‘Bons voyages’ カテゴリーのアーカイブ

モスタルが世界遺産に

2005年7月17日 日曜日

知床が世界自然遺産に指定されて、早速国内某エアラインが新聞に大きな観光広告を打っていたりした。保護のためのはたらきと、指定されたがゆえの訪問客の増加による破壊へのドライブとのあいだで、せめぎ合いが起きていくことだろう。

奇妙なことに、今回同様に世界遺産登録された他所の土地については、触れている日本語の記事が少ない。(と思ったらこれを書いた翌朝になって Asahi.com が掲載していた。2005.07.17., 17:50 追記。)
このブログのメインページにRSSを引いている RTV Slovenija の記事で気がついたのだが、モスタルも世界遺産に指定された。
RTV Slovenija – Novice – Okolje – Mostar odslej pod okriljem Unesca

ボスニア・ヘルツェゴヴィナの古い街モスタル。街の中央を流れるネレトヴァ川に、16世紀に、高度な技術によって架けられたアーチ橋は、この前の争いの象徴の役割も担わされ、破壊され、そして復旧された。

かつてのユーゴスラヴィアが崩壊する直前にドブロヴニクに行った話は前のエントリに書いたが、モスタルには行ったことがない。モスタルについてはここの記事がよくまとまっている。行き方はこの記事にわりあい詳しい。今度機会があったら訪れてみよう。

この地がユネスコの「保護」下に置かれるということには、ずっと大きな意味があるように思える。

スイスの地図検索サイト

2005年7月9日 土曜日

[map.search.ch] – Karte: Schweizの地図がなかなかよくできている。衛星/航空写真風の地図で、もちろん住所を入力して表示させることも、クリックで次々に拡大図を表示させていくこともできる。

レストランやショッピングスポットを表示させられるのは当然として、すぐれているのは公共交通機関の表示。最近付加された機能らしいが、トラムやバスの停留所にマウスを合わせると、そこの直近の発車時刻が表示されるのだ。

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Dubrovnik 2

2005年4月19日 火曜日

考えてみると、このドブロヴニクでは、いろいろな人々に出会っている。

数日たって、いかにもバックパッカーという出で立ちのオーストラリア人の若い男の二人組が宿の客に加わった。きっとまたおばちゃんがバスターミナルから引っ張ってきたのだろう。やがて僕が夕食をごちそうになっていることを彼らはかぎつけた。へんだなあ、どういうことだ? と問われて曖昧にごまかし、おばちゃんには、もう夕食はいいよ、と言った。子供たちは、えー、なんでー? と言っていたけれども、おばちゃんはほっとしたようだった。しかしこの二人とはまあまあ仲良くつきあって、一緒に旧市街を歩いたりもした。

旧市街は古い城壁に囲まれていて、車はいっさい入れない。城壁の入り口の一つ、ピレ門から、ルジャ広場まで二百メートルあまり、異様に広い目抜き通りのプラツァ通りがずどんと通っている。舗石は年月にみがかれて、つるつるに光っている。プラツァ通り以外の道は、すべてとても細い。

セミナーハウスには、他にもいくつかのグループが来ていた。フランクフルト大学からも社会学系の連中が一団体、やってきていた。その参加者の中に、パトリシアという女の子がいた。アルゼンチンからフランクフルトへの留学生。小柄で、黒い髪を長く伸ばし、眼のくりくりした、8分の1日系だという彼女は、ドイツ女ばかり見てきた眼にはとってもキュートに見えた。クロアチア語でお茶のことを「チャーイ」と言うということが、ことのほか嬉しいらしかった。ちょっと舌足らずな感じのドイツ語をしゃべり、僕の片言のスペイン語を笑っていた。一緒に町の回りの城壁の上をぐるぐる歩いたり、町の先端の水族館の脇にあった薄暗い食堂でパスタを食べたりした。でも、なぜだったかは忘れたが(たぶん実に些細な行き違いだったはずだ)、そのうちうまくいかなくなって、後半は全然顔を見なかった。いや、一度、ドイツ人学生らしい男と連れ立って歩いているのを見た。

ドブロヴニクの人々は、夕刻になるといっせいに外に出てくる。そしてさしたる距離でもない旧市街の目抜き通りの石畳の上ををひたすら行ったり来たり散歩し、あるいはまた戸外の席でチャーイを飲んだりするのだ。このいかにも南欧の、夕方の散歩の時間のざわめきには、独特の雰囲気がある。

