‘German Cinema’ カテゴリーのアーカイブ

ファティフ・アキン『太陽に恋して』

2008年6月8日 日曜日

太陽に恋して何のブログなんだか訳が分からなくなっているこのブログ、もとはと言えば、日本で公開されていなかったりあまり知られていないドイツ映画の紹介から始めたのだった。

わりあい初めの頃に紹介した一つがアキン監督の Im Juli。ドイツ版の DVD で見て気に入り、学生たちにも薦めてきた。台本が出版されていないので、一部のシーンの台詞を自分で必死に聞き取り、プリントして、読ませたこともある。ロードムービーと、メルヘンと、ドタバタ・ラブコメディーを合わせたような作品。

その後、たぶんアキンが『愛よりも速く』Gegen die Wand でベルリナーレの金熊賞を受賞してから・したからだったと思うが、この Im Juli も、たぶん東京でだけ、日本語字幕付きで上映されたという話は耳にしていた。それが、昨年の秋に、日本版 DVD 『太陽に恋して』として出ていたことを、つい最近、学生から知らされた。どうやらそこらじゅうの TSUTAYA に置いてある。早速借り出して観てみた。

邦題は、ちょっとベタだが、ストーリーからして筋が通っている。

字幕は、松浦美奈さんという方の作品。へえ、なるほど、そう来たか、うまいなあ、というところと、え、そうやっちゃったの? というところがそれぞれ2割くらいずつ。

そうしちゃったの?というところの例を三つ。

冒頭近く、ユリがダニエルに指輪を売りつけるシーンでは、「気に入ったのなら、なんでそのために闘わないの?」というユリの台詞が、映画全編を通じて(特に、次に触れるダニエルがレオと「闘う」シーンなどで)重要な意味を持ってくると思うのだが、この台詞は「値切っていいのよ」にされてしまっている。あえて短く、このシーン内に限れば分かりやすく、ばっさり切り捨てたというところか。

もう一つはウィーン近くの酒場でダニエルがレオに挑むシーン。レオがユリのために計算ずくで挑発しているシーンだが、最初、育ちのいいダニエルは、敬称の Sie を使い、bitte (英語の please に相当)を添えて、レオに向かってしゃべる。レオは、「え、何言ってんだ? 分かんねーぞ」という反応。すぐにダニエルは du に対する言い方に切り替え、bitte もやめる。この切り替えは、短い日本語でも十分に表現可能(「すみません、その人を降ろしてください」→「降ろせ!」など)だと思うが、この変化が字幕からは分からない。

もう一つ、ルーマニア国境の「結婚式ごっこ」のシーン。明らかに、牧師や司祭(あるいは市民婚で市役所の役人という可能性もあるのかもしれないが)の司式の台詞をなぞった「あなたは、ユリを妻とすることを望みますか」「あなたはダニエルを夫とすることを望みますか」という部分を、友達同士のやりとりのような日本語にしてしまっている。まあ、あくまでも du が使われているので、それであのような翻訳をされたのだろう。

あと、最初のシーンでオリジナルにはある「7月7日、ブルガリアのどこか」というキャプションや、要所要所で差し挟まれる同様の字幕が、日本版 DVD ではなぜか消滅している。編集のミスか手抜きに思える。たぶんそれを補うためだろう、イサの最初の台詞の字幕に「ここはブルガリアだ」という、元の台詞にはない無茶な挿入が行われている。

なるほどね、と思ったのは、たとえばウィーン近郊の酒場の前のユリがダニエルに向かって言う台詞。Sei doch kein Spielverderber! というやつ。Spielverderber というのは、せっかく楽しんでいるところに水をさす、ゲームをダメにしてしまうやつのこと。その Spielverderber にならないでよ、とユリはダニエルを非難しているわけだが、これをどういうコンパクトな日本語にするのか、ぼくにはまったく見当がつかなかった。ここで字幕は「スネないでよ」となっている。そう来たか、と思った。

