‘Germans’ カテゴリーのアーカイブ

ブレーメンの音楽隊

2011年2月14日 月曜日

住まいのわりあい近くに、「ブレーメン」という小さな楽譜店があります。いつも感じの良い女性の店員さんが一人で店番をしています。店の名前は、おそらくグリムの「ブレーメンの音楽隊」の話からきているのでしょう。



ロバ、犬、猫、鶏、いずれも高齢で飼い主の役に立たなくなった4匹の家畜たちが、殺される運命を避けて、ブレーメンの町を目指す。「死ぬよりゃましなことはどこへ行ったって見つかるさ」という名文句は、作家のカール・ツックマイヤーが引用して使っている。現代のブレーメンの町の真ん中の広場、市庁舎脇には、1953年に建てられた4匹のブロンズ像があって、町のシンボル的な存在になっています。



でも、ご存じかと思いますが、「ブレーメンの音楽隊」はブレーメンには行っていないし、当然、音楽隊にも入っていない。

ブレーメンに向かう途中の森で夜を迎えたとき、4匹は偶然に「盗賊たち」の家を見つける。中をのぞくと盗賊たちが豪華な夕食の最中。この悪い連中(盗賊ではありません、動物たちです)は悪知恵を働かせて、盗賊たちを脅かして出て行かせ、まんまとご馳走にありつく。一度盗賊の手下が戻ってくるも、見事撃退して、そのままそこに居着いてしまい、安楽に暮らす。めでたしめでたし。と言うか、かわいそうな盗賊たち…。と言うか、ブレーメンと音楽隊はどこへ行ったんだあ。



要するに、市民でも農民でもないアウトサイダー同士の分捕り合いの話なんですね。

ブレーメンも、音楽隊も、動物たちを集結させ駆り立てる幻想にすぎない。そもそも、もともとの話にはブレーメンという固有名はなかったらしい。それがあとで付け加えられた。だいたい、高齢で働けなくなった動物たちが、ブレーメンでなら音楽隊に入れてもらえると考えるところが、当時のブレーメンの音楽のレベルに対する、周囲からの評価を反映していると考えられています。でも今のブレーメンの人たちはそんなことにはお構いなく、この話に愛着を抱いているようです。



ではクイズ。グリムのテクストでは、ロバと犬は、音楽隊に行ってそれぞれ何の楽器を演奏することになっていた、というか、演奏するつもりになっていたでしょうか。



正解は、ロバがリュート、犬がティンパニです。蹄でどうやってリュートを弾くんだか。(多くの翻訳では「ギター」になっています。)猫はセレナーデ(ドイツ語で「夜の音楽」Nachtmusik)が得意、鶏も声を買われており、いずれもヴォーカル志望だったと思われます。



ブレーメンの音楽隊、ドイツ語
おおまかな日本語訳

Wikipedia ドイツ語版の Bremer Stadtmusikanten
日本語版の「ブレーメンの音楽隊




Bonn: 「音楽家地区」とシューマン・ハウスの思い出

2009年10月30日 金曜日

およそ十年前、最初の子供が生まれたばかりの頃、ボンに再び1年間住んだ。住まいは、中央駅の裏手の、Musikerviertel 音楽家地区と呼ばれるあたりに見つけた。弦楽器工房が一軒あることはあるが、別に音楽家が集住しているとか、そんなことはまったくなくて、たんにその辺りの通りの名前が、作曲家の名前を冠するものが多いだけだ。(日本の住所は「ブロック」制だが、欧米の住居表示は「通り」が基準になる。)3、4階建ての集合住宅の連なる、まあ、「閑静な住宅街」だったかと思う。diewohnunginbonn

住んでいたアパートは、ヴェーゼンドンク通りとリヒャルト・ヴァーグナー通りの角にあった。アパートの、それもまさにわれわれが住んでいた1階の部屋の外壁には、マティルデ・ヴェーゼンドンクが、晩年の一時期、ここに住んでいた旨を記したプレートが打ち付けられていた。
大きな地図で見る

このあたりの街路名がいつ整備されたのか分からないが、おそらく、ヴェーゼンドンクが住んでいた場所から北にのびる通りをヴェーゼンドンク通りと名付け、それに直交するやや長い通りをリヒャルト・ヴァーグナー通りと名付け、ついでに付近の通りにも音楽家の名前を付けていったのではないかと推測する。「モーツァルト通り」があり、その1番地は「ホテル・モーツァルト」という家族経営のこじんまりしたホテルで、ボンに出かけるときは以前からしばしば利用していた。「ベートーヴェン広場」があり、その近くには「ベートーヴェン薬局」があった。ボンはベートーヴェンの出身地だが、この界隈が何か取り立ててベートーヴェンにゆかりがあるということはなかったはずだ(通りの名前は「リスト通り」)。