われわれのセミナーには、もちろんベオグラードの哲学者もいた。初日、宿に戻るバスが分からず困っていた僕を助けて、町の人にバス停を尋ねてくれた。そのときの、セルビア人の彼とクロアチア人の地元の人間との間のやりとりに何か不穏なものがあったのを覚えている。クロアチア人は、ふつう、髭を伸ばさない。細面ながら黒々とした総ひげの彼は、見るからにセルビア人だった。残念ながら、当時、やりとりの言葉は分からなかったのだけれど、すでにセルビアとクロアチアのぎくしゃくした関係が影を落としていたのかもしれない、とあとになって思う。

フランスからフィリップ・フォルジェもセミナーに参加していた。ドイツ人よりも流暢なドイツ語をしゃべった。ドブロヴニクの沖合に、ロクルム Lokrum という島がある。さほど広くはないのだが、三カ所ほど浜があって、夏は海水浴客でにぎわうという。セミナー終了の前日、その島への遠足があった。二十人も乗ればいっぱいになってしまうような船が、町の波止場と島を結んでいた。島の野原には孔雀がいた。放し飼いの、と言うべきなのか野生の、と言うべきなのかは分からない。島の遊歩道を、フォルジェとおしゃべりをしながら散歩した。サングラスをかけて、饒舌な、気さくな優男。長年続いているこのセミナーの、次回のテーマの話。フォルジェは文学寄りに持っていきたいのだけれど、他の哲学者連中がいい顔をしないのだ、とか。次回はヘーゲルになりそうだ。ヘーゲルを文学として読んじゃえばいいじゃん、哲学だって文学でしょ、と言ったら、うん、その通り! と嬉しそうだった。(この数年後、日本からT. 高橋氏がフォルジェのところに勉強しにいったのではなかったかと思う。)

フォルジェと船着き場近くに戻ったところで、ウィーンから来た大学生の女の子に出会った。フランスに勉強に行きたいです、と言う彼女に、フォルジェは嬉々として連絡先を教えていた。そのあと、僕は彼女と話し込む。船着き場にはいくつものムラサキウニがへばりついていた。日本ではね、こいつを食べるんだよ、と説明しながら割ってみせると、全部オスだった。ちょうど、すでに満員の、前の船が出るところだった。屋根のないその船の中に、パトリシアの姿が見えた。連れらしい人物はおらず、一人で座っていた。じっと僕の方を見ていた。少しふくれ面になっているように思えた。

次の船で町に戻り、すでに夕刻の散歩に出てきていた人々の雑踏の中にパトリシアの姿を探したが、見つからなかった。同じセミナーの参加者で、カイザーズラウターンから来ていたでっぷりした哲学者に呼び止められて、ドブロヴニク最後の夕食を一緒に摂ることになった。

翌朝、ドブロヴニク郊外の空港から、往路とは違って一直線に、ドイツに戻った。連絡先も聞かなかったパトリシアには、それ以来再び会うことはなかった。あの船の中のふくれ面が最後。今頃、どこでどうしているだろうか。

あのセミナーにも(すくなくとも何年か続いていたはずだが)、その後、参加していない。すでにジーモン先生も退官されてしまった。

あの民宿のこどもたちだって、その後いわゆる多感な時期にいわゆる内戦があったことになるわけで、そして無事であればもうとうに成人しているはずで、どうしているだろうか。

あのベオグラードの髭の哲学者も、この十年を生き延びて、ようやく新たな歩みを踏み出しつつあるあの国で、元気だろうか。

筆無精な僕には、すべて、分からない。民宿のおばちゃんも、オーストラリアの放浪者たちも、みんな、それぞれに、しっかり生きていてくれればいいなと思う。

# なんだか紅茶とマドレーヌのかわりにアスパラガスから始まる〈失われた時を求めて〉になってしまった…。

スロヴェニア・アルプスの観天望気

2005年3月22日 火曜日

スロヴェニアで出版された ”TRIGRAV – ein kurzer Führer” Planinska založba, 1991 というコンパクトな山岳ガイドがある(ドイツ語)。「トリグラウ山 ショート・ガイド」。その中の、夏の山地の観天望気の記述を、心覚えのために、日本語に。

【好天の兆候】
夜は山から谷へ、昼は谷から山へ風が吹く。
気圧は下がらない。
快晴か、数片の、高く、ほとんど不動の雲。
多量の朝霧。
積乱雲は遅くなって(10時以降)ゆっくり発達し、高層に達する。