もう一つは、貨物船上での晩、ダニエルがユリに「彼女」に逢ったときに言うべき決めの台詞を教えられるシーン。台詞を聞いたあと、最初、ダニエルは、Ist das nicht zu kitschig? と訊ねる。それってキッチュすぎないか? ぼくは「キッチュ」という単語は、カタカナで各種日本語辞典にも載っているし、たしかそれを芸名にしてやっていたタレントさんもいたから、十分日本語になっていると思っていた。しかし学生に尋ねてみると、ほとんど「キッチュ」という〈日本語〉を知らなかった。国語辞典や独和辞典のキッチュないしKitschの説明も、趣味の悪いもの、まがいもの、などとなっているのだが、あまりしっくりこない。ドイツの辞典だと、短くまとまった Langenscheidt の「外国語としてのドイツ語(学習者のための)」辞典の記述でこんな感じ:etwas, das keinen kŸünstlerischen Wert hat, geschmacklos oder sentimental ist. 悪趣味だったりセンチメンタルだったりで、芸術的な価値のないもの。「キッチュ」という〈日本語〉が前提できないとすると、これを短く日本語に置き換えるのは案外難しい。で、この部分、字幕は「キザじゃないか」とやっていた。微妙にズレるが、短さ、明快さ、コンテクストへのはまり具合からして、これはうまいかも、と思ったのだった。そう来たか。

こうしてみると、「なるほどそう来たか」と「え、そうしちゃったの」が紙一重なことは明らかだ。限られた文字数の中でいかに明快に台詞を伝えていくか、字幕翻訳というのがきわめて難しい仕事であることは頭では分かっていたつもりだが、改めて認識させられたような気がする。

待てよ、そう言えば、ドイツ映画の字幕の9割くらいは英語版字幕からの重訳だという悲しい話を伺ったことがある。もしかしたら、この映画でも、酒場のシーンの du と Sie の違いが無視されているのも、そのせいかもしれない。英語にはそんな区別ないもんね。うーむ。

いずれにしても、この作品が日本でもだれでも気軽に見られるようになったことはとても喜ばしい。あとは Solino の日本版、出ないだろうか。ねえ、Aさん?

Kammerflimmern (2004)

2006年1月29日 日曜日

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冒頭、楽しげな家族でのドライブが一転して悲劇と化す。この設定はキエシロフスキの『青の愛』にちょっと似るが、ここでは7歳のパウルが両親を失う。
26歳のパウルは救急士助手になっている。「本人がまるで事故みたいな奴だから」、同僚からはもっぱらクラッシュというあだ名で呼ばれている。日々、ケルンの街のさまざまな事故に出動しては、人の命を救い、窮境にある人を助け、あるいは慰める。さまざまな出動のエピソードが丁寧に、しかしバランスを失することなく描き込まれる。そこに描かれるのは、言わばまさしく「剥き出しの」生であり死だ。

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救急隊の彼らには、夫に殴られたアルバニア人の女がまた殴られるであろうことは分かっている。16歳のアル中の女の子がまた彼らの厄介になるであろうことは分かっている。そんな人々の救助に奔走しながら、クラッシュには自分自身の人生と言えるものがない。唯一、彼のものと言えるのは繰り返し見る奇妙な夢。草地に横たわり、彼の方に両手を伸ばす若い女の姿。ある日、救助活動の中で、彼はその「夢の女」に出会う。妊娠9ヶ月のノヴェンバーと呼ばれる女の子。そのジャンキーの彼氏が頓死したのだ。ノヴェンバーとクラッシュの繊細な愛が始まる。臨月の彼女を自然にそのままに受け入れて、クラッシュは初めて自分自身の人生、自分自身の幸福を予感する。だが…。

タイトルの Kammerflimmern は、日本語の医学用語で何というのか知らないが、救急隊員が決して好んで関わりたくはないような、まず救うことは難しい心臓発作を意味するらしい。バラバラにすれば、Kammer は「部屋」。だからこの熟語では「心室」なのだろう。flimmern はちらちら光る、瞬く。そのへんをふまえてうまく選ばれたタイトルなのだと思われる。英語でのタイトルは Off Beat。

バヴァリア・フィルムの公式ホームページ(英語)
プレス向けの大判の画像(一部のリンクは間違ってもいる)の他は、あまり情報はなく、素っ気ない。

film.de : Kino / Kammerflimmern – Inhalt
このサイトで興味深いのは、実際に救急活動に従事しているらしい人々が熱烈な賛辞をコメントとして書き込んでいること。どうやら、ようやく自分たちの仕事がきちんと描かれた、という喜びと興奮に満ちている。

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監督は二十代半ば。ファティフ・アキンに続く才能の出現かもしれない。風貌もどこかアキンを思い起こさせる。だがアキンが劇場デビュー作の『短く、苦しみもなく』を除いてはほとんど「死」を扱っていないのに対して、ヘルツェマンはこの映画でほぼ正面から生と死に向き合っている。

