‘Germans’ カテゴリーのアーカイブ

Tanzen, tanzen!

2005年4月10日 日曜日

tanzen.png

ボン大学のオーケストラにいたとき。あの事務局の奥の練習場で打ち上げをやった。
やがて、だれかがラジカセで音楽を流して、ダンスが始まった。けっこう踊れる学生が多い。僕は見ているしかなくて、少し口惜しかった。彼らが踊れるのは、習ったから。

ここでダンスというのは、いわゆる社交ダンスの類い。

- ラテン系の人々は人間ってのは生まれつき踊れるものだ、ダンスなんて習うものではない、と確信していて、実際踊れる。(以前に紹介したアキン監督の映画『ソリーノ』の末尾で、白血病のはずの母親が息子の結婚式で楽しげに踊るシーンなども印象的だった。)
- ドイツ人はダンスは習うものだと思っていて、子供の頃、ダンス教室に通わされるから踊れる。
- 日本人はダンス教室に行かなければ踊れないと思っていて、かつ普通は習いにいかない。従って踊れない。

例によってこの手の一般化というのはおもしろがるためにある。認識のためではなくて娯楽のため。だから、あまり信じ込みすぎないように気をつけなければいけないけれども、ドイツの町ではよくダンス教室の看板を見かけるし(Web 上でも ‘Tanzschule’ で検索をかけるとごまんと出てくる)、ドイツ人が子供の頃ダンス教室に行かされるというのは大方事実のようだ。

ドイツ語の Podcasting、Schlaflos in Münchenが、先日(4月1日)、そのダンスを話題にしていた。男の子が15歳くらいになると、母親がダンス教室に行かせる。女の子にモテるように。ところが近頃は女の子の方が踊れないので、男の子がせっかく習っても…という話。

追記:Schlaflos in München はhttp://www.annikrubens.de/に引っ越したようだ。

追記その2:
イタリア人にとって、ダンスが習うものではないのと同様、音楽(歌)も習うものではないらしく、小学校に音楽の授業は無いそうだ。一貫している。

Brezel

2005年4月3日 日曜日

ドイツのパンというとまず思いつくものの一つがブレーツェル Brezel。もともと南ドイツやドイツ語圏スイスのもので、ドイツでは一日二万個が食されると言う。日本語では〈プ〉レッツェルなどと呼ばれたりもしている。おそらく、英語の pretzel から来ているのだろう。Pretzel は英語で Brezel を指す単語(俗語でドイツ人を指したりもするらしい)だが、同系統の味付けとはいえ、クラッカーのようなものに化けてしまっている。日本でプリッツなどの商品名で売られている菓子は、さらにその延長上にある。

ブレーツェルはクラッカーではなくパンの一種。表面は少し固く歯ごたえがあって、濃い褐色で艶があり、粗塩がまぶしてあって、中は少しもちもちした食感のパン。塩味だからビールなどに合う。ドイツなどで食べていて、日本でもたまに食べたくなる人は多いのではないか。8の字と言われたりする独特の形は、腕組みした太陽だとか幼いキリストを抱きしめる聖母のイメージであるとか言われている(本当かどうかは知らない)。

大昔 (1977) に放送され、「異人館ブーム」を作り出したNHKの朝ドラ『風見鶏』は、三宮で頑張っていたドイツ人のパン職人の話だった。神戸周辺はそんな人たちによってドイツパンの製法が入った経緯があるようで、それ系らしい古いパン屋がいくつかある。そして周辺のパン屋も、特に震災前は、このブレーツェルを看板の意匠にしているところが多かった。

そういう看板を掲げていても、しかし実際にブレーツェルを作っているところはほとんどなかった。最近、家の近くに開店したBという店が、時々作って売るようになったので、嬉々として買ってくる。
brezel1.jpg

ブレーツェルのレシピはたとえばここ
ブレーツェルの表面の独特の光沢は、ラウゲ Lauge と呼ばれるアルカリ液に漬けることで得られる。水酸化ナトリウム(Natriumhydrogenoxid、NaOH 苛性ソーダ)が使われるようだが、これは劇薬だから、日本では通常重曹と呼ばれている炭酸水素ナトリウム NaHCO3(ドイツ語で Natriumhydrogencarbonat)が使われる(牛乳でもいいらしい)。ドイツではナトロン Natron という名で知られている。