【悪天の兆候】
夏の急激な悪変は、寒冷前線の通過またはGewitterによる。(Gewitter ゲヴィッターを何と訳そう? 雷を伴った、局地的な激しい雨のことだ。独和辞典には「雷雨」とある。それはそうなんだけど…。)
寒冷前線の接近を告げるのは、
 高い雲は南西の風に、低い雲は西の風にのって移動する。
 レンズ雲が出ることが多い。
 曇り方は不均一なことが多い。
 気圧がはっきりと下がる。
 たいていの寒冷前線は北西から接近し、はげしい Gewitter を伴う。夏でも雪またはヒョウを降らせることがある。
Gewitter は通常昼前にはない。
 積乱雲はかなり早く(8時過ぎ)発達しはじめ、急速に大きくなる。
 積乱雲が前日より速く高く発達するようなら必ず Gewitter がある。
 朝の中層の塔状の雲も Gewitter の兆候。
 夏には温暖前線も長雨をもたらすことがある。

南ボヒン山脈縦走(スロヴェニア 旅の断片 1996)

2005年3月21日 月曜日

これはスロヴェニア・アルプスの一角の登山記録。このエントリは東欧の言語(もともと ISO-8859-2 が使われてきたような)の特殊文字の混在表示テストでもある。

ヨーロッパアルプスの東端に位置するのがスロヴェニアの山々。フランスやスイスのアルプスとちがって、観光開発が進みすぎていないのがいい。山々の標高は決して高くはないが、きわめてアルプス的。その中の一角がボヒン地方。周りを山に囲まれた、尾瀬を一回りか二回り大きくしたような地形の地域。ハントケは、古いドイツ語でタールシャフト Talschaft、谷の集まり、と形容している。尾瀬と違って、下は湿原ではなく、牧草地と湖だ。一番奥に、透明度の高い、美しい緑色の水をたたえる大きな Bohinjsko jezero ボヒン湖。さらにその奥のどん詰まりに、高さ78mの断崖の途中(カルスト地形の地下水脈だ)から落ちてくる Slap Savica サヴィツァ滝(この滝についてはこちらに美しい画像をまじえた日本語による紹介がある。ただしサヴィカという音訳は誤り)。

crna_prst.jpg Črna prst チュルナ・プルスト山 (1844m) ソース: http://www.zaplana.net/izleti/CrnaPrst/

1996年7月16日、このボヒン地方の南側を限る山脈を、ロディツァ山からチュルナ・プルスト山まで縦走。単独。この山脈の南面は非常に切り立ったところが多く、岩登りの必要はないが、かなりの緊張感がある。
ボヒン地方の中心地、ボヒンスカ・ビストリツァまたはその先の観光の中心地リブチェウ・ラース Ribčev Laz からヴォーゲル Vogel ・ロープウェイの駅まではバスで。
ものすごい急勾配で上っていくロープウェイは毎正時と30分発。下のボヒン湖がぐんぐん小さくなる。
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8:30発で上まで行き、そこから8:45ごろのリフトに乗り継ぎ。(このあたりは台地状になっているが、かつカルスト地形で凹地も多く、少々複雑な地形。冬場はスキー場になる。)
8:55 長いリフトの終点 Postaja Orlova glava オルロヴァ・グラヴァ駅(小屋あり)から歩き始める。晴れ。この先、Orlov rob オルロウ・ローブ (Postaja Plato 高原駅) へのリフトは(夏は?)休止中。あたりには、さまざまな高山植物が色とりどりの花を咲かせている。
9:25 Visoki Orlov rob 大オルロウ・ローブの小ピーク。
9:30-33 分岐(シーヤ Šija 山直下で縦走路に出る)。尾根の北面。岩場とハイマツ帯の急登後、凹地の北側の縁を行く。
9:55-10:00 1796m のピーク。(Čes Suho チェス・スーホ峠の手前。初めて南面の展望が開ける。)360度の、非常によい眺め。北にはスロヴェニアの最高峰トリグラウ (2,864 m)、南はイタリアまで。
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10:35-40 放牧されている羊の群の間を通って、Rodica ロディツァ山の南西の肩に出る。頭上に雲。このあたりでエーデルヴァイスの花にも出会う。
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10:45-48 RODICA ロディツァ山 (1966m)。このあと、ロディツァ東側の尾根やや南西よりに岩場が続く。
11:04 岩場の通過を終えて休憩。Suha Rodica スーハ・ロディツァの手前。はるか下に、南の谷の村、Grant グラント、Rut ルートの眺めがいい。
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スーハ・ロディツァ Suha Rodica 1944m は北側を、ラスコヴェツ Raskovec 1967m は南側を、マタユルスキ・ウルフ Matajurski vrh 1936m は北側を巻く。北面の窪地のいくつかに残雪。
11:55 マタユルスキ・ウルフ北面の通過終わり。ここからしばらくは南側の草地の間の快適な道。しかし霧が次第に濃くなる。コンスキ・ウルフ Konjski vrh あたりからは岩のヤセ尾根。岩場。南側からジグザグの急な登りがある。雷鳴が聞こえ始める。ペースをさらに上げる。
他の登山者にほとんど遭わなかったこのコース、このあたりで反対方向に向かうグループに遭う。ヨーロッパ系の男女とアフリカ系の男1人のグループ。一人で歩いているのか、それは危険だ、とにやにやしながら英語で声をかけてくる。余計なお世話だ。この天候では、この先避難場所もない険しい尾根道をちんたら歩いていくあんたらの方がよほど危険だ…と口に出して言わなかったけれど、言ってやるべきだったか。(やがて案の定、激しい雷雨になった。彼らには隠れる場所はなかったはずだが、どうしたか。翌日のスロヴェニアの新聞には遭難記事はなかったから無事だったのではないかと思うが。)
12:40 チュルナ・プルスト山 Črna prst 直下の山小屋、Dom Zorka Jelinčiča ドム・ゾルカ・イェリンチチャ着。ほぼ同時に激しい雷雨が始まる。どかんどかんとものすごい落雷。食事も出してくれる小屋で、昼食に煮込みを注文し、天候回復を待つ。最初に乗ったリフト終点からここまで、途中に山小屋も避難小屋もない。13:40ごろ雨が上がる。まだ雷鳴。霧が晴れ、チュルナ・プルストの山頂 (1844m) から全方位の展望を楽しむ。
14:15 雷鳴も止んだので、小屋を出発。ここで山脈の縦走は終わり。ボヒンスカ・ビストリツァに向かって下り始める。しかしまだ霧が少々。
15:00-15:12 PL. ZA LISCEM の避難小屋 (1338m)。3つぐらいの小さな池があり、ギシギシのような草が一面に生えた窪地。樹林に入り、しばらく草地と樹林の間の下り。
15:33 上の林道に出る。電動ノコで作業をしている人がいた。しばらく林道(道沿いにラズベリーの茂みあり)を歩き、また樹林へ。
16:00 下の林道に出る。すぐに右手に Dom dr. J. Mencingerja メンチンゲルヤの山小屋を見て、その先で左下の牧草地に入る。泥の道。
16:18-28 レブロ Rebro の牧草地に出たところで休憩。ボヒンスカ・ビストリツァの町はすぐそこ。陽が出たのでシャツを脱いで少し乾かす。
16:43 ボヒンスカ・ビストリツァ帰着。