結末は開かれている。クラッシュは結局どうなったのか。夢との符合はあざといと言えばあざといが、最後に出て来るそれこそが、この映画を印象深いものにしていることも確かだ。

この映画、バイエルン映画祭でジェシカ・シュヴァルツが主演女優賞を獲得したというニュースがあった時にこのブログで触れた。ようやく実際に見ることができて、その受賞にも納得がいく。以前のクヴァベック映画のシュヴァルツは、本当に単なるお人形で、つまらなかった。クヴァベックがヘルツェマンとちがって彼女の使い方を知らなかったのか、彼女が「成長」したのか、あるいはその両方なのかは分からない。クヴァベック映画のシナリオライターをやっていたヘルツェマンには、多分、シュヴァルツの真価を引き出してやろうという野心があったのではないかと憶測する。とにかく、この映画でのシュヴァルツは確かにすばらしい演技をしている。最初から最後まで、悲劇的な妊婦であるというだけでも十分に難しい役。(思うのだけれど、世に幸せそうな妊婦ほど幸せそうなものはないし、不幸そうな妊婦ほど不幸そうなものはないのではないか。)

もちろん、すぐれた映画はキャスティングにも隙がない。主演二人のジェシカ・シュヴァルツとマティアス・シュヴァイクヘーファーのすばらしさはもちろん、パウルの子供時代の役の子(名前は忘れた)は、その大きな目が、彼が長じてマティアス・シュヴァイクヘーファーになるということの説得力をいささか減じそうになりながら、まさにその印象的なまなざしによって、悲劇的な子供の役割を演じきっている。『グッバイ・レーニン!』で主人公アレックスの相棒として名脇役だったフロリアン・ルーカスは、クラッシュの相棒リーチーとしてここでもぴたりとはまっている。やはり同僚で父親的な役割のフィドー役、ヤン・グレーゴル・クレンプも巧みだ。ノヴェンバーのおなかの子の父親で、野垂れ死にするジャンキーのトミーは、DVDに収録されたインタビューでヘルツェマンが言っているように、そんな奴でありながらノヴェンバーに愛されるという難しいキャラクターを少ないシーンの中で説得的に表現しなければならないわけだが、カルロ・リューベックは見事その期待に応えている。

ここしばらくで僕の見た限りのドイツ映画のなかでも、つよい印象を残す映画だった。★★★★★を付けておこう。

ドイツ版DVDは、英語とスペイン語の字幕が選択できる。ドイツでは12歳以上の指定。

追記:…ありゃ、これも「ドイツ映画祭」で昨年6月に日本公開されていましたか。ここCINEMA TOPICS ONLINEにはヘルツェマンの「単独インタビュー」(語りの翻訳文体が何とも…)まで載ってるし。(このインタビューで初めて教えられたのだけれど、ヘルツェマンは自身7歳の時にひどい事故にあっていて─ただし両親を失ったわけではなくて一人での事故─、それがこの映画での生死へのかかわりの基盤になっているらしい。)
しかしまた『心の鼓動』って邦題はなんとも間抜けだなあ。僕に他にいいアイディアがあるわけではないし、考えた人は悩んだのだろうけれど。

Agnes und seine Brüder (2004)

2006年1月15日 日曜日



DVDのカバーを見て、映画を見始めてから、まず、やられた、と思った。タイトルは「アグネスと〈彼の〉兄弟」となっているではないか。つまりアグネスというのは性同一性障害の男で、これは三兄弟の物語なのだ。このトリックにはドイツ人たちも案外引っかかっているらしく、ボーナス・マテリアルに収められた街頭インタビューでこの映画のタイトルを言わされた人の多く(もちろんまだ観ていなかった人たちだろう)は、「アグネスと彼女の兄弟」と答えていた。政界で活躍するヴェルナー、図書館の司書のハンス=イェルク、いまはダンサーのアグネスの三兄弟。それぞれにぶっ壊れた人生を抱えている。

ヴェルナー(ヘルベルト・クナウプ)は、緑の党の政治家として政界では成功しているものの、家庭は完全に崩壊している。妻(カーチャ・リーマン)は彼を拒否し、息子(トム・シリング)はあらゆる機会をとらえて彼に反抗する。ハンス=イェルク(モーリツ・ブライプトロイ)は女たちには少しも相手にされないいわゆる色情狂。アグネス(マルティン・ヴァイス)は先述のように性同一性障害で、現在は「女」としてダンサーをやっており、「彼氏」にアパートを追い出されてしまう。

