‘Bons voyages’ カテゴリーのアーカイブ

不法滞在者になった顛末

2011年8月18日 木曜日
Fjaka-Tシャツ

ポレチのホテルで売っていたTシャツ。気分にぴったりだったもので。

こちらに半年や一年滞在すると、何か一つは大問題が起こるものだが、かつてのボンでの開腹手術、前回のリュブリャーナ滞在時の寝台車での盗難に相当する「事故」は、ここでやってきた。知らぬ間の不法滞在。

半年の在外研究期間でウィーンに居を定めたわけだが、3月末の出発の直前、在日オーストリア大使館はあの地震(とその後の問題)のため一時的に大阪に移転するという騒ぎの最中で機能しておらず、到底ヴィザの発給事務を行なえるような状態ではなかった。調べたら、どこかに、ヴィザなしで6カ月まで滞在できると書かれていた。あれ?3カ月ではなかったっけと思いながら、ならば9月中旬帰国予定の今回は6カ月以内だし、ヴィザなしで行っても問題はあるまいと判断して、パリ経由でウィーンに入った。ウィーンの芸大からは招聘状を出してもらっていた。アパートも借り、4カ月つつがなく暮らしてきたわけだ。この間、7月にEU域内のイタリアにちょっと出ただけだった。

7月末、子どもたちが夏休みに入り、妻とともにやってきた。ウィーンで二三日過ごしたあと、彼らの旧知も多いスロヴェニアに一緒に移動した。山岳地方のボヒンでしばらく過ごし、リュブリャーナに出た。そこまではよかった。スロヴェニアの海岸地方からは目と鼻の先の、クロアチア領のイストラ半島、海辺のポレチでほんの2泊過ごそうと考えたのが運の尽きだった。スロヴェニアで車を借り、クロアチアに入るところでスロヴェニア側の国境官吏に捕まった。日本から来たばかりの家族は問題ない。3月末からオーストリアというかEU域内にいる僕が見とがめられた。

スロヴェニアの国境官吏が言うには、旅券で6カ月というのは、年間に6カ月であって、連続6カ月ではなく、連続的に滞在できるのは3カ月までで、その間にいったんEUを出ていなければならない。聞いてねーよ(関係ないが、スロヴェニアのゴレンスカ地方にあったダチョウの飼育所は、前の鳥インフルエンザ騒ぎのときに閉鎖されたらしい)。いまから僕にできるのはとにかくクロアチアに出て、ザグレブのオーストリア大使館に行き、再入国許可を得ることだと。そしてそこで半時間ほども空しく費やし、不法滞在の過料(科料?罰金?)200ユーロを払わされ(これもちょっとふざけていて、本来400ユーロのところ、その場で現金で払うと半額に割引されるらしい。まあ、外国人が日本への出入国に際して同じようなトラブルに遭ったら、もっとひどい目にあいそうな気もする)、クロアチアに入った。クロアチア側の官吏は、当然ながら、何も言わずに我々を通した。スロヴェニアがEU・シェンゲンに加盟してしまった(いやー、よかったねえスロヴェニア、おめでとう!)のが問題というか、クロアチアがまだ入れてもらえていないのが問題と言うべきか。ともかくかなり遅い時間に、予約してあったポレチのホテルにたどり着いた。

本当はここに2泊して、まる一日海辺でゆっくりする予定だった。しかし来たのが木曜で、ザグレブのオーストリア大使館に行くとすれば、翌日金曜しかない。やむなく2晩目はキャンセル…した翌朝9時半、ザグレブに電話したら、業務時間は朝9時〜12時だという。ザグレブまでは少なくとも3時間…間に合わねえ。しかも、月曜は8月15日。カトリック国の祝日。火曜の午前中にいらっしゃいという。

そういうわけで、キャンセルをキャンセルし、とりあえずやはりポレチにもう一泊することにした。泊まっていたのはポレチの湾に浮かぶ小さな島のホテル。その離れのような19世紀の城館のスイートを当初2泊取っていたのだが、キャンセルした分は即座に埋まっていて、2泊目は本館の通常のホテルルームになった。しかしよくよく考えてみれば、中途半端に急いでザグレブに行っても仕方がない。子どもたちにも海辺の方がいいだろう。そう思って、さらに2泊、とどまることにした。だがハイシーズンのしかも連休。ホテルは満杯で、フロントの女性は近くの系列の宿にも問い合わせてくれたのだが、どこも塞がっている。ややあって、もう一人のフロント係のおじさんが、ちょっと待て、と奥に引っ込んで何やら相談して出てきた。この島全体がこのホテルのもののようで、離れの城館のさらに背後に、何棟かの「バンガロー」がある、そこの部屋が空いている、バスタブもTVもないが、という。別にTVなど要らないし、とにかく子連れで一々移動したくもなかったので、その「バンガロー」を見せてもらい、泊まることにした。城館→ホテルの部屋→バンガロー。とある家族の没落の物語。