Soria – ハントケの余白に(旅の断片 1996)

2005年3月15日 火曜日

ソリア Soria を出る日の朝、ドゥエロ川沿いを、今度は右岸を下流にむかってあるいた。
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道に沿って何軒かの家。屋根の落ちているようなのも多い。それでいて人が住んでいるようでもある。壁の向こう、内庭から犬の吠え声がした。少し大きな建物は建築中の学校だった。鉄橋をくぐったあたり、川沿いの一部は公園として整備されたばかりのようだった。対岸に僧院が見えるあたりになると、もう家はなく、岩のごつごつした斜面が直接、道に迫っていた(ずっと上を鉄道が通っている)。その岩のあたりに野生のラヴェンダーがあった。土の斜面には見当たらず、岩の露出しているようなところだけに、よく見るとずっと上の方まで、点々と株が並んでいた。
町をとりまく荒野のいたるところに生えているセイヴォリーもサントリーナも、葉は小さく硬く、強烈な香りがした。なぜスペイン人たちは料理に香草を使わないのだろう?

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サント・ドミンゴ教会の前には何度も立った。ポルタルの彫刻をずっと見上げていると、首が痛くなった。細部はむしろ日が当たらない時のほうがよく見えた。いずれにせよ、何回見に行っても、この群像のすべてを見つくすことはできないような気がした。
間口の狭い奥行きの深い書店で、ハントケの Versuch über die Jukebox のスペイン語訳“Ensayo sobre el Jukebox”を見つけて、レジに持っていった。店主に、この本はね、ここソリアが舞台なんですよ、と教える。(いちおう僕のスペイン語は通じたらしい。でも、そのときそれをどう言ったのかすら覚えていない。)知らなかったらしい店主は、しかし顔をしかめて首を振るだけだった。 (スペイン語版の表紙は、本文中にも言及のある、ドゥエロ川べりの古い城壁の肌のイメージだろう。)

サラゴーサ Zaragoza のバスターミナルは、バス会社ごとに、街のあちこちにちらばっている。ソリア行きのバス停は、ある裏通りの真ん中にあった。奥行きの深い長方形のそっけない空間で、左手に売店と荷物預かりがあり、一番奥に切符売場の窓口があって、中には疲れた顔の中年女が座っていた。
教えられて売店と荷物預かりの間の狭い通路を通り抜けると、もう一回り大きな、やはり長方形の空間があって、そこにバスが縦横2台ずつ、計4台、びっしりと停まっていた。