ぶっ壊れた家庭というのは近頃のドイツ映画の与件、大前提みたいになっていて、もう少し違う視点、違う切り口はないのかなあとも思う。だが、この映画でも、家庭をめぐる問題、性をめぐる問題の、それもかなり醜悪なものが扱われているものの、それが不思議とあまりいやな後味を残さない。カバーのタイトルの下に、サブタイトルのように小さく、”…auf dem Weg ins Glück” と書かれていて、つまり三人がそれぞれに幸福を探し求め、そのトバ口らしき所に立った時点で映画は終わっている。DVDカバーに引用された各紙の評言のなかでも、「面白く、感銘深く、優しく…容赦ない」という南ドイツ新聞の文句がすべてを捉えているようだ。

映画そのものにはあまり関係ない話だけれど、ふと思ったのは、島嶼の日本との違い。最後にハンス=イエルクと車で逃走しながら、彼がようやく出会った彼女が口にする行き先、「バグダッド」というのは、バグダッドの人たちには失礼だけれども、地の果てといったイメージでしかないだろう。でも、実際そこまで車で行こうと思えば行けてしまう、地続きの感覚は、日本の道路を車で走っていても生じようがない。この感覚の違いには何か決定的なものがある。

オスカー・レーラー監督。ドイツ語、字幕なし、112分。ドイツでは16歳以上の指定。

…書いてから気づいたけれど、ドイツ映画祭2005ですでに日本でも公開済みでしたね。

KEBAB Connection (2005)

2005年12月18日 日曜日

ハンブルクの下町、キーツ。イーボは当地生まれのトルコ人。ブルース・リーの熱狂的なファンで(またブルース・リーだ)、ドイツ初のカンフー映画の製作を夢見ている。叔父のインビスのために作った宣伝スポットフィルムが評判になり、店には客が詰めかけ、イーボは一夜にして地元のスターになる。

が、ちょうどそのころ、ガールフレンドの女優を志すドイツ人、ティツィの妊娠が判明。演劇の勉強は続けながら産む意志を固めるティツィ。途方に暮れるイーボ。おまけに、タクシー運転手の父親からは、「ドイツ女を妊娠させた」廉で勘当される。家を追い出されたイーボは親友のギリシャ人のところに転がり込む。その父親はイーボの叔父の店の向かいでギリシャ料理店を営む商売敵。ところが息子はヴェジタリアンで、一人で別にアラビア料理店を経営している。(このあたりに、ドイツのトルコ系とギリシャ系の愛憎半ばする微妙な関係も描かれていて、これもまた面白い。)

ティツィの母親は娘に言う。「ベビーカーを押しているトルコ人の男なんて見たことある?」叔父の誕生パーティの日、ちょっとした諍いから向いのギリシャ料理店に行き、ウーゾで泥酔したイーボは、そこで店主の姪、ステラといちゃつき、大失態を演じる。愛想を尽かすティツィ。イーボはティツィを、父親を、取り戻すべく、自分がよき父親になる努力を開始する…。

監督はアンノ・ザウル Anno Saul。脚本に、ファティフ・アキンや、ルーツ・トーマ(アキン映画『ソリーノ』の台本)の名が並ぶ。もはやメジャーなアキン自身が撮るには軽すぎる素材を後進に譲ったのかとも思えるが、これはこれで楽しい作品に仕上がっている。

ティツィの Nora Tschirner も、イーボの Denis Moschitto も好演しているが、イーボの父親でタクシー運転手メフメットの役に、『愛より速く』 Gegen die Wand でもすぐれた脇役ぶりを見せていた Güven Kirac。これがとてもいい。また『愛より速く』で強烈な演技を見せたシベル・ケキッリも、脇役の一人、イタリア女として登場する。

91分。DVD音声はドイツ語/トルコ語が切り替えられる。字幕は「聴覚障害者のためのドイツ語」とトルコ語。

KEBAB Connection 公式サイト

Vom Suchen und Finden der Liebe (2004)