昨日同じ店で売っていたブレーツェルは「アルザス風ブレーツェル」と称していて、この光沢がない。ラウゲン処理をしていないのかもしれない。
brezel2.jpg

参考書:
ドイツの街のおいしいパンをめぐる旅
伝統と新しさ 本場ドイツパン入門―健康な毎日のためのパン作り

夏時間

2005年3月27日 日曜日

Lycos – news のRSSを引っ張ってきていたおかげで気づいたのだが、今日27日からヨーロッパは夏時間に入った。27日午前2時、時計の針は1時間すっとんで3時に合わされる。これによって、ヨーロッパでは、見かけ上、朝、明るくなる時間が遅くなるかわり、夕方、暗くなる時間が遅くなる。Lycos の記事にも簡潔に書かれているように、ドイツで夏時間が導入されたのは1980年で、そう古いことではない。毎年、3月最後の日曜に始まり、10月最後の日曜に終わる。

冬時間に変わる時はいいけれど、夏時間になる頃にヨーロッパでデートの約束をする時(とか旅行する時)は気をつけましょう。

英語は Daylight Saving Time らしいけれど、ドイツ語は日本語と同じ Sommerzeit 「夏時間」だ。「夏」時間とは言っても、始まる頃(つまり今頃)は、夏はまだまだ遠いし、終わる頃にはとうに暗く寒くなっている。本当の夏の間は、ヨーロッパは、この夏時間と高緯度があいまって、日が暮れるのがとても遅い。夏至の頃なら、ドイツあたりでは10時(夏時間の)近くまで明るい。だから…小さなガキどもがおウチに帰らずにいつまでも外で遊んでいる。だから…花火はヨーロッパでは「夏の風物詩」にはならない。花火は大晦日のもの、という感覚ではないだろうか。あとは、ワインの収穫期を中心に、かなり遅い時間になって(でないと暗くならない)、花火が打ち上げられる。たとえば Rhein in Flammen。これは、ライン川沿いのワイン祭りとリンクして、各市で花火が打ち上げられるもの。

夏、初めて日本からヨーロッパに行った人は、必ず日の長いことに驚く。一週間かそこらでせこせこあちこち回ってくる旅行者にとってはとてもありがたいことだ。(でもドイツでは、最近は少し変わってきたとは言え、どこも6時で閉まってしまうのだが。)

高緯度だからこそ意味のある制度だけれど、日本でも法制化しようという根強い動きがあるらしい。「省エネになる」、というのがその主な「理由」。またそれに対する反対も強いらしい。
「asahi.com:サマータイム導入賛否二分 本社世論調査 - 暮らし」は、ついこの前の記事。
反対理由の、「長時間労働につながる」26%という結果と、それについての「明るいうちには退社しにくいことを心配してか、特に男性の30、40代に多かった。」というコメントが泣かせる。ドイツ人どもなんて、明るさは関係なく普通夕方5時6時になったらさっさと帰っちゃうもんね。

ドイツと緯度的に近い北海道あたりなら意味があるかもしれない。上のasahi.comの記事ににもあるように、昨夏、札幌では試験的にサマータイムが導入されたそうだ。でも、日本の他の地域と時間が違うのはそれはそれで確かに不便かもしれない。逆に、イタリア南部やスペイン南部なんて、日照がらみのメリットはそれほどなさそうであるにもかかわらずサマータイムになるのは、EU諸国に合わせているということだろう。

ドイツの大学オケ、アマオケ (7)

2005年3月16日 水曜日

前にも書いたように、Bonner Sinfonietta に誘ってくれたトーマスはフランス人のコントラバス弾きで、学生寮の近くに、奥さんのユーディットと、生まれたばかりの息子ザムエルと一緒に住んでいた。トーマスはドイツ語を不自由なく話した。数年後に訪ねたとき、子供たちは完全な独仏バイリンガルだった。

Bonner Sinfonietta の練習は、ボイエルの教会で行われていた。ボイエル Beuel というのは、ボンの市域 Stadtbezirk の一つ。ボンの旧市街とはライン川を挟んだ対岸の地区で、1968年の市域拡大によってボン市に組み込まれていた。地味な街だが、「女たちの謝肉祭」 Weiberfastnacht はこのボイエルが起源だというし、聖女アーデルハイトの伝説に始まるピュッツヒェンの市 Pützchens-Markt は 600 年以上の歴史を持つ。