ブルゴス Burgos のバスターミナルは、街中の一つのブロック全体の内側をくりぬいたようなつくりになっていた。つぶれた円形、あるいは角を強く丸めた三角形の空間の周囲に沿って歩道があり、その歩道に尻を向けて何台ものバスが停まっていた。
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売店で、ローストされたヒマワリの種を一袋買った。スペイン人たちの、定番のスナック。彼らは、歩きながらでも、片手だけで巧みに殻を割り、口に放り込んでいく。彼らのいたあとには、うずたかい、ヒマワリの種の殻。片手だけで割るのは、どうあがいてもマスターできなかった。

スペインのウェイターは、それぞれにグラスを持った両手を振って歩く。(しかし中身はこぼれない。)

グラナダのホテルでは、朝、向かいの部屋でチェリストが練習していた。ブレーメンのホテルでは、夕方、隣の部屋でヴァイオリニストが練習していた。

Murbach から Le Grand Ballon に登る (補足)

2005年2月25日 金曜日

今回、ムアバッハに入る前の中継点としてコルマールの街に宿泊した。コルマールへは、パリからストラスブールで乗り換えて電車で。コルマールはストラスブールやミュールーズと並んでアルザスを代表する美しい街。
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数多い木組みの家、小ヴェニスと呼ばれるピトレスクな運河の一角があり、ドイツ料理を洗練したような郷土料理、上質の白ワインが味わえる。
これは Brasserie Les Dominicains で食べた Quiche Lorraine。ワインは地元のミュスカ。
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コルマールからサン・バルナベへは、自家用車やレンタカーを使えば問題ないが、そうでない場合は、コルマールからタクシーで30ユーロあまり。コルマールから3.1ユーロのバスでGuebwiller ギュープヴィラーまで行き、そこからタクシーに乗れば10ユーロ。しかしGuebwillerのタクシーは街はずれにあって分かりにくい。
コルマールの駅前からは、一日三本(週末と祝日は2本)、ライン川にかかる橋を渡ってドイツのブライザッハに行くバスが出ている。ブライザッハから環境政策で有名なフライブルクまでは電車で30分。

#宿泊:ムアバッハの村に Hôtel Domaine Langmatt。ムアバッハの少し手前に、今回泊まった Hostellerie St-Barnabé。グラン・バロンの肩にホテル・レストラン Chalet-Hôtel du Grand Ballon (tel.: 03 89487799, Fax: 03 89627808)。登山客用の大部屋の他に、トイレ・シャワー付きの部屋も9室ある。

#Ferme Auberge フェルム・オーベルジュというのはもともと牧畜農家が副業でやっている、登山者に食事を出してくれる山小屋。酪農家たちは、毎年、5月末に、牛たちを山の上の牧草地に上げ、9月末に下に降ろす。ヴォージュ山脈の酪農業は、第一次世界大戦の戦場となったことで大きな打撃を受けた。そこからの打開策として、また登山客がちょうど多くなってきたことを受けて、このフェルム・オーベルジュははじめられた。1971年には上部ライン地区の35の酪農農家が「自然に帰ろう」という標語のもとに Ferme Auberge の協会を組織し、やがてフランスの他の地域を含む組織となった。その土地の、農家の食事そのままを提供するのが本来の趣旨で、当初は、出す料理の70パーセントが自家生産でなければならないという厳しい規制があったが、これは1982年に緩和された。料理の材料の一部に、アルザスやヴォージュで生産されたものを使えばいいだけになったのである。典型的な「酪農家の食事」repas marcaire ルパ・マルケールということになっているのは、前菜にレバーペーストとサラダ、メインディッシュに豚の肩肉の薫製(collet)と、灰の中で焼いたジャガイモ(roigebrageldi)、デザートにシアスカース siasskas と呼ばれる、一種の凝乳にキルシュヴァッサーと砂糖を入れたもの、あるいはコケモモのトルテ、といったところ。もちろん、もっとシンプルなメニューもたくさんある。持ち帰り用に自家生産のチーズを販売しているところも多く、一部のフェルムでは宿泊もできる。夏場の利用は特に問題ないが、山の上での放牧が終わる9月以降は、週末だけ開けるところ、午後6時から開けるところなどが多くなるので、地元の観光案内所 Office du Tourisme などで確認する必要がある。Guebwiller の観光案内所は、73, rue de la République, 68500 Guebwiller。電話番号は、03 89761063。ファックスは 03 89 765272

ちなみに、フランス・アルザス日本代表部のページはこちら。どちらかというと企業誘致のための宣伝サイトのようだ。この中の、「アルザスの特徴」のページ、「特徴」の11と12が取って付けたみたいで面白い。僕にとって大事なのは13なんですけど。