2005年12月17日 土曜日

Vom Suchen und Finden der Liebe

タイトルを「直訳」すれば、「愛を求め、見つけることについて」。かなり特異な仕立ての恋愛コメディ。作曲家ミミ(モーリツ・ブライプトロイ)と、歌手ヴェーヌス(アレクサンドラ・マリア・ラーラ)の、熱愛と破局、冥界での和解と悲(喜)劇的な結末へとたどっていく物語。オペラでもドラマでも史上再三リサイクルされているオルフェウスとエウリディーケの物語を下敷きにしている。脚本は監督のヘルムート・ディートル自身と、小説『香水―ある人殺しの物語』やモノローグドラマ『コントラバス』で知られる巧者の作家、パトリック・ズュースキント。105分。このドイツ版DVDには字幕は一切ないが、後述のように脚本は容易に手に入る。

恋愛コメディというラベルづけは、あまり正確ではない。物語自体は悲劇的だし、演技も徹底してシリアスなのだが、それを眺める視線、つまり台本やカメラの視点が非常にシニカルで皮肉なもので(それはオフでたまに流されるナレーションにもはっきりと現れている)、それによって、全体としてはコメディ「のようなもの」になっているのだ。このスタンスは、出版されている脚本に付されたズュースキントの「愛」に関する長広舌で、でもやっぱり巧みなエッセイにも明確だ。

いろいろな点できわどい綱渡りをしている作品だと思う。演技は徹底してシリアスだと書いたが、それはもちろんシリアスでなければならないのであって、そうでなければこの作品は崩壊する。だからすぐれた役者が必要で、実際その条件は見事にクリアしている。主演のブライプトロイは相変わらず達者だし、ラーラも十分に美しく、かつ上手い(特に眼の表情の豊かさに感心する)。熱愛しながら実にくだらない痴話喧嘩ばかりしている(そこがコメディなのだが)カップルを熱演している。脇役も、ウーヴェ・オクセンクネヒト(MON-ZEN[もんぜん])を初めとして確かなものだ。

いったいターゲットとしての観客はどこらへんになるかというと、少し考えてしまう。全体を統括する視線は、先に書いたように距離を置いたシニカルなものなので、ヒーローとヒロインへの同一化はことのはじめから禁じられている。この点が、通常の恋愛ドラマとはまったく異なる。強いて考えるなら、自分自身は安定したパートナー関係を持っていて、余裕のある人間か(少ないんじゃないのか、そういう観客は、ドイツには?)、最初から自身は破綻していて、映画とともにシニカルな視線を獲得することで安心するようなタイプか。ま、とにかく、デートで見るにはどうかと思う。

そういう微妙な位置に立つ作品で、万人受けするとは思えないが、映像は美しいし、実によくできた作品であることは間違いない。

Rosenstraße ローゼンシュトラーセ

2005年8月3日 水曜日

2003年、ドイツ、135分。Margarethe von Trotta 監督。

ニューヨークに住むルート・ヴァインシュタインは、夫を失ったばかり。ことさらにユダヤ教の教義を守って、親族に30日間の喪を強いる。ルイスと結婚したいという娘ハンナの希望は撥ね付ける。なぜそこまでするのか、過去については黙して語らない母がくぐりぬけてきた時代を知るために、ハンナはベルリンに飛ぶ。そこで会った90歳のレーナ・フィッシャー、戦中、母の養母であった人物の口から、ようやくハンナは過去の事実を聞き出す。それは1943年2月のことだった…。

という枠物語形式で語られる第二次大戦中のドイツの物語。

スターリングラードでのドイツの大敗後の1943年2月、ベルリン。ユダヤ人の夫をもつ数百人の女性たちがローゼンシュトラーセ( Rosenstraße 薔薇通り)で大胆にもデモを行い、収容所に送られようとしている夫を返してくれ、と訴える。もともとこの通りにはユダヤ人コミュニティの本部があり、それを接収したナチは、そのままユダヤ人たちの仮収容所にしたのだった。さらに驚くべきことに、彼女らの訴えは成功を収める。夫たちは帰ってきたのだ。

この史実を舞台に、個々の登場人物はまったくフィクションとして創造することで、マルガレーテ・フォン・トロッタ監督・脚本の “Rosenstraße” は、この出来事を目に見える・分かりやすい (anschaulich) かたちで見せてくれる。

Rosenstraße

いくらかの批判や疑義もある。たとえば史実との関係については、ゲッベルスはこのローゼンシュトラーセのユダヤ人たちを(映画のように)どうこうできる立場にはなかったはずだ、とか。あるいはナチはあまりにナチらしく、プロイセン貴族(レーナの父親)はあまりにプロイセン貴族らしく、要するに紋切り型に描かれている、とか。あるいはまた枠物語仕立てにしたことによって、進行も人物の心理も無用に複雑になってしまっている、とか。尻馬に乗って、レーナの夫、ヴァイオリニストのファビアン (Martin Feifel) がヴァイオリンを弾く(フランクのヴァイオリンソナタ!)姿(特に右手)がまったくサマになっていない、とも付け加えておこうか。