僕の寮のすぐ近くに住んでいたトーマスは、練習のたびに、車に乗せていってくれた。コントラバスはかさばる。運転する彼と、僕と、彼の楽器で、ほとんど一杯の車で、いつもライン橋を渡った。

ボイエルの、ライン川にもほど近い聖ヨーゼフ教会の集会所で、練習は行われていた。練習のあと、川縁のビヤガーデンにときどき行っていた記憶がある。
日本のアマオケではつきものの、団費というもの、ドイツのアマオケ、大学オケでは払った記憶がない。そのあたりの事情についても、当時の僕の情報収集能力のお粗末さのせいで、確かなことは分からない。シンフォニエッタのボイエルの教会について言えば、年に一二回、教会の行事で演奏するだけで、ただで使わせてもらっていたのではないかと思う。演奏した曲も忘れたが、オーケストラにあてがわれた二階席から、今日の司祭の説教は、若いけれど悪くないねえ、などと品評していたものだ。

ドイツの町中ではどこでもそうだが、ボイエルのこのあたりも、一方通行がやたらに多い(逆に日本で、なんでこの狭い道が一方通行ではないのだろうと思うことも多い)。そのボイエルで、あるとき、何かの拍子にトーマスは道を間違えた。一方通行だから走るわけにはいかない方向を、トーマスは、ずっとバックで走り通した。ああ、これがフランス人かな、と思ってしまったのを覚えている。

このトーマス、いまではボン近郊のザンクト・アウグスティンの音楽学校で校長をやっている。

Hikaru no Go

2005年3月12日 土曜日

これも去年の夏、デュースブルクの駅構内の書店で、『ヒカルの碁』のドイツ語版を見つけて手に取った。
hikaru.jpgHikaru no go Bd. 1 (BEST OF BANZAI! /…
この3月(2005年)までに、第3巻までが出ている。

ふだんあまりテレビも見ないので、『ヒカルの碁』の名前は耳にしていたけれど、それまで読んだことがなかった。滞在先のホテルで寝転がって読んだら、これが面白い。残念ながらそのときはドイツ版は第1巻しか出ておらず、帰国してから貸しビデオ屋で借りまくってアニメですべて見た(いかにも AVEX らしい、たいした収録時間でもないのにわざわざ片面二層にした DVD)。

ドイツでは、早くから輸入されて、もう百回ぐらい再放送されているのではないかと思われる『ハイジ』などを除くと、日本のアニメが入り込むのは遅かった。その点ではアメリカはもちろんのこと、フランスも、ドイツに比べればずっと早かったはずだ。(『ヒカル』もドイツではアニメ放映はまだではないかと思う。)
コミックも同様で、ハンブルクの出版社 Carlsen が次々に日本の漫画の翻訳を出し始めたのは、ほんの数年前のことではないか。最初は高橋留美子作品やドラゴンボールだった。

(前に偶然見つけてのけぞったのがチューリヒ大学のサイトの中のこのページ。どうやらハイジは Mac ユーザーであるらしい。)

もともとドイツは、一コママンガ的なものの伝統はあるし、絵本にもすぐれたものが多いことはよく知られているところだが、ストーリーマンガの文化には見るべきものがほとんどない。日本ではとうの昔に崩壊した「マンガはくだらないもの、子供のもの」という認識が、ごく最近まで根強かったように思う。以前からよく読まれていたのは、フランス産の『アステリクス』とか、アメリカ産の『ヘーガー』ぐらいか。

『ヒカル』は絵はきれいだし、佐為という特別な存在を除いてリアリスティックだし、暴力はないし、それでいてストーリー展開に緊張感があるし、囲碁自体、ドイツ人が好みそうだし、そこそこ売れていきそうだ。