アルザスの地名の表記は難しい。アルザス方言というのは基本的にはドイツ語の一種で、地名もその系統のものが多い。ル・グラン・バロンというのはフランス式の名前だが(ドイツ語ではデア・グローセ・ベルヒ)、Murbach などは明らかにドイツ的な地名である。そのつづりをフランス式に発音(ミュルバック)しても通じるが、標準ドイツ語的な発音(ムアバッハ)の方が地元の感覚には近いように思われる。この一連の記事では、明らかなフランス語のほかは、ドイツ語的な発音に似せてカナ表記しておいた。

Murbach から Le Grand Ballon に登る (3)

2005年2月25日 金曜日

山道は終わりだが、この谷の舗装道路を下っていくと、まだ見ものがある。まず途中、左手の路傍に大きな石造りのキリスト磔刑像がある。途中の集落で道が二手に分かれるところでは、橋を渡って右の道が車が通らなくていい。すぐにまた合して、もう一度二手に分かれるところが Murbach の村。山あいに唐突に出現する巨大なロマネスク様式の教会(かつての修道教会)を真ん中に、道は左右に分かれて通っているのだ。家は十軒もあるだろうか。車道に出てからここまで15分程度。教会を見学するなら左の道がいい。
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右の道を行くとすぐに、小川にかかる木橋があって右の山に入る道がついている。これがここから Munsteraeckerle に登るときの登山口(青丸の印)。これをやりすごして舗装道路を進むとすぐにまた教会の左を通ってきた道に合し、Murbach の犬の紋章の付いたバロック様式の石造りの門をくぐる。かつての修道院の入り口だ。出た右の石壁に小さな入り口がくり抜かれていて、”EXPO” という札がある。中は、中世の修道院の菜園を再現したような小さなハーブ園になっている。フェンネルやアニスの花には蜂がむらがっている。
ここに修道院がつくられたのは13世紀初頭のこと。修道院はLauchラウフ谷やThurトゥール谷一帯の領主であり、山地を出たところにGuebwiller ギュープビラーやSt. Amarin 聖アマーリンの城塞都市を建設した。上部ラインの広い範囲を支配していたのだ。農民戦争の終結後、ムアバッハは南部アルザスにおけるハプスブルク家と反宗教改革の重要な拠点となった。三十年戦争の終結した1680年以後は、一帯はフランス領となる。18世紀なかばになると修道士たちはこの山あいの修道院を捨て、Guebwillerの町に拠点を移して騎士団となる。その際、Guebwillerの聖母教会の建設に、ムアバッハの石材が流用された。その残りがムルバッハの教区協会となった。しかしそのわずか数年後に、ムアバッハの修道院はフランス革命によってその歴史を閉じる。騎士団は廃され、教会は1798年に農民たちによって略奪される。
18世紀に側廊が取り壊されたため、現在残っているのは翼廊だけである。二つの四角く高い塔。ところどころに残るロマネスクの装飾。
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もちろん、アルザス一帯が、20世紀前半にはドイツとフランスの間の争奪の対象となったことも忘れてはならない。
ムアバッハからサン・バルナベにはさらに15分ほど下る。サン・バルナベに着く直前、道の左側には、ミント系の草が二種類自生していて、ここにも蜂たちが集まっている。なお、この谷の道路脇にはイラクサも多いから注意のこと。
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Murbach から Le Grand Ballon に登る (2)