まあ、バンガローもそんなにひどいものではなく、島の西の海べりで、海に(正確にはその向こうのイタリアに)沈む夕日がよく見えたし、屋根裏には鳩が巣を作っていてときどきくーくー鳴いていて、朝は起してくれたし(軒端の穴から出入りする鳩を眺めて、なるほどもしかするとこれが鳩時計の原型なのではないだろうかなどと考える)、バンガローと海の間の疎林と草地には、ぴょこぴょこ走り回る野うさぎのすがたが見られたし、決して悪いものではなかった。とにかく4泊、おかげでイストラの海を堪能しましたよ。透明度の高い、水中眼鏡などなくてもかなりの深さまでくっきりと見える水。大小の魚の群れ、ウミウシ、そしてイカまで。スタッフは終始にこやかに親切だった。クロアチアの観光業はうまくいっているようだ。その利害と絡んでいるとはいえ、接客する人々のホスピタリティもたいしたものだと思った。

月曜の朝、陸の街外れに止めてあった車でザグレブへ。イストラ半島を横断してリエカを通り、ディナル山脈を越えて内陸へ。高速道路は本当に高速で走ることができて、最後の市内で少し手間取ったものの、3時ごろ、ほぼ問題なくザグレブのホテルに着いた。この宿も、前日、iPhoneのホテル予約アプリで取った。夏の観光地とは違って、そんなに激混みではないが、家族5人で泊まれる選択肢は多くはなく、適当に取ったら5つ星ホテルだった。しかし法外な値段ではない。海辺から来ると、ザグレブはかなり蒸し暑く感じられた。

翌朝、家族をホテルに残し、タクシーでオーストリア大使館に行った。結局分かったことは、日墺の互いの国民は連続6カ月までパスポートだけで相手国に滞在できることに間違いはないのだった。しかしこれは日墺間の独自の取り決めで、他のEU圏すべてに当てはまるものではないし、他の国、たとえばスロヴェニアの与り知るところではない。スロヴェニアにとってはあくまでも「EU内に3カ月以内」なのだ。同じEUだからオーストリアとスロヴェニアの間では入国チェックはなく、それですんなりスロヴェニアに入ってしまったのだが、現在のEUの外縁を守るスロヴェニアのクロアチア国境の勤勉な官吏によって、「出国」するときになって、僕は不法滞在していたと認定されてしまったわけだ。したがってスロヴェニアの官吏にもどうやら落ち度はない。なんとややこしいことか。スロヴェニアに入った時点で実質違法になっていたわけだが、クロアチアに出ようとしなければ、あるいはクロアチアがEUに入ってしまっていれば、問題は発覚しなかったことだろう。ザグレブのオーストリア大使館は僕の日本出発時の駐日大使館の状況についても理解があり、大使も出てきて話をしてくれたのだが、とにかくオーストリア側としては問題はないので、一番手っ取り早くベストなのはのはザグレブから飛行機でオーストリアに飛んで戻ることだと言う。

話は比較的短時間で済んだ。11時にホテルに戻る。荷物をまとめ、またiPhoneでその日の夕方のザグレブーウィーン便の席を取る。リュブリャナで借りた車を返しに行かなければならないし、リュブリャナの友人宅に少し荷物も残してあったから、妻と子どもたちはいったん車でリュブリャナへ行くことになる。彼らのため翌日のリュブリャナーウィーン便の席も予約。…しようとしたのだが操作に手間取っているうちに席が塞がり、翌々日の便に。小さなプロペラ機しか飛んでいない路線で人数が多いとこういうことになる。

ぎりぎりの12時にチェックアウトし、昼食後、車で出て行く家族を見送り、ホテルのカフェでしばしぼーっと過ごしたあと、タクシーでザグレブの空港へ。正味35分のフライトでシュヴェヒャート着。

ウィーンの無線LAN

2011年4月30日 土曜日

ウィーンに来て結局二週間以上いたホテル、Adagio Zentrum Wien、アパートタイプで、長く居るほど安くなる。で、無料で無線LANが使える。正確には、無線LANはロビー(ソファや机の置かれた、朝食時間以外は飲み放題のカフェコーナーがある)のみで、部屋は有線LANなのだが、僕のいた部屋はこのロビーの真上だったので、部屋でも無線LANが使えてしまった。(で、有線LANのジャックのほうは壊れていた…。)

SoftBankは海外での定額ローミング・サービスをやっているわけだが、あくまでも数日の滞在向きだという気がする。なので、今回、ローミングをオンにしたことはまだ一度もない。

(半年の滞在予定という状況が、一番中途半端なのかもしれない。ローミングで使い続けていくにはちょっと長い。こちらでも料金が有利なものは、キャリアによるSIMロック、2年縛りが普通なので、2年居るのならこちらでiPhoneを手に入れてしまえばいい。で僕のiPhoneは結局いわゆる脱獄とSIMロック解除をやって、こちらのプリペイドSIMを挿して使うことにしたのだが、それはさておく。)

脱獄しなくてもローミングしなくても、無線LANさえ使えれば、ViberやSkypeで日本とも安く、あるいは無料で通話もできるわけだ。で、ウィーンはWiFiつまり無線LANが無料で使える場所がかなり多い。上記のアダージョのようにいくらかまともなホテルは皆そうだし、街中のカフェなどでも使えるところが少なくない。

オーストリアでそういう無線LANの使える場所を探すのに役立つアプリが Freewave。同名の無料WiFiサービスを提供しているスポットをリスト表示してくれる。下のPostal Code で郵便番号による検索も、Cityで町を選ぶことも、Nearby でGPSを使って近くのスポットを表示させることもできる。IMG 3384