囲碁と言えば、GNU Go というオープンソースの囲碁ソフトがあり、その Mac OS X 版に “goban” (フリーウェア)がある。
goban.png
他の人とオンラインで対局したり、ネット上で手に入る棋譜や定石辞典を読んだりするのにも使えて、おそらくはそちらのほうが肝心なのだろうが、コンピュータ相手の対局もできる。この思考エンジンが、ちょっと強い人からは弱い弱いと言われているのだけれど、僕にはたまに遊ぶのにちょうどいい。盤のサイズも七路盤から十九路盤まで変えられるが、僕は九路盤にして二目置いてやっと勝つか負けるかというレベルなのだ。
この”goban” のWebサイトには
「ヒカルと佐為のように、Mac で碁を打とう!」
と書かれていて、英語版『ヒカルの碁』から取られたらしい画像にリンクしている。ヒカルがインターネットカフェでCRTタイプの iMac を使ってネット碁を打つシーンだ。ドイツ語版コミックが出る以前から、ヨーロッパの囲碁ファンも英語版を通じて『ヒカルの碁』を知っていたのだろう。
そしてこの “goban” を開発してくれているのは Sente (先手?)を名乗る、おそらくはスイスの連中。さすがハイジも Mac を使う国だけのことはある…。

ドイツの大学オケ、アマオケ (6)

2005年3月11日 金曜日

ボンナー・シンフォニエッタ Bonner Sinfonietta は、弦楽器中心の室内オーケストラで、古めかしい日本語で言えば、「国際色豊か」だった。大部分はもちろんドイツ人だったけれども、僕を誘ってくれたコントラバスのトーマスはフランス人だったし、ヴィオラにはベルギー人のオヂさんのパウルがいた。そして指揮は、中国系マレーシア人のチェンシー・オーイ。それに、グロースおばちゃんのオケとは違って、パウルあたりを例外として、平均年齢が低かった。

Chean See Ooi、彼女は、当時まだケルン音大の学生だったが、なかなかいい練習をした。ゆっくりとイントネーションを確認させる練習が特に印象に残っている。Bonner Sinfonietta の練習に初めて出た時、感想を求められて、「こういう練習がしたかったんだよ」と言った。みんな、ニッコリしてうなずいていた。

少し後の話になるが、やがて僕が日本に帰ってからしばらくして、この Bonner Sinfonietta は消滅してしまい、しばらくボン周辺に住んでいたらしいチェンシーも音信不通になった。マレーシアに戻ったと風の便りに聞いた。それが、昨夏、思いがけないところで彼女の名前を目にした。しばらくぶりに立ち寄ったボンの書店でふと手に取ったこの本。『二十世紀の女性指揮者』。
dirigentinnen.jpgE. M. Blankenburg “Dirigentinnen im 20. Jahrhundert”

本書の中で、チェンシーが、意外に数多い(500人ぐらいだそうだ)全世界の女性指揮者中から選ばれた75人(日本人は入っていない)の一人として、インタビューを交えて紹介されている。そこにはこうある。
Mit achtzehn Jahren kam Chean See Ooi als DAAD-Stipendiatin an die Kölner Musikhochschule und studierte zunächst bei Tiny Wirtz Klavier…
当時、あまり詳しい話は聞かなかった。これによると、僕と同じドイツ学術交流会の奨学生として、18歳の若さで、ケルンに、まずピアニストとして留学したようだ。その後、エッセンで学び、さらにケルンに戻って指揮の勉強 (Kapellmeisterstudium) を始める。

[1987] begann sie ein Kapellmeisterstudium bei Volker Wagenheim an der Hochschule für Musik in Köln und leitete bereits während des Studiums in Köln die Bonner Sinfonietta.

ここに Bonner Sinfonietta の名前が出てくる。

Mit diesem Orchester gab sie 1988 ihr Debüt mit Ernest Blochs “Concerto Nr.1 für Klavier und Orchester”.