2005年2月24日 木曜日

ユーデンフートのコルでの大休止のあと、泉の前の道を進む(赤白赤のマーク。Ferme du Ballon, Grand-Ballon へという標識)。
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すぐに二手に分かれるので、右の登り道をとる。ここからはBelchenwald と呼ばれる、ユーデンフートの南からグランバロンの東の山腹にあたる森林の中をひたすら登っていく。ユーデンフートのコルから30分ほどで左に Ferme du Ballon、つまりバロン小屋に向かう道を分ける(赤い菱形のマーク)。ここではそのまま赤白赤のマークの道を辿る。やがて休止中のスキーリフトの下をくぐる。道はリフトの下をすぐに再びくぐって、右方に向かう。巨大なブナの樹林の中をまっすぐ進み(このブナ林の中の空気は特に柔らかく感じられて、気持ちがいい)、やがて左に折れて一息で、グラン・バロン直下の広場の、セルフサービスの食堂の脇に出る(1343m)。ユーデンフートのコルから約45分。ここには Route des Crêtes と呼ばれる車道が通っており、駐車場には何台もの車が停まっている。高齢者をいっぱいに乗せた観光バスまで来ていた。実際、多くの人はここまで車でやってきて、グラン・バロンの頂上までの一登りを歩き、眺望を楽しんで帰るのだ。広場の道を挟んだ反対側には、年中無休のホテル (Hôtel du Grand Ballon) があり、その脇には子供用のボブスレー遊びのコースがある(樋状のコースをプラスティックの橇で走る)。ここのセルフの食堂、山の上の食堂なのに品揃えはさすがにフランスと言うべきか。トレーを取ってカウンターに並び、主菜とコーヒーなどは店の係に出してもらうが、前菜とデザートは回転する台に載ったものを自分で取る。前菜はメロンと生ハムの盛り合わせなど。デザートはフルーツのタルト、レモンのタルトなど豊富。ここには土産物屋も併設されている。
食堂から車道を渡って、ホテルの左手からグラン・バロンの山頂に向かう(約15分)。
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ちょっとザレて歩きにくい道だ。グラン・バロンの頂(1424m)は、大きな草地の円頂で、グラン・バロン(=大きなボール)の名はそこから来ている。(土産物屋には、女性のバストやヒップを大写しにして、「ヴォージュのバロン」と書いたおふざけの観光絵はがきも売っている。)ヤナギランのような花が目に付く。
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山頂付近には、青い悪魔の記念碑と呼ばれる巨大なケルンのような塔と、気象関係のレーダードームがある。ドームの基部は展望台になっていて、四方の眺望を説明するプレートが取り付けられている。実際、この眺望こそがグランバロンの売りであって、直下まで車で来る人々も、それを目当てに来ているわけだ。周囲のヴォージュの山並みはもちろん、西は遠くパリ盆地まで見渡すことができるし、東は、ライン川を挟んだ(川の向こうはドイツである)シュヴァルツヴァルトの山並み、天候に恵まれれば(特に秋から冬にかけては)スイスアルプスまでよく見えるという。残念ながら、今回は、朝は晴れていたものの、途中から時折小雨が降るような天候になってしまい、そこまでの眺望は得られなかった。
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山頂からホテルのある広場に戻って、セルフの食堂(「アルプスの眺望」という名である)の左手から、今回の下山路に入る。西側に下って行く車道が最初に大きくカーブするところで、”Ferme Augerge Roedelen, Gustiberg” の標識に従い、車道を離れ、真北の山道に入っていく。この道も赤白赤の四角い印。灌木の間の明るい道をまっすぐ下ると、林道にぶつかる。ここに避難小屋が記されている地図もあるが、それらしいものは見当たらない。この林道を20メートルぐらい右にたどると、左に牧柵を通って入る山道がある。やがて開けた牧草地に出ると、すぐ下に Alm Roedelen レーデレン・アルムの有人の山小屋が見える。牧柵を開けて斜めに下り、小屋の前に出る。セルフの食堂から約30分。ここでも食事を出してもらうことができる。今回、このあたりには馬と牛と羊が揃っていた。
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さらに牧草地の中を北に進む。途中、右に Lieserwasen に直接下る道を分けると、樹林の中の急下降になる。やがて周りが再び開け、牧草地の中に広葉樹が点在する気持ちのよい道になるとまもなく、グスティベルクの山小屋 (Ferme Auberge Gustiberg)。Roedelen から約15分。ここも食事を出してくれる。小屋の前の席では、グランバロンから下ってきた人々や、Lac du Ballon の湖から歩いてきた人々が、ビールやワインを飲みながらにぎやかに食事をしている。彼らはほんとうにアルコールに強い。こちらは飲めば歩けなくなってしまうから、ぐっと我慢してコーヒーを注文する。早めに行動することができれば、車で登って来た客も群がるグランバロン直下のセルフの食堂よりは、ここで昼食にするのがいいかもしれない。
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ここから30分ほどは、東に向かって坦々とした林道歩き。今度の印は青い十字。Lieserwasen へという道標に従う。途中、二三の道が分かれるが、ほぼ一貫して水平に山腹を進んでいく道だ。ところどころで北側の眺望が開け、小バロン方面の山並みが見渡せる。最後に、Schutzle シュッツレに下る道を左に分け、右に、登り坂になる。この坂を5分も登って、作業小屋のようなものが見え、左手がやや明るく開けたところに来たら、そこが Lieserwasen リーサーワーゼン。ここから赤白赤の道標に従い、左に少し下ると、別の林道にぶつかる。そのまま林道を横断して、正面の樹林に入る。ずいぶん適当に伐採されているように見える樹林の中を少しずつ右に向かいながら降りていくと、先ほどの林道と再び交差し、樹林の山腹を斜めにまっすぐ急降下していくようになる。やがて右下からの林道を合わせると、まもなく Col de Wolfsgrube ヴォルフスグルーベのコルに着く。Lieserwasen から30分ほど。ここも七叉路ぐらいの結節点。テーブルとベンチ、避難小屋のほかに、水場もあるが、今回ここの水は涸れていた。ここから辿るべきは、出てきた道の、水場を挟んですぐ右下を下っていく林道状の道だ。ここから再び日の丸のマークに従う。Murbach へという道標もはっきりしている。やがて牧草地沿いに右下に降りる道に入ると、二三軒の家のあるところでBelchenthal ベルヘン谷の舗装道路に出る。あとはこの道を下っていくだけだ。