ボンの「中央」駅は、旧市街のはずれにある。そこからほど近いところに「旧墓地」があり、よく知られたシューマン夫妻の墓や、ベートーヴェンのおっかさんの墓などがある。ずっと前に書いた掃天星図のアーゲランダーの墓もここ。

駅の裏手、旧市街とは反対側の「音楽家地区」は、ボンから、かつては別の町というか村だったエンデニヒに行く道筋に当たる。エンデニヒは、1904年の合併で、ボン市に含まれている。そのエンデニヒにあるのが、シューマンハウス。晩年のローベルト・シューマンが入っていた精神病院。今は1階と2階の一部が市営の音楽図書館、2階の残り部分がシューマン記念館になっている。「音楽家地区」のわが家からシューマンハウスまではさほどの距離ではなかった(今地図で確かめたら800mほどだ)から、よく自転車で通った(特に自転車用に整備された道もあった)。ベビーカーを押しながら、バスで行くこともあったし、散歩がてらに歩いて行くこともあった。シューマンハウスでは楽譜や音楽関係の文献をよく借りた。市立図書館共通の利用カードがあって、それがここでも通用した。

エンデニヒには、ベビー用品店や、自然食品店もあって、そういう店にもよく行った。生まれたばかりの赤ん坊を抱えていたからでもあるし、自然食料品店では多少高価ながら日本の食材もそれなりに置いていたからだ。

とにかくよくベビーカーを押して散歩にでかけた。

「間もなく[...]男はこどもを街のあちらこちらへ長い散歩に連れ出すようになった。いつも行っていた雑踏の大通りとは反対の方向に歩いていくと、単調な古くほの暗い地区が、地面にはさまざまな色彩がさし、舗道には空が照り映えて、これまでこの街のどこでも見たことがないような姿を現す。こうしてはじめて、そしてまた歩道と道路の間で梃子のように乳母車を上げ下ろしする動きとともに、この街は「こどもの生まれた街」となる。」(ペーター・ハントケ『こどもの物語』

ハントケのこの「街」はおそらくベルリン。僕らがいたのはボン。僕らの子供はボンで生まれた訳ではなかったが、生後すぐだったし、以前に1人や2人で滞在した時とは、街は明らかに違って見えた。「歩道と道路の間で梃子のように乳母車を上げ下ろしする動き」などは、ハントケならではの現実のキャプチャのしかただと思うが、つよいリアリティをもって読めた。(日本の街路、華奢なバギーでは、これは感じられなかったかもしれない。)

「ベートーヴェン薬局」のならびにギリシャ人のやっているSirtakiというギリシャ料理屋があって、時々お世話になった。ギュロスやスブラキが美味かった。テイクアウトもできた。ギリシャ料理につきもののウゾ。僕はギリシャに行ったことがないのだけれど、ドイツのギリシャ料理屋はたいていどこでも、無料で食前酒に出してくれた。店に行ってテイクアウトを頼んでも、待っている間ウゾが出てきた。ドイツ人客たちはいったいに蒸留酒=アル中の飲むものと思っているふしがあって、あまり飲もうとしないようだった。ギリシャ料理屋の店の人々は、僕らが飲むと、うれしそうな顔をすることが多かったように思う。

周りが住宅ばかりのリヒャルト・ヴァーグナー通りには、キオスクが一軒と、それからあと1軒だけ、スペイン人がやっているスペイン料理屋があった。ギリシャ人のギリシャ料理、スペイン人のスペイン料理は、ある意味で、ドイツに住む時の楽しみだ。ジビエやウサギを食べた記憶もある。ドイツ料理では考えられない、日本料理のような、魚の塩焼きもあって、とにかく肉も魚も美味かった。気候のいいときは白い壁に囲まれた裏庭の席で、寒いときや悪天候のときは屋内で、食事をした。バギーに乗せたままの、生後1年に満たなかった子供に、デザートのクレム・カタランを一口与えたときの、まるで「この世にはこんな美味しいものがあったのか」とでもいうような目の輝きが、忘れられない。2、3年経って訪れたとき、店は凡庸なイタリア料理屋になっていた。あのスペイン人たちはどこへ行ってしまったのだろう?