なんとボンナー・シンフォニエッタを振ってのブロッホのピアノ協奏曲第1番が、彼女の指揮者デビューだったのだ。僕がシンフォニエッタに入る直前のことだ。当時、練習のあとはいつもみんなで一緒に飲みにいっていたはずで、そんな話も耳にしていたのかもしれないし、コンサートプログラムには略歴が書いてあったに違いないが、記憶に留めてはいなかった(もちろん僕のドイツ語能力がたいしたことなかったせいでもあるだろう。そもそもシンフォニエッタがいつから存在しているのかすら確かめた記憶がない)。ボンナー・シンフォニエッタというオケがあって、彼女がそこでいい指揮をしてくれているという事実だけで満足だったのだ。メンバーたちにも愛されていた。

そしてこの本によると、僕がドイツを離れ、ボンナー・シンフォニエッタからも離れた翌年の1991年、チェンシーはハムとハレ二箇所の指揮者コンクールで優勝していたのだった。そしてドイツやチェコでの活躍(上の本によればいろいろ苦労もあったようだが)を続けるかたわら、1997年からは母国のマレーシア・フィルハーモニーの常任指揮者になっている。

つまり、助走中で離陸直前の彼女のもとで、僕はヴァイオリンを弾いていたことになる。

その後も連絡は取れていないというか、取ろうと努力もしていないのだけれど、チェンシーがますます活躍していくことを祈っている。

話が飛んでしまった。当時の Bonner Sinfonietta のことは、改めてぼちぼち書いていこう。

追記。
マレーシア・フィルハーモニーの公式ページ
マレーシア・フィルのコントラバス奏者でいらっしゃる古澤直久さんのマレーシア・フィル紹介 blog
MPO のチェンシー紹介記事(英文) ここには残念ながら Bonner Sinfonietta への言及はない。写真がある。名前には、マレーシアあたりの勲功者の称号である Dato が冠されている。写真で見てもやっぱり貫禄がついているなあ…というのは言わない約束か。

ドイツの大学オケ、アマオケ (5)

2005年3月10日 木曜日

キプロス旅行のあとの冬学期、大学の、ディエス・アカデミクス Dies academicus (日本語でいうオープン・キャンパスみたいなものか)の、室内楽コンサートでも、クリスティアーネは僕を相棒に指名してくれた。モーツァルト・プロで、1曲めがディヴェルティメント11番、2曲めがグラン・パルティータだった。グラン・パルティータは管の曲だから、乗ったのは1曲め。Nannerl の七重奏とも呼ばれる、オーボエソロの美しい曲だ。会場は、大学本館内の祝祭ホール Festsaal。もともとこの大学本館は、かつてのケルン選帝侯の宮殿だった建物で、黄色に塗られた外観は、隣接するホーフガルテンの緑地とあいまってとても美しい。
写真はたとえばこことかここ
だが、内部は大部分がただの質素な白壁の教室になっている。そのなかで、このホールとチャペルだけはかつての宮殿の華麗な面影を残す空間になっている。

再びクリスティアーネがファーストヴァイオリン、僕がセカンドヴァイオリン。これは結構きつかった。変奏曲になっているメヌエット楽章、その第三変奏は、ファーストヴァイオリンがシンプルな旋律を弾いている下で、セカンドヴァイオリンが細かい音符で走り回らなければいけない。ファーストよりセカンドがきつい曲の典型だ。いや、譜面づらはそれほどものすごいものではないし、かなり練習したはずだけれど、どうも手のうちに入った感じがしないまま、本番を迎えてしまった。実際、大きなキズはなく、聞きにきていたオケのメンバーたちは良かったと褒めてくれたものの、自分では納得がいかなくて落ち込んだ。

問題はもう一つあった。この曲の練習に気を取られていて、オケの練習のほうはしばらくサボっていたのだ。それが、この本番前のステリハのとき、オケの指揮者先生が直々に僕のところへやってきて、オケは出ないのか、と問いつめたのだ。もちろんサボっていた方が悪いのだけれど、よりによってピリピリしている本番直前のこんなときにやってくるとはどういう神経か、と思ってしまった。出るのか、出ないのかと問われて、これからステージで弾く曲のことで頭がいっぱいだった僕は、少し考えさせてくださいと答える。と、いや、イエスかノーかだという。ならノーと言いましょう。そういうわけで、大学オケは半年あまりで辞めた。あとになって、指揮者の息子のヴォルフガングづてに、何度か、また来ないかと声をかけてもらったけれども、もう戻らなかった。(いや、およそ10年後、再び1年間ボンに滞在した時、僕はこの大学オケに舞い戻った。しかしそのときにはすでに指揮者は代替わりしていた。そのことはいずれまた書くことになるだろう。)