リスト上で選んでタップすると詳細を表示する。ここから地図に表示させることもできるが、地図はGoogleマップに飛ぶので、ネットに繋がっていないと使えない。できればネットの使えるところであらかじめ調べておいた方がいいだろう。IMG 3385

実際にそのスポットに行ったら、「設定」→「WiFi」を開いて、「ネットワークを選択…」のリストの中から Freewave を選ぶ。すると図のようなログイン画面になるので、(この画像では表示されていないが)下の方の Connect ボタンを押す。IMG 3373

実際にこれで探して使ったスポットもたくさんある。市立公園に近いカフェPrückelとか、シュテファン教会に近い中心部の 1010 Bar Café とか、ヒーツィングの Mario とか。僕にとって一番のヒットだったのは、Landtmann’s Parkcafé だったかもしれない。シェーンブルン庭園のど真ん中。ネプチューンの噴水の下西側。動物園のゲートを入ったところにあるせいか、あまり目立たず客は多くない。天気さえ良ければ、観光客の喧噪の中、緑に囲まれて、意外に落ち着ける場所だった。ここではカフェ・モーツァルトのモーツァルトトルテも置いていて、美味かった。IMG 3343

ようやくホテルを引き払って、13区のアパートに入ってから数日間、ネットが開通するまで、特にMarioとLandtmann’s Caféには、MacBook Airを背負っていってお世話になった。

この Freewave サービスをやっているところは、表立って掲示したりしていないようなので(僕が見落としているだけかもしれない)、こんなふうにして調べない限り分からない。

もう一つの系統の無線LANスポットを表示するのが、WiFi Free Austria。115円。こちらもかなりの数がある。

それ以外にも、Free Wi-Fi Finderでも少し引っかかってくる。また店先の貼り紙で気づくこともある。そういうところは、独自のパスワードを設定していることもあるので、店員に尋ねる必要がある。

で、今回の話 その7にしておしまい

2005年12月30日 金曜日

間抜けな失敗談を延々と書いているうちにクリスマスも終わり、今年ももはや終わろうとしている。最後に、書き残したことをいくつか。
gore.jpg

スロヴェニアで購入した僕の携帯は、Vodafone系なのだけれど、ドイツではうまく使えなかった。アウグスブルクのホテルから、リュブリャーナの住居の大家さんに電話する。家の鍵も盗まれた。悪いことに、パワーブックなども一緒なので、犯人にアパートの所在地も知られ、侵入されるおそれがある。可能性はきわめて小さいとは思うが、どうしましょうか、と言うと、これからあなたがたが帰ってくるまで毎日見に行く。アパートの中に何か貴重品はないか、と言われて、ヴァイオリンを挙げる。畏友のA.R.から安く譲り受けたもので、時価なら150万円を下らないもの。それ以外、たいしたものは置いていなかった。家主さんは、われわれの留守のあいだ、そのヴァイオリンを持ち帰って保管し、われわれが帰宅すると同時に、鍵を付け替えてくれた。

日本の住居には、被害が及ぶことはないだろう。日本が、地理的な距離と、言語によって「守られて」いることも改めて感じた。(それは時にはマイナスにもなるのだが。)

この大家さんは、普段から問題への対処が迅速で、つねづね感謝している。住んで1ヶ月ぐらいのとき、ベッドのマットレスがあまりにへたっていて、腰痛になりそうだったので、ダメもとでそう訴えたら、すぐに取り替えてくれた。見ると、十年以上前のノヴァ・ゴリツァ製だった。自分たちではここに住むことはないし、これまでの借り手はそういうことを言ってくれなかったからわからなかった、ということだった。11月末だったか、洗濯機が壊れた。脱水時に、もともと異様に大きな音を立てていたのだが、その日、とんでもない騒音をたてたかと思うと、ぷすんと止まってしまった。スロヴェニアのメーカーで、でかでかと「Aクラス」というラベルが貼ってあった。この3月に入れたばかりなのに信じられないということだったが、これもすぐに飛んできて対処してくれた。まあまだ1年も経っていないのだから、保証期間内ということだ。聞けばメーカーはスロヴェニアでも実際のモノは中国製。家主さんの対応は速かったのだが、新品が届くまでには一週間以上かかってしまった。中国もなあ、いい加減、技術力も売る力もつけているのだろうから、そろそろもう少しまともなものを作った方がいいのではないのか。

話がそれた。自分の眠りの質についてもあらためて考えさせられた。寝台車で寝ているとき、浅い眠りだと自分では思っていた。しかし短い期間ではあっても、熟睡していた時は熟睡していたのだ。そして、犯人が侵入したときに、なまじ気づかなかったことは良かったのかもしれない。相手は少なくともちゃんと鋭利な刃物を持参していたのだ。失ったのは荷物だけでは済まなかったかもしれない。

ボンでは、もはやあまりいろいろな人に会う気力も時間もなかった。旧友のイタリア人トニーとドイツ人カーリンのカップルを訪ねた。直前に連絡したにもかかわらず、子供たちはプレゼントまでもらって大喜びだった。彼らのところでごちそうになった夕餉のひとときだけでも、ひどい旅をしてきた甲斐があったと思えた。