ビリヤード

2008年6月29日 日曜日

billiard.jpgじつはビリヤードが好き。先日学生たちと行ったコンパの二次会の店に台が一つあって、久しぶりにキューを手にした。決して上手いわけではないけれど、一頃はずいぶん夢中になってやっていたから、それなりのワザもできた。でも長年ごぶさたしていて、すっかり忘れている。

ビリヤードでよく遊んだのは、大昔、ドイツのボンにいたとき。街中の各所にあるゲームセンター Spielhalle のほとんどに置いてあって、比較的安く遊べたし、店によってはコーヒーがタダで飲み放題だったりした。1マルクか2マルク(大昔だからユーロではなくてマルク)のコインを入れると1ゲームできるものもあったし、カウンターで料金を払うところもあった。日本はバブルの最盛期だったから、1マルクがたしか70円を切っていた。

そういう店で、ドイツ人やイタリア人の友人たちと時々遊んでいたし、日本からケルンに行っていたシュンちゃんやベルリンに行っていたごっちゃまや、フランクフルトにいたT(すべてゲッティンゲンのゲーテ・インスティトゥートで一緒だった連中)が集まると、必ずやった。

この4人でオランダに行った時は、スヘヴェニンゲの海岸、バラックの中に何十台と台の並んだビリヤード場で、1日6時間くらいプレイしていたこともある。春先だったか(あのときキューケンホフのチューリップも見に行ったはずだ)、夏のかけらも感じられない、潮の匂いのしない砂浜は、灰色に曇っていて、それでも保養客が大勢いた。

ドイツで出ていたビリヤードの薄っぺらいマニュアル本も2冊くらい買って、面白がって読んでいた。画像(クリックで拡大)は、M. Bach, K.-W. Kühn, Pool- Billard. Herausgegeben vom Deutschen Pool-Billidard-Bund, Falken, 1988 (リンク先は amazon.de。現在は古本でしか手に入らないようだ)に出ていたワザ。黒玉に白玉を押しつけるようにしてぐっと回転を与え、黒玉を落とす。これを覚えていて、たしかボンでシュンちゃんと対戦したとき、使うチャンスがめぐってきて、試しにやったら見事成功した。彼は仰天し、そんなのありかよー、と文句を言っていた。が、使ったのも成功したのも後にも先にもたぶんその1回きりだ。

日本に帰ってきたころ、ちょうどビリヤードが異様なブームになっていて、あちこちにビリヤード場ができ、NHK の教育テレビが「ビリヤード講座」を放送してさえいた。だがいつもの日本の例で、2、3年もしないうちにブームはあっという間に消え去り、多くの「プールバー」が別の店に変わった。日本のこの手のブーム、それなりのスキルの必要なことがブームに仕立て上げられると、なにしろ少しは上達しないことにはちっとも面白くないわけだから、そこまで行く気のない連中があっと言う間に去り、ブームもあっというまに消える。

いったいあの台たちはどこへ行ったのだろう? フルサイズの台は、恐ろしく重く、かさばるものなのに。産業廃棄物?か粗大ゴミとしてどこかに埋められたのだろうか? 消えゆきつつあるのを見て、どうせ捨てるならウチに一台もらいたいなあと思ったのだが、日本の住宅事情とぼくの経済力では、とても置くスペースはとれないのだった。大学の学生会館にでも置いてくれないかな。

ドイツのほうは、この手のはやりすたりの波は、日本に比べると、一般に、ずっと小さい。

僕自身も、日本でできる場所が激減したこともあり、多事多端で、長いこと離れていた。

ビリヤードの、近頃の日本でのはやり具合は比較的安定しているようで、ぽつりぽつりと存在するピリヤード場は、決してはやり過ぎもせず、すたれもせず、続いているようだ。またぼちぼちやってみようかな。

ところで、ビリヤードのキューさばきと、弦楽器のボウイングの基本はまったく重なり合う。構造的に回転運動(甲野善紀さんの言うヒンジ運動)を基本とする腕の関節の動きを上手に組み合わせて、キュー/弓をまっすぐに動かすのだからだ。キューも弓も、決してぎゅっと握ってはいけない。だからヴァイオリンの上手な人はビリヤードがうまくなりやすいということが、もしかしたら、言えるのかもしれない。ぼくはどっちもそこそこだけど。