実は、前のバリーの曲の初演コンサートでも、このコンサートでもコントラバスを弾いていたトーマスが、別の市民オケに引っ張ってくれていたのだった。ボンナー・シンフォニエッタ Bonner Sinfonietta。同じアマオケでも、ボン暮らしの最初に覗いたグロースおばちゃんのオケとはくらべものにならない、いいオケだった。もちろん大学のオケもよかったけれども。

Dies Academicus のコンサートでディヴェルティメントのコントラバスを弾いていたトーマスは、グラン・パルティータでは指揮をしていた。(作曲家のバリーもホルンを吹いていた。)トーマスはブルターニュ出身のフランス人で、だからトマと呼ぶべきかもしれないが、ドイツ式にトーマスと呼ばれていた。その指揮はなんとも生硬だったが、音楽が彼の専門だった。大学オケには入っていなかったし、そもそもボン大学の学生ではなかった。たぶんケルンの音大に籍があったのだろう。どうやって食べていたのか、よく知らないが、僕のいた学生寮の近くのアパートで、ドイツ人なのにとてもかわいい奥さんのユーディットと、生まれたばかりの息子のザムエルと暮らしていた。

その後はこの Bonner Sinfonietta で、いくつもの楽しい時間を過ごした。

ドイツの大学オケ、アマオケ (4)

2005年3月9日 水曜日

ボンの collegium musicum のオーケストラで、当時セカンドヴァイオリンのパートリーダーをやっていたクリスチアーネは、僕に何かと声を掛けてくれた。クリスチアーネの彼氏はアメリカ人、バリーという名で、ケルンの音大で作曲の勉強をしていた。バリーと、さらにその友人の作品を初演するから来てくれないかと言われた。もちろん演奏する側で。

クリスチアーネがファーストヴァイオリン、僕がセカンドヴァイオリン、ほかに、木管2本くらいと、コントラバスだったか。それに朗読、というか、声が加わる。タイトルも「声」 Stimmen といった。編成も定かに覚えてはいないが、作曲家の卵のちょっと60年代的にアヴァンギャルドな曲。コル・レーニョ(弓の毛ではなくて木のほうで弦をこする)なんて当たり前に出てきたし、駒のこっちがわを弾かされたりもした。弾いている僕自身、あまりピンとこなかったのだけれど、できるだけの演奏はした。

面白かったのは地元紙の批評だ。会場にたいして客は入っていなかったはずだが、Bonn の地元紙 General-Anzeiger の記者はちゃんと来ていたらしい。日本では、歴史的な経緯から、地元紙というのは少ない(もともとはあったが、戦争をやっていたときに大部分が統廃合されてしまったということらしい)。ドイツでは、街ごとに新聞がある。これが、ある程度双方向性をもった市民のフォーラムの役割を果たしている。日本では、一方的な全国紙と、一方的な地元自治体の広報紙しかないに等しい。ドイツの地元紙にはもちろん、国全体のニュース、国際ニュースも載る。それに加えて、地元の街のニュース、さらには街の地区ごとのニュースの欄がある。そして、こんな駆け出しの作曲家の曲の、アマチュアみたいな奏者によるコンサートにも、記者がやってきて、批評を掲載するのだ。

これはある意味でうらやましい。音楽に限ってみても、日本では、アマオケのコンサートなどに目を向けるメディアはない。つまり一種公けに媒介されたフィードバックが存在しない。日本で音楽活動をするアマチュアたちは、会場でお客さんたちに「アンケート」を書かせたりするぐらいで、ほとんど自己満足で終わるしかないのだ。

で、あの初演コンサートの批評はどうだったか? 曲の出来については適当にクサして、演奏のほうは持ち上げていた…。

ドイツの大学オケ、アマオケ (3)

2005年3月8日 火曜日

その年の9月、大学オケのキプロス演奏旅行があった。一週間。出し物はベートーヴェンの『フィデリオ』全曲。
大学のオーケストラと合唱団で、フランクフルト(もちろんアム・マインのほう)からキプロスのラルナカ空港へ飛んだ。ソリスト(歌手)はプロ、そのうち一人はキプロス出身だった。一週間、海辺の、リマソルだったか、リゾートホテルに三食付き、毎日練習は午前中にちょこちょこっと、本番のない日の午後は海辺でのんびりしたり、ヴィーナスが生まれたと言われる浜や古い遺跡の残る海岸や山地の村にバス遠足したり。指揮者が何かのコネクションで資金を取ってきたらしく、全旅費込みでわれわれの個人負担はたしか350マルク、3万円弱だった。楽器をやっていてよかった、儲けた、と思ったものだ。

