7月6日、イタリアのパドヴァ。第8回 Sound and Music Computing Conference (SMC)の一部として行なわれたコンピュータ・プログラムによる「表現的な演奏」のレンダリングを競うコンテストRENCON (Musical Performance Rendering Competition for computer systems)。候補曲としていわゆるクラシックのスタンダードなピアノ曲が20曲リストされていて、当日その中からくじ引きで一曲を決め、その後一時間で各チームはそれぞれのプログラムによってレンダリングをする。くじで決まったのは、ベートーヴェンの悲愴ソナタの三楽章だった。その後、各チームの演奏(時間の都合で冒頭の1、2分のみ)を聴き、会場からとネットからの投票で「よい演奏」の順位を決める。参加チームは日本、イタリア、オーストリアからの6チーム(うち1チームはキャンセル)。
会場に参加してみて、ここにはそもそも巨大なパラドクスと言うかアポリアがあることに改めて気づく。良い演奏の特徴を取り出すためには、どれが、何が、良い演奏なのか予め分かっていなければならないというパラドクスだ。
盲滅法にパラメータをいじったところで、それはサルにタイプライターを与えてシェークスピアのソネットを打ち出す確率に賭けるに等しい。 「名演奏」の特徴を抽出したデータベースに基づいているのだという演奏もあったが、少なくとも何を名演奏とし、そのどの部分をどのように抽出すべきかというところでやはりこのアポリアが顔を出していたであろうことは、何より結果が物語っている。
実際のところ、どの演奏も、結局は恣意的な「ルバート」のオンパレードだったと言える。強弱やタッチもいじっていたようだが、それは常識的な範囲に収まっているか、さして効果的ではないかのどちらかだった。(その中で、指揮の身振りにインターラクティブに反応するプログラムは、いくらかの可能性を感じさせ、楽しめるものではあった。)
こうした試みがあくまでもピアノを基準に、ピアノを一種のモデルとして行なわれていることもやや問題かもしれない。データを送り込んで演奏させることができるピアノ(YAMAHA製)のそれ自体の完成度が高く使いやすいということもあるだろうが、ピアノは音楽の美を発見するのに決して適した楽器ではない。
では、こうしたコンピュータによる「表現的な演奏」の試みは必然的に児戯にとどまるということだろうか。そうは思わない。その唯一の可能性は、音楽が分かっている者がプログラミングに関わる場合をおいてあり得ない。もちろんここでも、「音楽が分かっている者」を見出す問題において、パラドクス状況は変わらないと言えるかもしれない。だが可能性はある。そしてそれが一旦うまく動き出せば、音楽教育へのフィードバックを通じて、リアルな演奏にも貢献して行けるようになる希望もある。要はそこを狙わなければせっかくのテクノロジーも宝の持ち腐れだということだ。(もう一つ、19世紀後半から20世紀初頭の音楽学で「フレージング論」として語られていた言説を読み込み、応用するという手もかなり有望そうに思えるが、そういうことをやっている形跡はない。)
「表現的な演奏」はこうした理工学系の人々や認知心理学系の人々に好んで使われている用語だが、私見ではさらに、その少なくとも一部は、たとえば本来の拍節の「定義」の一部として取り込まれるべきものだと考えている。フィードバックの一つの可能性。ここで興味深いのは、くじ引きで演奏曲を決めるに際してリストに挙っていた候補曲が、バッハ、スカルラッティを除けば、1750-1900年の曲ばかりだったことである。旧来、「クラシック」のスタンダードとされていた時代のものばかりだ。「表現的な演奏」という用語が、主にこの時代の音楽に向けられたものであることが分かる。旧来のスタンダード、つまり当たり前。ある時代に行なわれていた「当たり前」は、当たり前であるがゆえに、言語化・理論化されない。当たり前であるがゆえに、その後の時代にはむしろ忘れ去られる。近年饒舌な古楽研究、極論すればハナから「理論」的な「現代音楽」と違って、実はこの時代の音楽、演奏については、もっとも(まさに何がしかるべき、良い演奏なのかを説明する)言葉=理論が足りない。それを曖昧に補うかのように適用されているのが「表現的」という単語であるわけだ。
ともあれ、司会のHさん、お疲れさまでした。
晩、SMCの「オープニングコンサート」も行ってみた。面白いのだが、そんなに延々聞かせるようなものではあるまいと思った。最初の三曲は、それぞれチューバ、ヴィオラ、フルートのソロが断片的に奏でる音をリアルタイムで拾ってサンプリングし、それをスピーカーから被せていくようなもの。ソリストたちは、自らの音の亡霊たちとアンサンブルするわけだ。しかし長すぎた。ソナタ形式のように構成上ある程度長さが決まってくるような構造があるわけでなし、各五分位が適切なところではないかと思った。文字通りの「同工異曲」。客席中央付近でMacBookを操作していた男は「暖かい」拍手に自己満足を満面に湛えて挨拶していたが、前半の三曲一時間を聴いたのち会場を出た。




何年前だろう、京都の弦楽器店で、アマデウス四重奏団メンバーによる公開レッスンがありました。アマデウスは1987年にもう活動は止めていたので、元アマデウスと言うべきかもしれません。
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