ノンステップバス

2008年3月20日 木曜日

MVV_OEG_AG_MB_O405N2.jpgtsujigaku さんが広島の低床トラムの話を書いていた。ウチのあたりには残念ながらトラムはないのだった。だが、低床バスなら走っている。

日本のあちこちのバス路線で、「ノンステップバス」が導入されている。ドイツ製の車両も少なくないようだ。

なんとなく「ノンステップ」というのは床が低い車のことだぐらいにしか思っていなかったが、そういえば、1998年に一年間、まだ一歳にもならない子供とともに、ボン(ドイツ)に住んだとき、こんなことがあった。ぼくらは自宅近くのバス停で、赤ん坊を乗せたベビーカーとともに、空港行きのバスを待っていた。バスが来て停まると、運転手は、ちょっと待てと言い、何か操作した。すると、バスが傾いて、乗り口と、ぼくらが待っていた歩道との間の段差が小さくなった。へえ、こんなことができるんだ、と思い、感心した記憶がある。

ノンステップバスとは、本来、低床なだけでなく、そうした操作ができる車両のことであり、さらに、低くなった乗車口と、地面との間に、スロープを出すこともできるようになっているらしい。たとえば、宝塚市のサイトの「道路・交通」の項に超低床ノンステップバスの導入推進という政策記事があり、そこで、車両を傾けたり(ニーリング kneeling と呼ぶらしい)、スロープを出したりといった操作をした画像が掲載されている。

しかし、ドイツでは車を持たず、かなりバスを利用していたぼくらも、ああいう経験をしたのはあのとき一回きりだったように思う。日本のノンステップバスで、そういう場面に出会ったことはない。が、それはたまたまぼくらが知らないだけなのかもしれない。

(スロヴェニアではどうだったっけ? リュブリャーナに住んだときは、もはやベビーカーとも縁がなかったから、記憶が曖昧だ。市バスのほとんどは普通の高床系ではなかったか。)

ノンステップバスであると否とにかかわらず、バスなどの乗降の際、あるいは階段を上り下りする際、ドイツでは、ベビーカーを押す母親や車いすの人に対して、まわりの人々がさっと手を貸す。開けた扉を支えて、次の人が通るのを待つといった習慣と同じで、ある程度ルーティン化した行為だとも言えるので、そのことだけでドイツ人たちを神格化するつもりはないが、日本ではそうしたことがあまりに行われないこともまた事実だ。(そのかわりか、日本製のベビーカーなどは極力小型軽量にできている。母親一人でも持ち上げて運べることが考慮されているのかもしれない。)

バリアフリーチェックの部屋というサイトのノンステップバスを利用するにはという記事によれば、運転士によっては、スロープや渡し板の出し方、(車いす用のスペースをつくるための)座席の収納の仕方を知らないことや、車いすの人の乗車に難色を示すこともあるといい、「まことに残念な限りですが、研修の徹底を切に望みたいですね」と書かれている。ボンでぼくらにニーリングをやってくれたバスの運転手は、気のせいか、ちょっと得意げだったような気がした。

同じ記事で、時刻表のことにも触れられている。たしかに、ぼくの記憶でも、阪急バスでノンステップバスが走りはじめた頃は、どの時刻のバスがノンステップ車両であるかがバス停の時刻表に記されていた。が、それがいつの間にか廃止されてしまった。車両のローテーションの都合で、どの時刻にどの車両をあてるかは完全には決めがたいという至極もっともな理由からであるらしい。そして、車いすを使っている人が、どの時刻にノンステップバスが来るか知りたい場合は、バス会社の営業所に問い合わせるのが現状では一番だと書かれている。全車両が置き換われば解消する問題なのだが…。

ちなみに、ドイツ語では低床のことを何と言うのか、少し考えてしまった。Niederflur であるらしい。英語では low floor。ノンステップは、当然、和製英語だろう。

ドイツ語版 Wikipedia の Niederflurtechnik の項
英語版 Wikipedia の low floor の項
日本語版 Wikipedia のノンステップバスの項

ドイツでは低床バスを最初に開発したのは 1976 年、ネオプラン社。本格的な開発・導入は1987年ごろのミュンヘン市とネオプラン社の協同にはじまるようだ。その後、メルセデス・ベンツ社とMAN社が参入する。

いずれにしても、低床車はコストがかかり、たとえば日本では私営バス路線に対して、行政からの各種助成金が出されているという。上記の宝塚市のページも、そういう内容だ。国土交通省は「ノンステップバス標準仕様」なるものを制定して普及につとめているのだそうだ。