ドイツにしばらくいた後でキプロスに行くと、日本(の関東地方)とは気候風土はまるで違うのに、どこか懐かしい気がした。その感覚に決定的に寄与していたのは、少しして気づいたのだが、電柱だった。ドイツでは送電線も地下にもぐっている。電柱のある風景が久々だったのだ。それに、もとイギリスの植民地だったから、車が左側通行だった。古い日本車がたくさん走っていた。

山地の村では、斜面にへばりついたような家々の前にそれぞれちいさなベンチがしつらえられていて、そこにおばあさんたちが座ってレース編みをしていた。そんなところにも、売店には日本のフィルムメーカーの緑色の看板があった。

のんびりした午後、数人のメンバーたちと海岸で、強い日差しを浴びながら、ごろごろする。トップレスの女の子たちがいて(地中海岸のリゾートではありふれている)、メンバーの一人が、「見るなよ、見るなよ」と皆に諭すように言う。もちろんそんなことをわざわざ口にする本人が一番意識しているので、なんだかおかしかった。

コンサートは最初、首都ニコシアのやたらに天井の高いホールで1回。この演奏は録画され、その年のクリスマスにキプロスの国営テレビで放映されたと聞いた。

面白かったのは2回目の方。会場が海辺の断崖絶壁の上の、ローマ時代の円形劇場だったのだ。もちろん屋根はない。昼のステリハで海からの風がものすごいことが分かったので、本番前、町で洗濯バサミを買ってきて譜面を留めた。円形劇場の音響というのはさすがで、本当に一番奥の、上の席まで音がぴっと届く。しかも音が混じり合わず、弦の一人一人の音までくっきり分離して届いてしまうので、近代のオーケストラ向きとは言えないし、普段群れのなかに半ば隠れていられるわれわれ弦楽器も、ちょっとした緊張感を味わった。

オペラ『フィデリオ』、別に舞台装置もなく、たいした衣装も演出もなしに、ぶっ通しで全曲やった。入場料がいくらに設定されていたのかは知らない。夜、照明のともされた円形劇場に来ていたお客は、周辺のホテルに泊まっているフランスやイギリスからのリゾート客が多く(もともとイギリスの治下にあって、いまも「英連邦」に属していることになっているキプロスは、イギリス人観光客が多い)、その中に地元の富裕層といった感じの人々がまじっていた。演奏が終わった時、そういうキプロス人親子が客席から僕をめがけて降りてきた。それはそれはかわいい幼稚園ぐらいの女の子と、サングラスをかけた、ぶっといぶっといその母親。プログラムとペンを差し出して、あなたは日本人だろう、サインしてくれという。この子はこの前、一週間、日本へ行ってきたのだ、と言って、親子で「どんぐりころころ〜♪」と歌いだすのだった。もちろん日本語で。漢字でサインしてやった。名前も連絡先も聞かなかったことを後悔した。あの子は、あと十数年も待っていたら、とてもとてもすてきな女性になったに違いない。しまった…。でもしかし、それからさらに十数年したらあの母親のようになるのに違いない。まあいいや…。

生暖かい夜、どこかのレストランの庭で行われた打ち上げで飲んだキプロスの赤ワインは、気のせいか、海の香りがした。
席上、ギリシャ系キプロス出身のソロ歌手は、ギリシャ系とトルコ系のキプロスの分断状態について、悲鳴じみた調子を交えながらドイツ語で一席ぶっていた。彼の姿勢自体が明らかに分断を強化しているのを感じ取った僕は、うんざりして、つい、「そーかそーかわかったわかった Jaja!」と間の手を入れてしまった。男はこちらをじろりと睨み、周りは一瞬凍っていたが、その後は何事もなかったかのように、宴は進んでいった。失敗と言えば失敗だったけれど、まあいいか。(2004年のEU加盟でも、いまさらながら一緒になってほしいトルコ系を振り切って、ギリシャ系は単独加盟に踏み切った。)

