのだ、という満足感があるのだろう。それが決して「音楽」に資するものではないことは見ようとしない。(このことが分からない人たちには本当に分からないようだ。そこには明らかに心理的な問題がある。分かりたくないのだ。)

ダルクローズが拍節(ダルクローズはこの言葉を明らかに均等拍の意味で使っている)に敵意を剥き出していたこと、フルトヴェングラーが「歌」Gesang という言葉で要求していたこと(フルトヴェングラーが「法則」Gesetz という言葉を「歌」に近接させて使用していることは示唆的だ)は、あまり理解されているとは思えないが、ほぼ間違いなくこの問題にかかわっている。

必要なことは、拍節的なゆらぎを作り出し、ゆらぎをコントロールし、ゆらぎに乗ること、聴き手をそのゆらぎに乗せること、アンサンブルであれば互いのゆらぎをすり合わせること(「縦の線を合わせる」というのはこのこと以外ではない)、大きなアーチを、波を作り出すことだ。均等拍が基本で、ゆらぎはその香辛料、などではない。少なくともクラシックにおいて、ゆらぎは拍の本質に属するのだ。

「体育会系」と呼ばれるメンタリティと、ウサギ跳びはとてもよく合う(そもそも、「表の体育」がそれ自体「体育会的」なのだ。この点については、甲野善紀『表の体育 裏の体育』が非常に示唆に富む)。そして日本の大学オケの多くと、クラシック関係の一部の人たちもまた、とても体育会的だ。うっかり日本のそこらのアマオケなどに行くと、おまえは十分に死んでいないと言って怒られることになる。あるとき、ある若いヴィオラのゾンビは自信たっぷりに言った。「××さん、そこ、出るの早いです」(××にはぼくの名前が入る)。アウフタクトは早めに入って長めになる。それが、死体から見ると、たんに飛び込んでいるように思えるのだ。

(このことがぼくにとってショックだったのは、長いことまさか彼はゾンビではあるまいと思い込んでいたからだ。不明を恥じるしかない。いや、一般に優秀と目されるプレイヤーたちのほとんどがゾンビであるなどということはあるまいと思っていたのだ。このあたりで気づいたことは、現実はそうではないということだ。事態はそれほどまでに深刻なのだ。)

ウサギ跳びの無意味さが認識されるようになったのも、そう古いことではない。「メトロノームに合わせる」練習の問題性が広く認識されるようになるのはいつのことだろうか。

モーツァルトの未知の曲の遺稿?

2008年5月23日 金曜日

mozart.jpgDie Zeit 紙が伝えているところによれば、ポーランドの修道院でモーツァルトの総譜手稿18点が発見され、そのうちの3曲はケッヘルのカタログにも収録されていない未知の作品だという。もし本当にモーツァルトのものだとすれば、晩年のウィーン時代のものだとか。

AFP による記事は、いったいどういう編成のどういう曲なのか、一切伝えていない。うーむ。