ドイツ版 Wikipedia の指摘するところでは、長距離バス、観光バスには低床車はほとんど使われない。これらのバスは、座席が高くて眺めがいいこと、座席下のトランクルームが広く多くの荷物が積めることが要求されるからだ。

ドイツ初の Mac ホテル

2008年3月19日 水曜日

res_plantschen_72dpi.jpgドイツ初の Mac ホテルができたという話。(出所

バルト海に浮かぶリューゲン島のビンツにある「ニュンフェ・ホテル」がそれ。この3月15日にオープンしたばかり。

すべてのスイート、アパートメントなど客室に iMac を置き、ホテルのサーバやレイドシステム、ネットワーク関連も Apple 製品、宿泊客に Office をインストールしたノート型 Mac の貸し出しもするし、キッズコーナーには子供用のソフトを入れた Mac が置いてあるという。

ドイツよりもはるかに Mac が浸透しているかに見える日本では、東京大学などの大口導入の話はいくつかあったけれども、こういうホテルの話は聞いたことがないような気がする。

設置に当たったコンサルタント会社 Apple-Systemhaus HSD Consult GmbH (ハンブルク、ベルリン)が3月13日付けのニュースで発表している。

たしかに、ホテルのサイトの客室画像のほとんどに、iMac らしきものが見える。(どうもCG臭いが。)
スイートルーム

貸し出し用は MacBook だか MacBook Pro だか Air だか分からないが、借りたノート型Macを浜に持ち出してもいいのだろうか。いつでも風の強いドイツの海岸、砂で大変なことになりそうな気もするのだが。

さて、ぼくがここに行く機会はあるだろうか…。

エスプレッソ

2007年10月12日 金曜日

スターバッ×スやド×ールのおかげか、急速に市民権を得てきた感のあるエスプレッソ。フランスやイタリアでカフェと言えばエスプレッソのことだけれど、少し前までの日本ではまったく知られていなかった。エスプレッソ用の小さなカップもほとんど出回っていなかった。(日本でデミタスなどと呼ばれることのあるカップだが、これはどうも「英製仏語」くさい。demitasse という単語(半分demiのカップtasse)は英語の辞典には載っているが、フランス語の辞典では出てこない。un demi と言えばビール1杯のことだ。彼らにとってはカフェ=エスプレッソであり、あのサイズが標準だからだろう。少なくとも、普通に使われる表現ではないようだ。)

espresso.jpg

今はロシア上空を飛んでヨーロッパまで11〜12時間だけれど、10年ちょっと前までは、北回りと呼ばれるアンカレッジ経由か、南回りと呼ばれるシンガポール、香港など経由のルートか、モスクワ経由のアエロフロートぐらいしか、日本〜ヨーロッパを結ぶ便はなかった。17〜18時間かかった。(さらに昔の小沢征爾や、二葉亭四迷(古すぎ?)は船でマルセイユに上陸したようだけれど。)僕が1988年に(これももはや相当に古い)初めてドイツに行ったのは、アンカレッジ経由だった。成田を発ってたいした時間が経っているわけでもないのに、アンカレッジに降り立ったとたん、空港のうどん屋(そういうのがあったのだ、今もあるのかな)に駆け込む日本人たちが大勢いたのにびっくりした。

ヨーロッパへの直行便が普通になる直前の時期、94年頃か、たしかシンガポール経由でフランスから帰ってきたとき、トランジットのシンガポールの空港で、いかにも「卒業旅行」帰りの大学生みたいな女の子たちがしゃべっていたものだ。(そんな「卒業旅行」みたいなものが行われるようになったのもそのほんの少し前からだった。)「フランスのコーヒーはな、めっちゃ少なくてめっちゃ苦いねん!」…あのな、それがエスプレッソだ。フランスに行くならそれくらい分かってて行けよ、と突っ込みたくなるのをこらえる。今はもう、こんなコたちはいないことだろう。

日本の喫茶店だのファミレスだののウェイター、ウェイトレスは何かというと「〜のほう」「〜になります」という妙な言い回しをするいかにもシロートな学生バイトばかりだが、フランスのカフェのギャルソンたちはプロだ。日本ではそういう仕事が馬鹿にされているきらいがあって残念なことだ、と作家Rとそんな話をしていたこともあったような気がする。カフェのギャルソンたちは、実にきびきびと動く。いかにも忙しそうに振る舞うのがうまい、という見方もできそうだけれど。