しかしセットもカメラも巧みだし、キャストには名優を揃えているし。戦中のレーナを演じるカーチャ・リーマン Katja Riemann は、この映画でヴェネツィア映画祭の Coppa Volpi を獲得している。ハンナを演じるのはマリア・シュラーダー Maria Schrader。モーリツ・ブライプトロイ以上に、この人の多彩な役作り、演じ分けには感心する。『愛され作戦 Keiner liebt mich』のファニー・フィンク役、”Stille Nacht” のユリア役、『コマーシャル・マン』のヨハンナ役、『エーミールと探偵たち』のフンメル牧師役。『エーミール』でコミカルな役を演じていたシュラーダーとユルゲン・フォーゲル Jürgen Vogel が、”Rosenstraße” でも揃ってシリアスな役を演じているのを見比べるのも面白いかもしれない。

全体としてよくできているのは確かだし、またローゼンシュトラーセの出来事を目に見えるものにした功績も疑いえない(これを素材とした映画は先行作品があったようだが)。

映画を離れて、歴史的なローゼンシュトラーセについて言えば、Le Monde diplomatique の記事 Ces femmes courageuses de la Rosenstrasse で Dominique Vidal が書いているように、このローゼンシュトラーセの出来事は、まず、ナチ政権に対して受け身の姿勢をとり、「どうしようもなかったのだ」と言ってきた人々に対して、仮借のない疑問符を突きつける。さらに、この43年の出来事に限らぬ一般的な問題として、ナチ政権は、これまでの歴史研究で想定されてきた以上に、実は民衆を恐れていたのではないか、という問いを提起する。このことは、やはり Le Monde diplomatique で抜粋が紹介されている→日本語版) Götz Aly の近著 “Hitlers Volkstaat. Raub, Rassenkrieg und Nationaler Sozialismus” に言う、ナチスが国民の支持をいかに「金で買う」ことに腐心していた(ユダヤ人や占領国から収奪した富を「福利厚生」に回していた)かという指摘とも平仄が合う。

子供向けドイツ映画二本

2005年7月28日 木曜日


『一家に一つ、魔法使い』 Der Fakir (2004年、85分)

こども向けのホラー・コメディ。(上の日本語タイトルは適当に付けた仮のもの。)
父親が亡くなって、二卵性双生児のエマとトムは、母親とともに、何十年も放置されていた古い屋敷に引っ越す。ここには絶対何かが「出る」と確信したエマは、実際、地下室で、ボールペンに閉じこめられた幽霊というか魔法使いというか何というか、ロンバルドという男を発見する。ロンバルドは、50年の間、そこに閉じこめられていたのだった。ボールペンから出してもらったロンバルドは早速力を発揮しなければならない。この屋敷に盗品のダイヤを隠した脱獄囚二人が闖入してきたからだ。ロンバルドの力を借りて(?)、子供たちは二人の男を見事撃退。それどころかおまけに…。

ドイツ製のこの手のコメディというのはあまり日本には知られていない。このへんは紹介されてもいいのではないだろうか。大ヒットにはならないだろうけれど。

それにしても、ロンバルドを演じるモーリツ・ブライプトロイのはまっていること。『ラン・ローラ・ラン』、『ソリーノ』、『七月』、『エス』などなど、まるで違った役を実に器用にこなすものだ。

原作の少年少女向け小説は

Ein Fakir für alle Fälle


『弟が犬になっちゃった』 Mein Bruder ist ein Hund (2004年、97分)

Der Fakir と一緒にドイツ版 DVD を取り寄せて観てから気付いたのだが、「ドイツ年」のからみで6月に東京で公開されていて、テレビの動物番組でも、「主演」の犬が訓練士と一緒に紹介されていた。(訓練士は、映画の中でもキャンディー・ショップの店員の役で一瞬出演している。)

