‘Germans’ カテゴリーのアーカイブ

ドイツの大学オケ、アマオケ (1)

2005年3月7日 月曜日

大学院生のとき、ドイツ(当時は西ドイツ)から金をもらってドイツの大学(ボン大学)に行かせてもらった。ドイツの大学というのは、学問の府だということになっているからか、クラブ・サークルの類はほとんどない。公認の団体として存在するのは、オーケストラと合唱団ぐらいではないかと思う。Bonn 大学にも、collegium musicum という名の学生オーケストラがあった。

僕はヴァイオリンを弾く。最初の学期、余裕がなくて大学のオーケストラには入らなかった。そのかわり、Tannenbusch にあった学生寮のすぐ近くで練習していたアマオケに顔を出した。そのとき練習していた曲すら覚えていないが、メンバーはおじいちゃん(医者が多かった)、おばあちゃんがほとんどの、養老院みたいなとんでもないオケだった。死ぬほど下手。たとえば、crescendo が出てくれば subito forte になってしまうし、diminuendo ならその逆。こういう、日本のド下手なアマオケによくある症状は、彼らも一緒なんだ、ドイツ人だからちゃんと出来るというわけではないんだ、下手なオケは同じなんだ、という認識は貴重だった。

指揮者は、どこかで専門家としての教育を受けた40ぐらいの男だったが、どうにもならなかった。声部ごとに色鉛筆できれいに色分けされた彼のスコアは、むしろそのダメさ加減を語っていた。

チェロに例外的に若い女の子がいた。顔にソバカスの目立つ、ベルリン出身の、ボン大学の学生だった。年齢が近いから、おのずと話をするようになった。ひどいよね〜このオケ、という話になって、何となく二人一緒に退団した。僕が3回ぐらい出た後だったか。事務元締めの Groß というおばちゃんは、辞めると言ったら、彼女が出来たから辞めるとはなんという性格だ、と罵っていたが(なんかボンではおばちゃんに罵られてばかりいたみたいだ)、べつに彼女は「彼女」になったわけではない。辞めてから、デュオを試みたことがあるけれども、全然話にならなかった。レベル的には、彼女にはあのオケがちょうどよかったのかもしれず、僕の道連れになるべきではなかったのかもしれない。彼女のほうは僕を「彼氏」にするつもりだったみたいだが、結局そうはならなかった。
ただ、彼女が僕に向かって語りかけてくる言葉によって、ある意味でドイツ語の世界に入らせてもらったような気がする。duzen で、ひたすら僕ひとりに向かって語りかけられる言葉。外国語をモノにするには彼氏/彼女を作ればいい、なんてことは当時もよく語られていたけれども、そうなりさえすればいいというものでもないことは明らかだ(日本人の奥さんを持ちながらいつまでたっても日本語がまるでダメなアメリカ人などは日本でよく目にする)。でも、今では名前すら覚えていない彼女(いや、いま思い出した。たしか Klaudia クラウディアだった)が語りかけてくる言葉には、自分がそれまでとは違うところにふっと入り込んだような感覚を味わったのを覚えている。それだけは感謝しておかなければいけない。

次の学期、大学のオーケストラに入った。

赤信号

2005年2月27日 日曜日

ドイツ人というのは、法に対する一種硬直した忠誠を抱えていることになっている。というか、いた。ヒトラーだってきわめて合法的に民主主義の中から出てきたのだし(そもそも法というのは共同体内部のもの、近代で言えばネイションの内部のものだということに気をつけておく必要があるだろう。「国際法」のステイタスは本質的に今でも不安定なままだ)。赤信号で絶対に道を渡らないのがドイツ、赤でも渡るのがフランス、赤のときに渡るのがイタリア、とか、バスの車内に、ドイツでは「運転手に話しかけないでください」、イタリアやスペインでは「運転手が話しかけてきても応えないでください」と書かれている、とか、まことしやかに語られていた。たぶん一面の真実だ(ったのだ)ろう。

ドイツで、赤信号で道を横断したことがある。ボンのホーフガルテンの南西端の横断歩道。道のこちら側には僕一人、あちら側にはいかつい顔のおばちゃん一人。見はるかすかぎり右にも左にも車の影も見えない。(ちなみに、日本では歩行者は右を見て左を見て右を見て渡らなければいけないが、車が右側を走る欧州では、左を見て右を見て左を見て渡らなければいけない。)そのとき、おばちゃんは、赤にもかかわらず横断した僕の通り過ぎざま、「犯罪者! Verbrecher! 」とのたまったものだ。罵られた僕は、「ああ、ドイツだぁ」と思って、かえって何だか嬉しくなってしまった。こんなドイツ人も、もはや死滅しつつあるのが実情ではないかと思う。

追記:
路上の交通信号の歴史については、ドイツの放送局 SWR 系の子供向けのサイトのこの記事がコンパクトで面白い。

ちょっと考えれば分かることだけれど、交通信号はそう古いものではない。20世紀の産物だ。だから信号に対するドイツ人の忠誠というのも歴史的にそう古いものではないことになる。

初めて路上の交通信号が作られたのは1868年のロンドン。馬車の交通整理のためだった。しかしこの信号、ガス灯だったものだから爆発事故を起こした。爆発する信号機、って、われわれにはなかなか新鮮なイメージだ。当時は笑い事ではなかっただろうけれど。

すでに鉄道で使われていた電気による信号を路上に導入することを考えたのは、デトロイトの警察官、ウィリアム・ポッツ。車が増え、事故が増えてきたことに対する策だった。デトロイトの交差点で、別の方向を向いた信号機同士が連携して色を変えるこのシステムが初稼働したのは1919年1月2日のことだった。これも今から考えれば、単純なアルゴリズムだと思えるけれど、当時は知恵を絞ったんだろうなあ。
このアメリカのものに倣った信号機がドイツに入ったのはその5年後。1924年ベルリンのポツダム広場。
さて日本はどうだったのか?