ほとんど知られていないと思うが、その頃、90年代初頭、日本の某食品メーカーがインスタントのエスプレッソを出していて、そこらのスーパーに置いてあった。インスタントにしては「飲める」ものだったので、ウチでは好んで買っていたのだが、あるときから店で見かけなくなった。メーカーに直接電話して尋ねたら、製造中止になったという。時期尚早だったということらしい。(最近また出しているようだ。)

ドイツの人たちのコーヒー好きは、バッハのカンタータでも知られる通り、筋金入りだ。

そのドイツのコーヒーの淹れ方は、日本で飲まれるものに似ている。基本的にフィルターコーヒー。メリタはドイツのメーカーだし。

ドイツのボン在住で仲良くしているナポリ出身の男がいて、しかしこいつが絶対ドイツ風にいれたコーヒーを飲まない。胃に悪いというのだ。何があろうとイタリア式のエスプレッソかカプチーノ。彼は朝はキッチンでさっといれたエスプレッソ(と言うと文句を言う。エスプレッソじゃない、これがカフェだ、と)を立ったままさっと飲む。ここにあるようにアメリカンよりもエスプレッソのほうがカフェインは弱いというのが本当だとすると、あのナポリ人の、ドイツコーヒーは胃に悪いという信念は裏付けられていることになる。そういう記述はペッキィ、スレイヴン『エスプレッソ―カルチャー&キュイジーヌ [クロニクル・ブックス日本語版]』 (フレックス・ファーム、1995)にもある。日本でエスプレッソが広く飲まれるようになる以前に出版されて、いまも生き残っている洒落た本だ。

「エスプレッソは風味や香りが強いため、カフェイン量も多いに違いないと勝手に思い込んでいる人が多いのですが、缶詰のコーヒー用に使われる安物のロブスタ豆で作ったコーヒー一杯分と比較すると、その含有量は半分程度、もしくは3分の1にすぎません。」(23ページ)

逆の経験を、つい1,2年前の日本で、した。生麺をウリにしていた近所のあるスパゲッティ屋。カウンターがメインの小さな店。実は三宮だか岡本だかの喫茶店くずれの店主だった。食後にエスプレッソを頼むと、延々とエスプレッソを否定するおしゃべりを始めた。あれでは豆の味が損なわれる云々。拝聴しながら普通のコーヒーを頼む。確かに、日本の珈琲店は独特の発達をとげてきて、キリマンジャロがどうのモカがどうのという蘊蓄が多い。それはさらにずっと空疎に薄められて、現在の缶コーヒーの無数のバリエーションにまで受け継がれている。家庭で気軽にコーヒーが飲まれるようになった今、珈琲店というのはド×ールみたいなところを除いて斜陽らしい。このパスタ屋は、しばらく後に閉店した。生麺は悪くなかったのだが。

ドイツにいながらフィルターコーヒーを頑として飲まないイタリア人と、エスプレッソを端から否定して蘊蓄を垂れ始める日本のパスタ屋のおやじとでは、どちらかというとイタリア人の方に肩入れしたくなる。

今でも、そこらのイタリアンやフレンチを称する料理屋に行って、安いセットメニューを頼むと、食後の「コーヒー」はあっても、エスプレッソはないところが多い。イタリアンだのフレンチだのを称していてそれはどうなんだろう? 少なくとも食後に合うのはエスプレッソだという気もするのだが。

こだわり、という言葉には違和感がある。何か妙に気取った文脈で使われることも多いけれど、第三者的に使われる場合(あなたは…にこだわりがあるのよね)は、要するに普通に見ればどうでもいいことに拘泥してるという倍音が伴う。あたしはどうでもいいけど…ということだ。本人が使っている場合(ぼくは…にこだわりがあります)は単なる馬鹿である。つまりは自分が価値あるものと考えているものの価値を伝えることに失敗していることを表明していることになるからだ。それに「個性」なんて言葉がひっ付けられると笑い転げるしかない。きちんと価値を伝えるか、たんに「自分はそれが好きだ」と言うにとどめておくのが妥当だろう。

ありがたいことに現在の日本では選択肢が広がり、少なくとも自宅では自由だ。エスプレッソメーカーはいまではどこでも安く手に入る。深煎りされた豆や粉も入手しやすくなった。朝はフィルターコーヒーを飲み、食後はエスプレッソを淹れることが可能だ。もちろん午後にせんべい齧りながら緑茶を飲むこともできる。「雑種文化」(加藤周一)の特権か。