マリエッタは犬が飼いたくて仕方がない。けれど、親は許してくれない。十歳の誕生日にもらったアフリカの「魔法の石」。魔法なんて効くわけないじゃない。でも両親が旅行で不在の間に、ほんの試しに「魔法の石」に願いをかけてみる。「ベク・ベク・ヴェズ・クサラート!」バカな弟なんかより、犬が欲しい! すると本当にかわいい犬が出現! しかしこの犬、弟トビアスの好物のキャラメルキャンディーをぱくぱく食べるし、弟の大好きだったソファーのクッションにちょこんと座って弟の大好きだったテレビ番組を見ている。弟が変身しちゃったんだ! さらにこの犬、ふとしたきっかけでCMスターになってしまう。マリエッタは必死で弟を元の姿に戻そうとするが、弟の方は犬としての生活がまんざらでもなく、人間に戻ることを拒む……。ドイツ年サイトの解説によれば、「『競走豚ルディー』など、動物を使ったファミリー・ムーヴィーの第一人者であるペーター・ティムによる、<家族の絆>をテーマとする子供向け映画の秀作。」だそうだ。

弟の Hans Laurin Beyerling ? が、彼が変身するツヴェルクシュナウツァーによく似ていて(?)、その点、なんだか説得力がある。

フィルム・タイ・インの、これはおそらくノヴェライズ本。

Herz im Kopf (2002)

2005年5月4日 水曜日

18歳のヤーコプ (Tom Schilling) と、ポーランド人のオペアガール、ヴァンダ (Alicja Bachleda-Curuś) との間の、ドイツ映画にしては拍子抜けするぐらいフツーの恋愛ドラマ。奇をてらわず、丁寧に作られていると言うこともできるだろう。最後は抑制の効いたハッピーエンド。安心して見られます。いや、恋に恋しているぐらいの年頃の子たちにはちょうどいいかもしれない。ミヒャエル・グートマン監督。約90分。聴覚障害者のためのドイツ語字幕付き。

前に紹介した Lichter はドイツとポーランドの国境の二つの町、スルビチェと、フランクフルト・アン・デア・オーダーのちょっと哀しい話だった。Herz im Kopf はフランクフルト・アム・マインが舞台だが、ヒロインはポーランド人。

少し話が逸れるが、今年は『日本におけるドイツ』年だそうで、さまざまなイベントが行われている。ドイツ人たちにとっては、この4月30日に両国大統領が出席してオープニングが行われたという「ドイツ-ポーランド」年のほうが、まだ意味がありそうだ。なにしろお隣さんだし。(イラク攻撃への対応の違いから少々齟齬が生じていた両国関係を、良好なものにしていくという意味も、このイベントは持たされているらしい。)

エーミールと探偵たち

2005年4月29日 金曜日
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この blog の “German Cinema” カテゴリーでは、日本では未公開のドイツ映画ばかりを紹介してきたのだけれど、2003年のこれは国内DVD既発売。三度めの映画化だ。
ケストナーの名作を換骨奪胎して、うまく仕上げている。今どきのドイツのガキどもにいかにも受けそうな飾りやくすぐりや演出。ベルリンの子供たちの中心にいるのはグスタフではなくて女の子のポニー。ポニーの口笛にこどもたちが集まってくるシーンにはラップ。ラップは、今のドイツのこどもたちには受けがいい。こんな DVD が爆発的に売れているくらいだ。

最初2回(1931年と1954年)の映画化作品は、このDVD一枚に収められている。
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1931年のウーファの白黒映画は当然ながら原作に一番忠実。1954年のシュテンムレ監督作品、そし2003年のブーフ(ブッフではない!)監督作品へと、少しずつ原作から離れた脚色や設定が大きくなっていく。それでも3作品ともまぎれもなくケストナーの『エーミールと探偵たち』であり得ている。何が変わって、何が変わらないかに着目するのも面白かろう。

ベルリンを象徴する風景の違いも面白い。54年版では、第二次大戦の傷跡の象徴であるカイザー・ヴィルヘルム教会。03年版では、東西統一によって再び通行可能となったブランデンブルク門。

注目すべきは、最初の映画作品のスクリプトをビリー・ワイルダーが書いていることかもしれない。ハリウッドに行く前の ヴィルダー(Wilder)。その名前は、54年版にもクレジットされている。新聞記者をやっていた Wilder が映画のスクリプトに手を染めたのは29年。33年にはナチスを避けてアメリカに渡ってしまうのだから、このわずかな時期にエーミールが製作されたことは僥倖と言うべきなのかもしれない。

2003年版では、エーミールは母親ではなく父親と二人暮らし。しかも現代ドイツの離婚率の高さを反映して、母親が家を出て行ってしまったことになっている。ポニーの両親も離婚の危機にあり、グスタフの母親であり、夫と死別した女性牧師が、最後にはどうやらエーミールの父親と仲良くなっている。(原作にはないこの牧師、『愛され作戦』Stille Nacht で好演していたマリア・シュラーダーがとてもいい。)