万事行き当たりばったりで、帰りの飛行機の切符は、前日、ボンの町中の旅行代理店で買った。片道で、直前で、えらく高くついてしまった。それでも、列車でリュブリャーナまで戻る気はしなかった。行きの寝台車の料金は安かったのだが、考えてみれば、最初から飛行機での往復だったら、今回の被害額も含めると、5分の1程度の出費だったかもしれない。

朝、ボンからフランクフルト空港までインターシティに乗り、昼過ぎにスロヴェニアのブルニク空港に着いた。途中、雲海の上に顔を出したアルプスの山々は真っ白だった。ドイツではあまり雪を見なかった。ボンはドイツの中でも温暖で、滅多に降雪がない。スロヴェニアに戻ってみると、留守の間にも少し雪が降ったようだった。

で、今回の話 その6

2005年12月28日 水曜日

かつての寝台車と今回の寝台車、7年前のボンと今のボン、何が違うのだろうか。

今回はうるさい小さな子供二人を連れていたということが、まず条件の違いとして挙げられる。7年前のボンには、出生直後の長男も伴ったが、ベビーカーで寝ているだけだった。小さな子供がうろちょろしていれば、周囲に対する注意力は8割がた減じる。

大昔に僕が乗った寝台車は、ドイツ発、パリ発の寝台車と、「ユーゴスラヴィアの」寝台車だった。今回のクロアチア発とは車両や車掌などの条件が違うかもしれない。

しかし何より、この数年で、ヨーロッパの状況が大きく変化してしまったということではないか。あとから聞いたことだが、今のドイツのクリスマスの市などには、アルバニアやコソヴォなどからの窃盗団が進出してきているという。今回の「犯人」がそういう連中かどうかは分からないが、もはや数年前とはまるで状況が違うということだ。そして、そういう状態を作り出してしまった要因の少なくとも大きな一つは、ここ10年の西欧とくにドイツの、そしてアメリカの主導するNATOの、南バルカン政策なのだ。

犯人がもし、つい昨日まで、盗るか盗られるか、殺るか殺られるかという状況で生きてきた人々、その上もしかしたらさらに有無を言わさぬ無差別空爆を受けてきた人々だったとして、窃盗が罪だなどと説いてなんになるだろう。「混沌に適用されうる規範など、ありえない。法的秩序が意味を持つには、まず秩序が定まっていなければならない」(カール・シュミット)。徹底的に捜査して検挙率を上げ、必罰で臨むということは、懲罰の恐怖によって治安をはかるという古い考え方の一つだが、そもそも物理的に無理だろうし、法が最大の力を発揮するには内面化されなければ仕方ないのだ。懲罰への恐怖だけでは所詮弱い。そしてそれには数十年単位の、ある程度の豊かさと安定を伴う生活がなければならないはずだ。

地域を熟知しているはずの木村元彦さんですら、1、2年前のバルカン取材旅行の際に、ノートPCを盗まれたと仄聞した。そういう点で、やっぱりスロヴェニアは特殊なのだと思う。そういうスロヴェニアに4ヶ月以上にわたって浸かり、さらに大昔の寝台車の記憶、何年も前のドイツの記憶しかなかった僕は、間抜けなことに、現在のヨーロッパの状態を感知する能力が鈍っていたのだ。

で、今回の話 その5

2005年12月27日 火曜日

何度か書いているように、ボンには大学院生の頃2年間いて、1998年にも1年間住んだ。ふだん、ヨーロッパまで来る機会は夏ぐらいしかないから、今までヨーロッパのクリスマスシーズンを経験したのは、そののべ三年だけだ。
ボンは小さな街だけれど、こじんまりとしたクリスマスの市が、ミュンスター広場に出る。
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ミュンスター広場は、観光客には、ベートーヴェンの立像があることで知られた広場だ。季節の菓子のキャラウェイやクミンの香り、グリューヴァインのクローヴやシナモンの香りがただよい、レープクーヘンのハート形の飾りや、彩り豊かなろうそくなど、クリスマス用品の屋台の木小屋が並び、移動式の観覧車も設置される。特に観覧車の上から眺める市の明かりはとてもきれいだ。前の晩のアウグスブルクのクリスマスの市は、一回り以上規模が大きくて、あの「生きた」グロッケンシュピールなど、それは見事だったけれど、とにかくものすごい人ごみに辟易した。ボンならばそんなことはない。少なくとも人をかき分けて歩かなければならないようなことはない。僕らにはそのほうがいい。

