ボンナー・シンフォニエッタ Bonner Sinfonietta は、弦楽器中心の室内オーケストラで、古めかしい日本語で言えば、「国際色豊か」だった。大部分はもちろんドイツ人だったけれども、僕を誘ってくれたコントラバスのトーマスはフランス人だったし、ヴィオラにはベルギー人のオヂさんのパウルがいた。そして指揮は、中国系マレーシア人のチェンシー・オーイ。それに、グロースおばちゃんのオケとは違って、パウルあたりを例外として、平均年齢が低かった。
Chean See Ooi、彼女は、当時まだケルン音大の学生だったが、なかなかいい練習をした。ゆっくりとイントネーションを確認させる練習が特に印象に残っている。Bonner Sinfonietta の練習に初めて出た時、感想を求められて、「こういう練習がしたかったんだよ」と言った。みんな、ニッコリしてうなずいていた。
少し後の話になるが、やがて僕が日本に帰ってからしばらくして、この Bonner Sinfonietta は消滅してしまい、しばらくボン周辺に住んでいたらしいチェンシーも音信不通になった。マレーシアに戻ったと風の便りに聞いた。それが、昨夏、思いがけないところで彼女の名前を目にした。しばらくぶりに立ち寄ったボンの書店でふと手に取ったこの本。『二十世紀の女性指揮者』。
E. M. Blankenburg “Dirigentinnen im 20. Jahrhundert”
本書の中で、チェンシーが、意外に数多い(500人ぐらいだそうだ)全世界の女性指揮者中から選ばれた75人(日本人は入っていない)の一人として、インタビューを交えて紹介されている。そこにはこうある。
Mit achtzehn Jahren kam Chean See Ooi als DAAD-Stipendiatin an die Kölner Musikhochschule und studierte zunächst bei Tiny Wirtz Klavier…
当時、あまり詳しい話は聞かなかった。これによると、僕と同じドイツ学術交流会の奨学生として、18歳の若さで、ケルンに、まずピアニストとして留学したようだ。その後、エッセンで学び、さらにケルンに戻って指揮の勉強 (Kapellmeisterstudium) を始める。
[1987] begann sie ein Kapellmeisterstudium bei Volker Wagenheim an der Hochschule für Musik in Köln und leitete bereits während des Studiums in Köln die Bonner Sinfonietta.
ここに Bonner Sinfonietta の名前が出てくる。
Mit diesem Orchester gab sie 1988 ihr Debüt mit Ernest Blochs “Concerto Nr.1 für Klavier und Orchester”.
なんとボンナー・シンフォニエッタを振ってのブロッホのピアノ協奏曲第1番が、彼女の指揮者デビューだったのだ。僕がシンフォニエッタに入る直前のことだ。当時、練習のあとはいつもみんなで一緒に飲みにいっていたはずで、そんな話も耳にしていたのかもしれないし、コンサートプログラムには略歴が書いてあったに違いないが、記憶に留めてはいなかった(もちろん僕のドイツ語能力がたいしたことなかったせいでもあるだろう。そもそもシンフォニエッタがいつから存在しているのかすら確かめた記憶がない)。ボンナー・シンフォニエッタというオケがあって、彼女がそこでいい指揮をしてくれているという事実だけで満足だったのだ。メンバーたちにも愛されていた。
そしてこの本によると、僕がドイツを離れ、ボンナー・シンフォニエッタからも離れた翌年の1991年、チェンシーはハムとハレ二箇所の指揮者コンクールで優勝していたのだった。そしてドイツやチェコでの活躍(上の本によればいろいろ苦労もあったようだが)を続けるかたわら、1997年からは母国のマレーシア・フィルハーモニーの常任指揮者になっている。
つまり、助走中で離陸直前の彼女のもとで、僕はヴァイオリンを弾いていたことになる。
その後も連絡は取れていないというか、取ろうと努力もしていないのだけれど、チェンシーがますます活躍していくことを祈っている。
話が飛んでしまった。当時の Bonner Sinfonietta のことは、改めてぼちぼち書いていこう。
追記。
マレーシア・フィルハーモニーの公式ページ
マレーシア・フィルのコントラバス奏者でいらっしゃる古澤直久さんのマレーシア・フィル紹介 blog
MPO のチェンシー紹介記事(英文) ここには残念ながら Bonner Sinfonietta への言及はない。写真がある。名前には、マレーシアあたりの勲功者の称号である Dato が冠されている。写真で見てもやっぱり貫禄がついているなあ…というのは言わない約束か。