ドイツの大学オケとグミキャンディ

2007年10月2日 火曜日

日本では、若者のお行儀の悪いのは、みんなアメリカから入ってくることになっているが、ドイツもどうして、捨てたもの(?)ではない。地べたに座り込んで通行の邪魔をするとか、そのくらいのことは、ドイツも、日本に十年以上先立つ、立派なセンパイだった。

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ところで、今では日本でもそこらじゅうで手に入るようになったHARIBOのクマちゃんのグミキャンディは、あまり知られていないかもしれないが、古くからのボンの名産品だ。HARIBOの商標からして、ハンス・リーゲル HAns RIegel 氏が BOnn で売り出したことにちなんでいる。ついでに言えば、グミというのはドイツ語でゴムのことだ。そこらへんの事情は日本の輸入元のページにも開陳されている。
株式会社リョーカジャパン|ハリボー




ボンの大学オケの弦パートでは、練習中に、そのグミキャンディの袋が回ってきたものだ。一つ二つ、口に放り込んでは、隣の奴に渡していく。エネルギー補給というよりは、腹塞ぎの意味が大きかったように思う。たぶん弦パートだけだっただろう。管楽器では、口に何か入れたまま演奏するという芸当はできない。

そのことをふと思い出して、先日、今やっているオケの弦分奏練習前に、近くのコンビニで、チョコフレークの小袋を買って、持っていった(HARIBOは置いていなかった)。練習指揮者がしゃべったり、他のパートが弾かされている間に、こいつを回そうと思ったのだが、お行儀のよいほとんどのメンバーに受け取りを拒否された。

そもそもこれが失敗であったのは、チョコフレークは口に入れて噛むと音を発するからだ。そうか、グミでなければならないのだ、と改めて認識した。うかつであった。

と同時に、日本人はまだまだ相変わらずお行儀がいいのだなあとも思い知ったのだった。この場合、メンバーの大半が、日本の大学オケで体育会的なしつけを受けてきているからでもあるかもしれない。


ドイツ人は絵が(死ぬほど)下手 

2006年6月26日 月曜日

僕は別にDaF屋さん(「外国語としてのドイツ語」の専門家)ではないけれど、このところ、外国人(つまりドイツ語を母語としない人)のためのドイツ語授業に使うゲームについて書かれた本をいろいろと集めてみている。授業でこんなふうに遊びながら学ばせなさい、という、ドイツ語教師向けの本。ゲームを通じてドイツ語を学ぶわけだ。ゲームの中での役割としてドイツ語を口にすることなら、シャイな日本の学生だってできるし、単純な繰り返し練習も楽しくなるし、とにかく盛り上がるし、決して馬鹿にできない。

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それはいいのだけれど、そういう参考書に出てくるイラストがすごい。よくぞここまで、というくらいに、信じられないほど、徹底して、死ぬほど下手なのだ。

集めたのはこんなところ。

版元はすべてドイツの名の通ったメジャーな語学出版社。それ自体がドイツらしい感じもするし、こういう絵に接すること自体が学習者にとっては異文化接触だし、こんな絵も蛭子能収以上に不思議な味わいがあると言えばあるのだが、それでもこんなものを大手出版社が平気で出してしまうというのは、日本的な感覚からするとすごい。例外は、最後(右端)に挙げた AOL Verlag のもので、これだけは描き慣れてスタイルを持った漫画家の作品という感じがする。

日本に長く住むドイツ人も、ドイツ人は一般的に絵が下手だと言っていたから、まちがいない。(なんでも、日本の彼女のところに遊びに来たドイツ人の友人を、どこかのデパートでやっていた小中学生の絵画展に連れて行ったら、うますぎる、絶対に教師が手を入れているに違いないとのたまうので、それは違うと説明するのが大変だったとか。)そしてそれはおそらくドイツに限ったことではなくて、ヨーロッパ全般にそうなのだ。もちろん、ヨーロッパにはダ・ヴィンチだってファン・アイクだってルーベンスだってブリューゲルだってC. D. フリードリヒだっていたわけだが、そこらへんは隔絶したレベルであって、その下はとたんに奈落の底というわけだ。考えてみれば、パウル・クレーだって、こういう意味では下手糞な描き手だったのではないか?