ということで、ボンに着いて、その夕方、ミュンスター広場にでかけた。でも何か雰囲気が違った。僕らの知っているかつてのボンのクリスマスの市よりも、心なしか人の数が多く、なにか落ち着かない、ざわついた空気があった。旅に出て早々ひどい目にあっていた僕らの気分の問題だけではなかった。そしてそこで、家人は財布を掏られてしまったのだった。弱り目に祟り目にただれ目というか、泣き面にスズメバチというか、画竜点睛というか、総仕上げというか。車中でいったん盗られて出てきたバッグの中に入れてあった財布だ。バッグはベルトの片方を切られてしまっていたから、彼女は残った方をバッグにクロスに付けて肩にかけていた。半月ほど前に、週2回のスロヴェニア語学校に行く時に使うことを主に考えてリュブリャーナで買ったこのバッグは、もともとあまり人ごみ向けにガードされていた構造ではなかったが、肩ひもが1本になってしまったおかげで、余計狙いやすくなっていたようだ。そっと開けるのに、邪魔になるベルトが1本減っているのだから。そういうことにさっさと気づいて、ホテルに置いて行かせるべきだったのだが、こちらの頭もぼうっとしているし、古巣のボンという安心感から、そういう装備で出てきてしまった。

車中では現金だけ抜き取られて財布は中のカード類とともにバッグの中にあった。クレジットカードはそのままだったが、スキミングという可能性もあるから、アウグスブルクからカード会社にとりあえず連絡したところだった。今度は財布をまるごと。もしかしたらまた現金だけ抜いて財布はどこかに打ち捨ててあったのかもしれないが、もちろん見つからない。ワインレッドの革の財布は、そういえば、1、2年前に、僕が一人で来たときに、ボンのマルクト広場近くの店でおみやげに買って帰ったものだった。

ミュンスター広場の片隅、ミュンスターの真ん前に、警察のバスが停まっていて、臨時の派出所になっていた。(そんなものも、以前はなかったかもしれない。)そこに届ける。警察の携帯電話を借りて、日本のクレジットカード会社に連絡し、カードの停止処理を依頼する。日本の銀行のインターナショナルカードまで入っていたのはイタかった。(再発行は、あとで銀行とやりとりしたのだが、日本の自宅あてに転送不可で書留で送ってもらうのがほとんど唯一の選択肢だった。それではどうしようもない。総じて、銀行のカードにしてもクレジットカードにしても、たかだか数週間の旅行であれば紛失・盗難に対する対処の仕方があっても、半年や一年という期間に対処するシステムはまるでないのだ。まあ、そう多くはないそういうケースに対応して、かつ安全性も確保するとなれば、そのコストは引き合わないだろうとは思う。ともかくこれで、こちらで現金をおろす手段は僕の持っているクレジットカードのみということになった。)
(も少し続く)

で、今回の話 その3

2005年12月24日 土曜日

浅い眠りだった。ミュンヘン到着の20分前、車掌に起こされる。しばしの間があって、悲鳴をあげたのは家人だった。手にはナイフですっぱりと切られたハンドバッグのショルダーストラップの切れ端を持っている。彼女がベッドの壁側、体の脇に置いて寝たはずのバッグ本体はなかった。あわてて上の段を見ると、彼女のリュック(中身はほとんど着替え)と小スーツケースはそのままだったが、僕のブレントヘイヴンのリュックが消えていた。パワーブックG4、デジカメなどが入っていたリュック。ボンの旧友にと持参したとびきりおいしいスロヴェニア・ワインも2本。

急いで靴を履き、車掌を捜す。車掌は車両の反対の端、最後部のキャビンにいた。この時の車掌の表情も、何か腑に落ちないものがあった。犯罪とは反対の側に立った怒りのようなものはいっさいない、ただ困惑した表情。われわれのコンパートメントのところまでやってきたはやってきたが、何をするでもない。閂をちゃんとかけていなかったのだろう、と言うだけだ。その点に確信の持てない僕としては弱いところ。

隣の男が便所から帰ってきた時、僕は自分たちのコンパートメントの前に、通路を塞ぐ格好ですわりこんでいた。通せんぼをしているようなその僕の姿を見て、男が一瞬ぎょっとしたような表情をしたのは気のせいだっただろうか。そう思う間もなく僕はさっと道をあけてしまった。そのとき、彼がにやりと笑ったように見えたのは気のせいだろうか。(そのあと、彼がもう一度便所に立った時、僕は隣のコンパートメントをさっと覗いた。中にあったのは小さなブリーフケースだけで、何かをそこに隠す余地はなかった。男は、黒装束に鋲の打たれたブーツなどではなかったが、『エーミールと探偵たち』でユルゲン・フォーゲルが演じていた男にどことなく似た雰囲気を持っていた。)

ややあって、向こうの方から、車掌が手招きする。車掌のキャビンのすぐ隣の客室に、家人のハンドバッグがあった。財布の中の現金と、携帯、そして iPod が消えていた。財布の中のカード類はそのまま残されていた。(そこにあることに車掌が気づくなら、もっと早い段階で気づいていてもよかったのではないかという気もちょっとする。)

それからこの車両のもう大部分の客が途中でいなくなったコンパートメントを、こちらから最後部に向かって車掌と一緒に一通り覗いて歩く。一番最後のカーテンの引かれたコンパートメントを僕があけようとした時、車掌はあわてて、そこは俺の部屋だ、と言った。もしこのときかまわずに扉を開けていたら、もしかしたらちょっと面白い光景に出会うことになったのかもしれない。

しかしもう一つ奇妙だったのは、コンパートメントの閂。先に書いたように、金属製の棒を扉の穴に垂直に差し込むだけのものだが、その先端から5ミリか1センチほどのところに、太さ2ミリ程度、長さ5ミリ程度の小さな金属の棒がさしてあったのだ。差し込む穴の方はだいぶまわりが広がっていたから、それでまったく閉まらなくなることはなかったが、気をつけなければこれがひっかかってきちんと閉まらなくなる、そういう仕掛けだったのかもしれない。

