‘German Literature’ カテゴリーのアーカイブ

ブレーメンの音楽隊

2011年2月14日 月曜日

住まいのわりあい近くに、「ブレーメン」という小さな楽譜店があります。いつも感じの良い女性の店員さんが一人で店番をしています。店の名前は、おそらくグリムの「ブレーメンの音楽隊」の話からきているのでしょう。



ロバ、犬、猫、鶏、いずれも高齢で飼い主の役に立たなくなった4匹の家畜たちが、殺される運命を避けて、ブレーメンの町を目指す。「死ぬよりゃましなことはどこへ行ったって見つかるさ」という名文句は、作家のカール・ツックマイヤーが引用して使っている。現代のブレーメンの町の真ん中の広場、市庁舎脇には、1953年に建てられた4匹のブロンズ像があって、町のシンボル的な存在になっています。



でも、ご存じかと思いますが、「ブレーメンの音楽隊」はブレーメンには行っていないし、当然、音楽隊にも入っていない。

ブレーメンに向かう途中の森で夜を迎えたとき、4匹は偶然に「盗賊たち」の家を見つける。中をのぞくと盗賊たちが豪華な夕食の最中。この悪い連中(盗賊ではありません、動物たちです)は悪知恵を働かせて、盗賊たちを脅かして出て行かせ、まんまとご馳走にありつく。一度盗賊の手下が戻ってくるも、見事撃退して、そのままそこに居着いてしまい、安楽に暮らす。めでたしめでたし。と言うか、かわいそうな盗賊たち…。と言うか、ブレーメンと音楽隊はどこへ行ったんだあ。



要するに、市民でも農民でもないアウトサイダー同士の分捕り合いの話なんですね。

ブレーメンも、音楽隊も、動物たちを集結させ駆り立てる幻想にすぎない。そもそも、もともとの話にはブレーメンという固有名はなかったらしい。それがあとで付け加えられた。だいたい、高齢で働けなくなった動物たちが、ブレーメンでなら音楽隊に入れてもらえると考えるところが、当時のブレーメンの音楽のレベルに対する、周囲からの評価を反映していると考えられています。でも今のブレーメンの人たちはそんなことにはお構いなく、この話に愛着を抱いているようです。



ではクイズ。グリムのテクストでは、ロバと犬は、音楽隊に行ってそれぞれ何の楽器を演奏することになっていた、というか、演奏するつもりになっていたでしょうか。



正解は、ロバがリュート、犬がティンパニです。蹄でどうやってリュートを弾くんだか。(多くの翻訳では「ギター」になっています。)猫はセレナーデ(ドイツ語で「夜の音楽」Nachtmusik)が得意、鶏も声を買われており、いずれもヴォーカル志望だったと思われます。



ブレーメンの音楽隊、ドイツ語
おおまかな日本語訳

Wikipedia ドイツ語版の Bremer Stadtmusikanten
日本語版の「ブレーメンの音楽隊




Amazon Reloaded for WP のテスト

2009年4月7日 火曜日

投稿のその場で検索して画像とともにリンクを入れてくれる WordPress 用プラグイン、Amazon Reloaded for WP を使ったテスト投稿です。

批評する者とされる者の物語

2008年3月17日 月曜日

三つの物語トム・ティクヴァによって映画化された長編小説『香水―ある人殺しの物語』 (文春文庫)や、モノローグドラマ『コントラバス』などで知られたパトリック・ズュースキントに「深さへの強迫 Der Zwang zur Tiefe」というたった6ページほどの短編がある。『三つの物語』という短編集の中の一編。

新進画家の女性が、愚鈍で無責任な「批評家」の、「彼女には深さがたりない」という評言に真剣に悩んでしまって制作ができなくなり、そのまま潰れていき、死んでしまうという話。皮肉でシニカルな、いつもながらのズュースキント。全体としては喜劇的な色合いが強い。(たぶん日本語訳はまだない。英訳は出ている。)
Patrick Süskind, Drei Geschichten und eine Betrachtung. Diogenes, 1995



批評される側に立って、同情することもできるし、あまりこの類の批評をまじめに受け取らないようにしようという教訓として読むこともできる(「コンクールの審査員なんてなにさ」などなど)。


批評する側に立って、その責任を思い起こさせ、軽率な発言を戒めるものとして読むこともできる(「われわれは勝ち誇っている者だけを批評しよう、これから育つ者に対しては慎重でなければならない」などなど)。

でもたぶんこれらの読み方のどれも、ズュースキントにとってはどうでもいいものだろう。映画 Vom Suchen und Finden der Liebe の台本にも表れていたが、基本的に、ズュースキントの関心は、それぞれの主観から出られない人と人の間のディスコミュニケーションから生じる悲喜劇に向けられている。主観の殻やコミュニケーション不全の治療が可能だとも必要だとも思ってはいないフシがある。言ってみれば第三者のシニカルな愉しみ。たぶんそこが、ズュースキントの魅力でもあり、いやらしいところでもある。