中世、ギリシャ・ローマの芸術から何も学ばず、近代にいたって改めてリアリズムするにあたって、カメラ・オブスキュラのような姑息な(?)道具に頼って始めたからだろうか。

逆に日本はなぜ平均的なレベルが高いのだろう? マンガの、ことに手塚治虫以降の、便利なお約束の書法がたくさんでき上がっていて、それをおのずと身に付けているからだろうか。そういえば、ドイツには、まともなオリジナルのストーリーマンガは何もない。もはや古典のLORIOTUli Steinの一コマ漫画があるだけで、それらは、きわめて突出した存在なのだ。

まあ、こんなところで杜撰な比較文化論をやっていても仕方がないが、とにかくこれらの参考書のイラストのすさまじさはそれ自体感動ものなのだ。

考えてみれば、しりあがり寿(『表現したい人のためのマンガ入門』
)を震撼させ、日本の漫画史を塗り変えてしまったと言われる『情熱のペンギンごはん』は、ヨーロッパでは何のインパクトももたなかっただろう。というか、そもそも存立し得なかっただろうと思われる。

これはヨーロッパではどこでも似たり寄ったりではないかと思うが、去年子どもが行っていたスロヴェニアの小学校の先生は(シュタイナー系だったからか)、例外的に絵が上手だった。妖精たちが森の中で集っているというような絵を、黒板に、チョークで、それは見事に描いていた。

Bonn: 「飛び込み禁止」と日本語でメッセージ

2006年6月3日 土曜日

asahi.com: 「飛び込み禁止」と日本語でメッセージ

また安易に asahi.com からネタを採る。この記事、「日本語メッセージ」は見られないものの、元記事はこれらしい。
Chaotische Siegesfeiern – Japaner, springt nicht in den Rhein!

道頓堀とライン川ではサイズが違いすぎるから、飛び込むバカはまずおるまいが、逆に言うと、飛び込みたい者にとって、手ごろな場所が、考えてみればボンにはあまりないのは事実。どこか手ごろな場所はないかと問われれば…。

まず思いつくのは、ポッペルスドルフ城のお堀かな。ボン大学の本校舎の東側からまっすぐ、線路を越えて美しいポッペルスドルフ通りの突き当たりに見えている城館の堀。城館自体、現在は大学の理系学部の施設になっていて、裏手は植物園になっている。

街の北のはずれ、ポツダム広場近くで小川としての姿を現し、ボンの北でライン川を渡るアウトバーンの下をくぐってそのかなり北、グラウラインドルフでライン川に注ぐラインドルフ・バッハは案外手ごろかもしれない。(バッハ Bach というのは普通名詞としては小川という意味で、だからあの作曲家は小川さんなのだ、というのは、大学のドイツ語教師が1年生に向かってしゃべる典型的なくだらない文句だ。もっとも近ごろの大学生はえてしてバッハだって知らず─別に知らなくてもいいけどさ─、教師はハズすことになる。)

いや、もっといいのは、バート・ゴーテスベルクに向かう途中のライン河畔の広大な公園、ラインアウエ Rheinaue の池かもしれない。池と言ったが、決して小さいものではない。

ベートーヴェンの『田園』のようなイメージの田舎の小川は、ライン対岸のボイエルのほうに行けばたくさんある。

…って当然、冗談で書いているんですよ。これでほんとに飛び込むアホバカスカタンがいても私は責任を取れませんからね。そう、「自己責任」。これに対応する auf eigene Gefahr (英: at your own risk)というフレーズは、ドイツの至る所で目にします。問題なしとはしませんが、少なくとも、いつぞやの日本で、一過的に、きわめて奇妙な形でしきりに口にされたのとはちがって、ドイツでは、実にしっかり根付いた考え方ではあります。

問題は、日韓大会のときに道頓堀に飛び込んだような阪神(阪急?)タイガース・ファン兼サッカーファンがどれくらいボンに行っているかだな。

サッカーの「象徴的有効性」

2006年6月1日 木曜日

asahi.com: 「W杯初戦は休みに」 ウクライナ政府、企業に勧告へ

asahi.com: 4人に1人「関心なし」 W杯で地元ドイツ

いずれも asahi.com に掲載された対照的な記事。
まず浮かぶ感想:やっぱりウクライナはネイションとしては若いんだな、とか、さすがのドイツもそうなのか、かつてドイツにおけるサッカーは日本における野球みたいなものだと認識していたのだが、日本の野球同様、凋落してきているのだな、とか。〈ベルンの奇跡〉の時代はもはや遠いのだ。

いずれも、いいとも悪いとも言えないことだけれど、ね。