# いままで気づかなかったのだけれど、これは1989年9月末の話だ。当時、ドイツもまた分断国家で、しかもちょうどこのおよそ1ヶ月後、ベルリンの壁が崩壊したのだった。もちろんそれは、周りのドイツ人たちも、誰一人、予想もしていなかった。

高緯度にあって、夏の日の長いドイツは、秋口、逆に急速に日が短くなり、暗くなっていく。キプロスからの帰りの飛行機から見ると、ドイツは寒々として、鈍色の雲に覆われていた。

ドイツの大学オケ、アマオケ (2)

2005年3月7日 月曜日

Bonn 大学のオーケストラ、collegium musicum にはオーディションがあった。4月と10月、各学期のはじめに。日本の大学オケは、たいていは誰でも受け入れ、新入生が初心者として楽器を触り始めるケースが多く、その中からはまれにぐんぐん上達していく人もいるわけだが、ドイツの大学ではそういうチャンスはないことになる。(もっとも、ドイツの大学は日本と制度が違い、年限をくぎった「卒業」もなく、7年生、8年生なんてざらだから、大学に入ってから楽器を始めて、少し力を付けてからオーディションを受けることは可能と言えば可能だ。)最初の学期はこのオーディションを逃し、2学期目、春に受けた。ボン大学の本館の隣に、Behrendt という書店がある。そのショーウィンドウの真ん中の扉を開けて狭い廊下を回り込んでいくと、collegium musicum の事務局があった。奥は案外広くて、一応フルオーケストラが入れる練習場、その手前に事務局。階下に小さな個人練習場のような狭い部屋がいくつかあって、そこが控え室、オケの入れる練習場がオーディション会場だった。
控え室に押し込まれたのは、7、8人だったか、ほとんどドイツ人らしき学生ばかりで、ヴァイオリンもいればファゴットもいた。一人一人、上の部屋に呼ばれてオーディションを受けた。番になって上がっていくと、小広い練習場の真ん中にグランドピアノがあって、そこに指揮者のおじいちゃんが一人いた。曲目は、自分で持ってきた自由曲と、向こうから渡される譜面。自由曲は、シベリウスの協奏曲にしようかブルッフにしようか迷っていて、その場でどっちにしましょうかと尋ねてどっちでもいいよという答えにブルッフを弾いたように記憶する。課題曲が問題だった。次の演奏会に入っていた「プルチネッラ」の第一ヴァイオリンのパート譜。うかつにも、それまで聞いたことすらなかった。いや、中学か高校の頃、ヴァイオリンとピアノ伴奏の版を、イツァーク・パールマンのコンサートで聴いていたはずだが、まるで覚えていなかった。いくらストラヴィンスキーがバロック風、ペルゴレージ風に書いた曲とはいえ、ストラヴィンスキーはストラヴィンスキーだ。しょっちゅう拍子がかわる。それを初見でやらされて、何度もつまづいた。その都度、もう一度やってみなさいと言われたものの、生きた心地がしなかった。
合否はその場で言い渡されたのだったか、どうだったか忘れたが、蓋を開けてみるとその学期のオーディションで合格したのは僕だけ、入ってみればメンバーの中の外国人も僕だけだった。ストラヴィンスキーの初見が今ひとつだったからだろう、第二ヴァイオリンに入れられた。古典派以降の曲で第二ヴァイオリンのほうが易しいなんてことはないことは、少し音楽が分かっている人なら知っているはずだが、そこらへんは割合古いドクサで動いているようだった。コンサートマスターと、管楽器の大部分は、ケルンの音大の学生たちだった。指揮者の息子のヴォルフガング(明らかに親はモーツァルトを意識してこの名を付けたのだろう)が比較文学の学生で、コントラバスを弾いていた。コントラバスのソロもあるプルチネッラでは大活躍だった。
練習は週1回、あのオーディション会場となった練習場ではなく、大学本館の真ん中にある大きな講堂で、ふだんは行われていた。この写真はいまの collegium musicum のサイトに掲げられているもので、ファイル名からして最近韓国などに演奏旅行したときのメンバーらしい。写真の場所が、ふだんの練習場であり本番会場である講堂、Aula だ。最初の演奏会の曲目はプルチネッラと、あと何だったか。

面白かったのは、その夏の終わりにあったキプロスへの演奏旅行だ。