肝心の「どう渡るか」という話、「チューリヒ日記」の著者、tsujigaku氏によれば、スイスでは、一応車が来ていないのを確かめた上で赤信号でも渡っている、とのこと。われわれの感覚からすると、至極ふつーでまっとうで当たり前じゃん。それから、ベルンのバスには「運転手に話しかけるのは賢くない」と書かれているが、チューリヒでは見かけない、のだそうだ。

Bonn の天文台

2005年2月22日 火曜日

夜中、家のベランダにぼーっと座る。このところ、風さえなければ、それほど寒くない日も多い。西向きなので、冬の夜更け、プロキオンとシリウスとベテルギウスの「冬の大三角」がよく見える。都市部で周りが明るいからということもあるが、僕の視力で(眼鏡をかけていても)ちゃんと見えるのは一等星、せいぜい二等星止まりなのが悲しい。

かつて Bonn にはのべ三年暮らしていたのだが、先日、改めて Bonn のことをあれこれ調べていて、Argelander アーゲランダーのことを初めて知った。Friedrich Wilhelm August Argelander (1799-1875)。19世紀の天文学者。天文に興味のある人なら、星図には接しているだろうが、近代的な星図の基盤となったのがアーゲランダーの仕事、ボン掃天星図 Bonner Durchmusterung (BD)だったのだ。durchmustern というと、残らずチェックしていく、という感じだろうか。「掃天」という定訳はそれを酌んでいる。

Argelander.gif

BD は、アーゲランダーがボン天文台の口径72ミリの望遠鏡で可能な限りのすべての恒星の位置を記録していったもので、1859-86年にかけて出版された。赤緯-2度以北の恒星32万個を記録、のちに門弟のシェーンフェルト Eduard Schönfeld が-23度まで拡張、13.3万個を追加。星には赤緯の1度の幅ごとに赤経の順に番号がふられて、それが今も星の名前として用いられているのだ。
(このあたり、とりあえず平凡社の『世界大百科事典』の記述によった。ここなども参考。アーゲランダーの星図はここで見ることができる。)

そういえば、ボンにいたとき、音響学の資料を探していて、偶然にこの天文台のところへ行った。かつてのケルン選帝侯の宮殿である大学本館から、生物学系学部の入っているポッペルスドルフ宮殿に向かって延びるポッペルスドルフアレーというとても美しい並木道、その両側は高級住宅街、そういう住宅の裏手、アレーからちょっと南に入ったところに、天文台が隠れていた。

でも、そのときはアーゲランダーのことなど知らなかった。天文台の玄関ロビーには彼が使った72ミリ、倍率10倍の望遠鏡が飾ってあるというが、その時、目にしたのか、しなかったのか。それにしても、高台でもなんでもない住宅街の蔭、ボンの中央駅からもほど近いところの、可愛らしい天文台だった。

これも駅に近い「旧墓地」に、作曲家ローベルト・シューマンの墓があることは比較的知られているが、アーゲランダーの墓も同じ墓地にある、らしい。この墓地も何度か行っているのだけれど、当時はアーゲランダーのことなど知らなかったから気をつけて見ていない。

tedeschi neri?

2005年2月20日 日曜日

tsujigakuさんがスイスの日焼けサロンについて書いている。
チューリヒ日記2004/5:日焼けサロン

solarium.jpg

ベルンではそんなに珍しかったんだろうか? 少なくとも十数年前の〈西〉ドイツでは、すでにいたるところで見かけたし、今でも健在だ。ベアテ・ウーゼ(何だかわからない人は詮索しないでいいです)と同じくらいの頻度で見かけるし、同じようにどちらも僕は入ったことがない。そういえば、映画『グッバイ、レーニン!』でも、主人公の義兄がもとの母親の部屋にこれを持ち込んで全裸で使っているシーンがあった。今から考えてみると、当時の東西ドイツのギャップを示す小道具でもあったわけだ。そりゃ、〈東〉ドイツにはあんなものはあんなやたらにはなかっただろうから(ベルンも東ドイツだったのか?)。「日焼けサロン」に関して十数年前の経験でぶっとんだのは、ボン大学のとある学生寮。なんと地下に、この日焼けマシーン (上の画像のようなやつ) があって、たまに実際使っているやつまでいたのだ。

ドイツ人たちは太陽が、日光浴が好きだ。夏場、公園の緑地で、半裸になって横たわって太陽の光を浴びている連中がよくいる。場所によっては全裸だったりもする。日本よりも高緯度にあるドイツでは、夏場の日差しに対する憧れが強いのだと言う説明はよくあるし、たぶん当たっているのだろう。でもtsujigakuさんが言うように、それできれいに日焼けするやつなんていないし、そもそもちょっと強い紫外線に当たっただけで水ぶくれのようになってしまうので夏の直射日光はできるだけ避けているというやつも多い。また紫外線による皮膚ガン誘発の可能性が最もヒステリックに語られている国でもある。やっぱりヘン。

追記。今日のZAKZAKにこんな記事があった。
日焼けサロン、18未満はご遠慮を…WHO勧告

まあ、やたらに使って体にいいわけないことは明らかだ。