総じて、車掌は、あとから思うと、脅されて共犯をやらされている男のような雰囲気があった。まあしかし、それは僕がそう思っただけのことであって、すべては状況証拠にすぎないし、ここに書いているのはいろいろと思い出しながら、あとから考えながらのことであって、寝ぼけてかつ慌てたそのときの頭に、すべてが考えられた訳ではない。

こちらが子供に支度させるのに手間取っている間に、隣の男は向こうの端で車掌となにやら短く談笑すると、さっさと降りて行ってしまった。

ミュンヘンの駅の警察に行き、被害届を出す。朝6時半ごろの到着だったが、それで2時間近くかかってしまった。まだ頭が働かず、リュックサックの中身として挙げたものには相当遺漏があったことにあとで気づいた。カシオの電子辞書、日本から出る直前に作ったスペアの眼鏡などなど。構内のバーガーキングで朝食をとり、それからともかくミュンヘンの街へ出ることにした。(も少し続く)

で、今回の話 その2

2005年12月23日 金曜日

乗り込んで、予約したはずの車両中央付近のコンパートメントに行くと、すでに明かりが消され、カーテンが引かれて、鍵がかけられている。即座にこの車両の車掌らしき男が飛んできて、別のコンパートメントを指示する(あとから考えるとちょっとヘン)。コンパートメントは一室6名なので、残り二人が先に入って閉じてしまったのだろう、車掌の指示した端から二番目、81番から86番までのベッドのコンパートメントは、ほかに乗客はおらず、6名のところ家族4人で占領することができた。そういうことならそれでよかろうと思って、そのままそこに入る。車掌は、鍵の掛け方を手短に説明すると、われわれの乗車券は残し、指定券だけ取り上げて(これもヘン)、そそくさと行ってしまった。

最下段に子供二人を寝かせ、中段に僕と家人が寝ることにする。空いた最上段に、スーツケースと、家人のリュックと、僕のリュックをぽんと置いた。奥の窓側に、上段に昇るはしごがあり、反対の通路の上にあたるところに、低い柵のついた荷物用のスペースがあった。上段の寝台ではなく、そこに荷物を置いていれば、これも少しは違ったかもしれないのだが…。

11時42分の発車時刻をとうに過ぎているのに、なかなか発車しない。国境のイェッセニツェでパスポートチェックが来ることは分かっていたので、僕はそれまで起きているつもりだった。スロヴェニアはEUに加盟したものの、シェンゲン条約にはまだ正式に加わっていないため、国境でのパスポートチェックがある。以前、国際夜行の寝台に乗ったときは、乗車時点で車掌にパスポートを預けた記憶があったから、先ほど車掌が来たときに、パスポートはいいのか、と言ったら、パス検査はイェッセニツェだとだけ言って行ってしまった(つまり過去の経験に照らせばこれもヘン)。そんなことは分かっている。それでは、起きているか起こされるかしかない。しばらく狭いはしご段に尻の先をのっけて座っていて、それから通路に出て外の風景を眺めていた。とは言っても、都市部をちょっと離れれば外は真っ暗で、ほとんど何も見えなかった。ときおり、架線とパンタグラフの間から発する閃光なのだろう、雪野原の風景がストロボスコープで照らしたみたいに浮かび上がるだけだった。隣のコンパートメントは明かりを点けたまま、カーテンだけ引いて扉もあけたまま、なにやら騒々しい音楽をかけていた。停車したりして列車の走行音が落ちると、その音が薄い壁越しに聞こえた。イェッセニツェには一時間ほどで着くはずだったが、そもそも発車が一時間近く遅れて12時半過ぎになっていたこともあり、睡魔には勝てず、クランの駅を過ぎたあたりで自分のベッドに潜り込み、すぐに寝入ってしまった。もちろん着衣のままで、財布はジーンズの右の尻ポケットに、携帯も前のポケットに入れていたが、ふだん左の尻ポケットに入れている鍵束はごつごつしてあまりに寝心地が悪いので、リュックに入れた。

案の定、イェッセニツェで叩き起こされる羽目になった。寝ぼけ眼をこすりながらベッドから降り、胸ポケットにまとめて入れてあった4人ぶんのパスポートを提示する。係官は二人組で、一人が小汚いノートパソコンを抱えて何やら打ち込んでいた。パスポートをぱらぱらめくり、コンパートメントの中をちょっと覗き込むと、行ってしまった。眠くて仕方なかった僕は、パスポートをスーツケースのポケットに押し込むと、すぐにまた眠りに落ちてしまった。このとき、閂はちゃんとさしたはずだったのだが…。(つづく)

で、今回の話 その1

2005年12月21日 水曜日

前々から、クリスマス前の、クリスマスの市のシーズンに、ドイツへ行って来ようとは思っていた。ドイツのクリスマスの市の華やぎは有名だ。しかし例年、この時期に日本から出かけることは難しい。いまはともかくヨーロッパにいるのだから、チャンスだというわけだ。最終目的地は古巣のボン。