Murbach から Le Grand Ballon に登る (1)

2005年2月22日 火曜日

フランス東部、ドイツとの国境にも近いル・グラン・バロン (Web 上の案内はたとえばここ) は1424mで、上部ライン地方の西に隆起するヴォージュ山脈の最高峰。樹林と牧草地に取り巻かれた草地の円頂で眺望にすぐれ、地形にとくにアルペン的なものはないが、気候条件から高山植物は豊富で、また夏場、牛や馬の放牧された牧草地も数多くあり、ヨーロッパの山の一パターンが味わえる。コースは長め(19km、5時間半)だが、特に困難な箇所はない。道標や山小屋も整備されていて、積雪期やよほどの天候でなければ安心して歩ける。食事は山小屋などで摂れるので、補給用の水分と非常食のほかはあまり持参しなくても済む。雨具のほか、夏場でも上の方では天候によってそれなりに冷え込むので、その用意さえあればよい。登山地図は、フランスの Instititut Geographicque National が出している2万5千分の一の、3719OTという番号のもの(8.99ユーロ)。周辺の観光案内所や書店で容易に手に入る。

st_barnabe.jpgこの写真だけ、ホテルのページから拝借。
2003年8月、Murbach ムアバッハの村から少し下ったところの Hostellerie St. Barnabé オテルリー・サン・バルナベに宿泊 (378m)。山あいの家族経営の小さな ホテルだが、立派なレストランを持つ。8月20日朝、宿の前のミニゴルフ施設の脇から始まる林道を登っていく。このあたりの山には、コースごとに、決まったマークが付けられていて、登山地図にも同じマークが記されている。この道は赤丸。長方形の白いプレートの上に描かれているので、まるで日の丸だ。道の脇には、ところどころ、ブラックベリーの茂みがあるので、摘みながら歩く。黒くつややかに熟した実は、ときにものすごく甘くなっていて、そういうものに当たるとうれしい。
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まもなく林道が左にカーブするところで、右に入る道標がある。大きく蛇行する林道に対するショートカットになっている。もう一度林道に出て、少し先でまた登山道に入る。樹林の中をほとんどまっすぐに登っていく。もう一度林道を横断すると、大きくジグザグに登っていくようになる。右に Murbach からの道を合わせると、Munsteraeckerle ムンスターエッカーレの鞍部 (655m) に着く。ここまで 約45分。このあたりの山の、こういう鞍部では、たいてい何本もの道が合している。ここには休憩用のテーブルとベンチがあり、その近くにもブラックベリーの大きな茂みがある。少し東の方へ行くと、北面の展望がよく、Le Petit Ballon ル・プチ・バロン(小バロン)などが望まれる。
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ここから西に向かって、Ebeneck エーベネック山の山腹を巻くようにして次の峠、Col de Judenhut ユーデンフートのコルに向かうのだが、Ebeneck の北側を通る道(Rocher de Waldeck という標識) と、南側を通る道(Ebeneck)がある。南の道を行く。南面の山腹を西に向かう林道をほんの少し行くと、右に入る山道がある。今度のコースの目印は赤白赤のオーストリア国旗のようなマーク。
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樹林の中の少しきつい登りが、ほの暗い針葉樹林の中の道になると、やや平坦になる。広葉樹林になり、有刺鉄線の牧柵の狭いゲート(牛が通れないようになっている)を通り抜けると、牧草地の中の登り。離れたところに牛の姿が見られる。牧草地を突っ切ると、また林道を横断する。また林道に出て、あとはひたすら林道を西に向かってたどる。南面の展望がよく、またグラン・バロンの姿も見えてくる。間もなく Col de Judenhut に到着。ユーデンフートのコル (973m)。
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Munstereckerle からはちょうど1時間ほど。ユーデンフートというのは正面の山の名前だが、そこに直接向かう道はない。このコルも六叉路ぐらいになっている結節点。明るく開けたところで、正面には避難小屋といくつものテーブルとベンチ、その左下にはシュルンベルガーの泉 (Fontaine Schlumberger)と言われる冷たく水量豊富な水場がある。流れ出した水は、木の樋に溜められ、牛なども飲めるようになっている。たいていのひとはこの泉で水を詰め替えている。(つづく)