この物語を起動させるには、まず最初に優等生のエーミールが警察を恐れるようになるエピソードを置かなければならない。これもそれぞれ。1931年版は原作にほぼ同じ。1954年版では海賊ごっこをやっている子供たちの仲間になったエーミールが仲間とともに、捕えられたアザラシを海に逃がす。2003年版では、古着/古靴泥棒。これは日本の観客には説明が必要かもしれない。ドイツの街角には、いわゆる途上国へ送る古着、古靴を集めるコンテナがある。2003年のエーミールは、お前の格好はベルリンみたいな都会に行くにはダサすぎる、と友人に言われて、この友人とともに、古着古靴コンテナをこじ開ける悪事に加担するのだ。

31年版、54年版についてもう一つ必要かもしれない注釈は、かつてのドイツのホテルのトイレ。かつてのドイツの安宿ではトイレは共用で、”00″ という「部屋」番号がついていた。”00″という名前のトイレ用洗剤もある。

悪党グルントアイスを警察に引き渡したあとの後日談もそれぞれだ。なぜかエーミールたちが警察のスポーツ大会に招待されることになって一番冗長なのが1954年のエーミール。一番しっくり来るのが友人たちとの再会をプレゼントされる2003年版。これはポニーを「探偵たち」の中心に据えたことが効いている。
エーミールとこどもたちの集団が悪党を追いつめていくシーンが一番迫力を持っているのも最新のフランツィスカ・ブーフ作品ではないだろうか。

2003年版の主演の二人、エーミールのトビアス・レツラフとポニーのアーニャ・ゾマーヴィラは、DVDに収録されたインタビューで、ほっとするほど素直に、こどもは団結することが大事なんだ、と言っている。監督のフランツィスカ・ブーフは、ちょっと醒めていて、こどもがあんなふうに団結することなんてありえない、でもこの物語のああいう状況をみて、自意識を強めるだろう、と言う。

映画はいずれも名作だが、三番煎じのブーフの2003年作品がとてもいい。

原作のペーパーバック版:

原作の朗読CD:

Lichter (2002)

2005年3月6日 日曜日

2002年。 “Crazy” などの作品で知られる Hans-Christian Schmid 監督。

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国境の川、オーダー。その川を挟んで向かい合うポーランドの町スルビチェと、ドイツの町フランクフルト。(フランクフルトといっても、ドイツ経済の一中心地フランクフルト・アム・マインではなく、田舎町のフランクフルト・アン・デア・オーダーだ。)
そういう舞台での二日間。そこで、いくつもの人生が交錯する。夢と挫折、遠い愛と裏切り、だまし、だまされる人々、ひたすら信ずる人々。

ウクライナからやってきて、乳飲み子を抱えてドイツに密入国しようとするコーリャ、アンナ、ディミトリたち。仲介業者のトラックでベルリンまで運ばれるはずが、降ろされたところはスルビチェだった。
コーリャの密入国を助けようとして裏切られるフランクフルトの出入国管理所の通訳、ソーニャ。
フランクフルトでマットレスの店を経営するインゴ。商売はうまくいかず、破産寸前だ。
ポーランドから安いタバコを密輸しているアンドレアスたちドイツ側の若者のグループ。
娘の堅信礼のドレスを買うため夜通し働くスルビチェのタクシー運転手、アントーニ。
その妻もインゴの店で働いていたのだが、賃金は出ない。

とても知的に巧みに組み立てられた作品。と言っても、シュミットにはクヴァベックのように感じる能力が欠如しているわけではない。あえてする抑制の効いた姿勢なのだ。非常にすぐれた作品だと思う。ただし、様々な人生が断片的に描かれながら次第に絡み合っていく構成からして、ドイツ語初心者向きではない。日本で公開するには、よほど巧みな字幕が必要だろう。

『クッバイ、レーニン!』で主人公の姉を演じていたマリア・ジーモンが、見事にソーニャを演じている。アントーニはキェシロフスキ映画のいくつも、とりわけ『白の愛』で名演していたズビグニェフ・ザマホフスキ。野心的で俗物の建築家に、『ラン・ローラ・ラン』でローラの父親を演じていたヘルベルト・クナウプ。

この項はいずれ加筆します。