でも正確にいつにするかは、いつもながら行き当たりばったりで、なかなか決まらなかった。交通手段も、往復ともフランクフルトまでは飛行機、そこからボンまで列車でもよかったはずだが、ちょっと迷った。リュブリャーナからミュンヘンに行く寝台がある! 十年以上前の何回かの、何の問題もなかった寝台車の記憶しかなかった僕は、すぐに今回の旅の選択肢に加えてしまった。ミュンヘンから高名なニュルンベルクのクリスマスの市を一度訪れるのもいいかもしれない。ボンですごしたのべ3回の冬、こじんまりとしたボンのクリスマスの市しか見ていなかった。

まず、宿がすんなりとは決まらない。ニュルンベルクは案の定どこもいっぱいの様子だった。ミュンヘンに泊まろうという気はなぜか起きなかった。ミュンヘンから乗り継いでいくのに手頃で、ニュルンベルクあたりに出るのも便利なアウグスブルクに当たりを付け、直接アウグスブルクの観光案内所に電話する。ここもけっこう塞がっているようだったが、電話に出た女性は、親切な感じで、調べてから返事すると言った。FAXかメールかと聞かれて、メールで知らせてくれるよう依頼する。メールは1、2時間のうちに来た。挙げられている選択肢三つほどの中から一つを選んで、予約してくれるよう返事を出す。

交通手段のほうは、結局、金曜深夜の寝台の切符を取ったのは出発前日の木曜。出発が金曜遅くになったのは、金曜日の午後にリュブリャーナ大学で例のB先生の代役の授業が入っているからだ。もっとも、夕方にリュブリャーナ駅を出て、夜の10時頃にミュンヘンに着く列車もあったのだが、「寝台車」というものを子供たちにも経験させてやりたいという余計な考えも働いて、そちらを選ぶ。当日、ほとんど真夜中の出発時刻まで、小さな子供たちはなんとか目を覚まさせておいて、リュブリャーナの中央駅に向かう。

駅に着いたのは、予定発車時刻にかなり近い時間になってしまった。寝台車は二両か三両で、その最後尾の車両。クロアチアの古ぼけた車両で、一瞬いやな感じがしたが、ともかく席を予約したのはこの車両なのだ。一番後ろの乗降口にはひとかたまりのチンピラっぽい連中が陣取っていて、声高になにかしゃべりあっている。それで、前の車両に近いほうの乗降口から乗り込む。乗り込もうとした時、すぐ隣の、前の車両の乗降口に張り付いていた係員のおじさんが、寝台か、ならこっちだ、と声をかけてきた。切符を取った車両は間違いなくこっちの最後尾の車両、280号車なのに、妙なことを言う、と思って無視した。ここで彼の言うことを聞いていたら、われわれの運命は違っていたのかもしれない。(つづく)

盗難の記憶

2005年12月20日 火曜日

今回の事件の話の前に、もう少し昔語り。

これまで、ヨーロッパでいっさいトラブルがなかったかと言えば、多くはないが、ないわけではない。いずれも友人の運転する車ででかけたときの話だ。最初はやはり初めてのボン留学のとき。ボン大学に行くにあたって行かされたゲッティンゲンのゲーテ・インスティテュート(ドイツ語学校)で仲良くなった同年輩で名古屋出身の通称「ごっちゃま」は、ベルリン大学に籍を置いていて、中古で買ったベンツを乗り回していた。ベルリンから走ってきた彼の車でオランダのロッテルダムに向かった。二人ともヒエロニムス・ボッシュに関心があって、美術館を目指したのだ。美術館は閑静な住宅街にあり、車を路上に停めて、絵を見に行く。人通りの少ない日曜日の静かな町。
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にぎやかしに上に掲げたボッシュの絵は実はここでの話にはあまり関係ない。

絵を堪能して出てきたとき、助手席の窓ガラスが割られていた。カーステレオ狙いだったようだが、ベンツのロックは特殊で、窓ガラスを割ってもドアが上手く開けられず、犯人はあきらめて帰ったらしい。だから盗られたものは何もなかった。警察の場所を教えてもらい、二人で行って事情を話す。オランダ語はごっちゃまも僕も単純な挨拶ぐらいしか知らなかったはずだから、英語かドイツ語でしゃべったのだと思う。担当の警官は、単純な大学ノートのようなノートに一行ほどのメモを記入していく。ノートを覗き込んでみると、どの行も同じような事件がずらずら書いてあるのだった。

助手席の窓ガラスがないままで、風にびゅうびゅう吹かれながらアウトバーンを走ってドイツに戻り、僕はボンで降ろしてもらい、ごっちゃまはベルリンまで帰った。二人ともそれから風邪を引いた。割られたガラスを取り替えるのが比較的簡単で安価な作業であったことを知ったのはその後だった。

2回目。1996年だったか、日本人の友人の運転で、彼女とその母親と三人という奇妙な組み合わせで、南フランスをレンタカーで回った。列車でマルセイユに着いて駅前で車を借りた。僕は運転はダメなのでやはりひたすらナビゲーター。マルセイユを出て最初、街から離れた海岸にあるレストランを目指す。岩礁の浜で、海の中にいくつもの切り立った岩の小島がある。最寄りの集落からもだいぶ離れた、駐車場以外何もない浜に車を止める。そこから、徒歩でしか行けない細い岬の先に、目指すレストランはあった。助手席の足下にカメラを入れたナップザックを置いたまま、まず僕だけ降りて、様子を見に出かける。すぐ戻るつもりだったのだが、同乗者二人はやがて車をロックして降りてきてしまった。座席に荷物を置いておいてはいけないということは聞いていたから、一瞬躊躇したのだが、周りに何もないこんなところで、という気もして、そのまま三人で突端のレストランへ。何を食べたかも覚えていないのだが(海の幸には違いない)、とにかくとても満足したことは確かだ。

満足して車まで戻った時、車の助手席のロックが石で割られて(車種は忘れたが、ロック部のまわりはヤワなプラスチックだった)、僕のナップザックがなくなっていた。バイクでやってきて去っていったようだ。急いでマルセイユに戻り、レンタカーの店で車を換えてもらい(車の損害自体はレンタカー保険でカバーされていた)、店で教えてもらった警察に向かう。しばらく待たされて、部屋に入り、いかにも南仏という雰囲気の黒い縮毛で浅黒く小柄な警官の質問に、知る限りのフランス語を駆使して答える。どんなバッグか? 紫(ラヴァンド)のナップザックだ。ラヴァンドか、そりゃいい色だ! で、中に入っていたのは? ミノルタのカメラと交換レンズだ。ミノルタか!、有名だよ、そりゃいいカメラだ!…。あのなー、いいからお前、仕事しろよ、と言いたくなるのをぐっとこらえる。

カメラのないままエクス・アン・プロヴァンス(奥の、断崖の道を走った先にある高原のラヴェンダー畑も見に行ったが、季節外れで茶色いぼさぼさの株が並んでいるだけだった)、アルル、アヴィニョンなどを回り、母娘とリヨンで別れ、その後行ったドイツのミュンヘンで、それからもまだあちこち回る予定があったから、盗られたのとほとんど同じミノルタの一眼レフを買った。痛い出費だった。

寝台車の記憶

2005年12月19日 月曜日

ヨーロッパで以前寝台車を使ったのはずいぶん前のことだ。最初はたぶん1989年の春ではなかったかと思う。最初に西ドイツ(当時)のボンに留学していたときのことで、ボン中央駅ではなく、ライン川を渡った対岸のボン・ボイエル駅から乗って、ウィーン西駅まで行った。

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その旅のことはほとんど覚えていない。どんな車室だったかも、どんな同乗者がいたのかも。そのあと、ウィーン南駅から当時まだユーゴスラヴィアだったリュブリャーナに昼間の列車で移動して(このときのリュブリャーナ訪問に関しては以前に少し書いた)、リュブリャーナからダルマチア(いまのクロアチア)の海岸に出るのにまた寝台を使ったはずだが、これもほとんど記憶にない。唯一、覚えているのは、朝起きて眺めていた車窓から、豊かな緑の山間にひどいゴミの山があったことだけだ。調べれば分かるはずだけれど、到着駅の名前すら覚えていなくて、そこからバスで海岸沿いを延々と走ってドゥブロヴニク(そのドゥブロヴニクの話も以前に書いた)に行ったことしか記憶にない。

次はやはり最初のボン滞在の終わりの頃、1990年の夏。フランスのロワール地方のアンボワーズのフランス語学校に行って、3週ぐらいホームステイをしたあと、いったんパリに出て、そこからマドリッドに行くタルゴと呼ばれる寝台に乗った。この時のコンパートメントのメンバーは何となく覚えている。肌の浅黒いアフリカ系フランス人の30歳ぐらいの男と、いかにもアメリカ中西部出身という感じの、しかし人の良さそうな50ぐらいの少し腹の出たおっさんと、ブラジル人の、それにしてはやけに小柄で細い20代という感じの男。キャビンの明かりを消す前、同室同士でおしゃべりをしていた。アメリカ人もブラジル人も大人しくて、フランス国籍の男が妙に饒舌だった。僕の偏見もあったのかもしれないけれど、ああ、このヒトは自分のアイデンティティを確かめるのに苦労しているんだなという印象を持ったのを覚えている。3人はお互いにほとんど意思の疎通ができず、僕がいいかげんな英語といいかげんなフランス語と片言のスペイン語(ブラジル人の母語はもちろんポルトガル語だが、だいたい理解してくれた)で通訳みたいなことをやったのだが、すぐに脳みそがぐちゃぐちゃになって疲れ果てて寝てしまった。フランスとスペインではレールの幅が違い、国境駅で台車の切り替えが行われると聞いていた。真夜中の国境駅で目を覚まして通路に出て、窓から外を眺めていたのだが、ほとんど真っ暗で、結局どういう作業をしているのかは分からなかった。

それ以来、寝台列車を使ったことはなかった。このどちらも、身の危険を感じたことはなかったし、これといったトラブルもなかった。まあ、どうせ盗られるものなど何もない貧乏学生だったわけでもあるが。

先週末、家族でリュブリャーナからドイツに行くのに、約15年ぶりに寝台を使った。そう、お察しの通り、それでトラブルに遭ってしまったのだった。(たぶん続く)