‘リュブリャーナ日記 拾遺’ カテゴリーのアーカイブ

スロヴェニアに行かれるYさんへの手紙(つづき)

2006年4月5日 水曜日

前の「日本のことも知らないのに〜」という紋切り型のバリエーションに「外国のことを理解するにはまず日本のことを知らなければならない」というのがあります。こいつも、つい口にしてしまう人が実に多いですね。もちろんこのセリフも、先のものと同断で、「日本のことを知る」ことを促すよりは、「外国」に近づくことを禁ずる機能を果たしている場合が大部分です。考えてみれば、なんとも不思議な断定です。なぜ「まず」なのでしょう。

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リュブリャーナの青空市場にて

そもそも、これは逆だと、僕は思っています。「日本をつかまえるためには他所のことを知らなければならない」ではないのか、と。比較の対象がなければ、なぜあることが日本固有のものだと判断できるのでしょう。(もちろん、母語すらおぼつかない、言語能力のない人が、別の言語を学ぶのは大変なことだろうというようなことは言えますが、それほどのレベルの話は今は措きます。また、こうした「できていないことを〈禁ずる〉」言葉は、できていないことがその気になればできるかのような幻想を維持する働きもあるという点で、精神分析「的」には、インセストタブーの論理とパラレルなのですが、そんな話に立ち入るのもやめておきましょう。)「日本をつかまえるためには他所のことを知らなければならない」。だから僕は学生たちにはよく「とっとと〈あっち〉へ行っちゃいな」と言っています。

「異文化理解」という語句もよく話題にされますが、僕はこの言葉にも違和を抱いています。とりわけ、大学のいわゆる第二外国語になっているような言語の学習を促す文句として使われる場合に、ある種の広告コピーとしての役割を果たしていること(その機能ぶりが問題なのですが)は認めつつも、首をかしげます。先に書いた通り、国境以外にもさまざまな境界線や断絶線が縦横に交差しあいながら走っているわけで、たとえば日本国内でわれわれのすぐ隣にいる人のことが「理解」できているかということもかなり疑わしい。(日本人同士なんだから分かりあえるはずだ、なんてジョーダンじゃありません。僕が理解できない「日本人」は五万といます。それは単に僕の理解する能力の不足だけの問題ではないはずです。)そんななかで、国境だけを特権化するのはへんです。そして理解ということが未知のものを既知のものに還元していく、あるいは結びつけていくことだとすれば、「異文化」と「理解」というのは相いれないはずです。極端な言い方に聞こえるかもしれませんが、「理解」ということがありうるとすれば、「理解」した瞬間、それはあなたにとって「異」文化ではなくなっているはずです。そしてまたその瞬間、あなた自身こそが変化しているはずなのです。だとすると、「異文化理解」というのは、スケベなお触りをちょっとやって、「理解」の手前で引き返してくることの別称なのではないか。

喧伝される「異文化理解」に対しては、僕は「同じ人間の生活」がまず注視されるべきだろうと考えています。そしてその中の微妙な差異が。

「異文化」の決定的な差異、愉しむべき差異は、茶道や歌舞伎や相撲などの、突出した部分にはありません。これらは言ってみれば容易にパッケージ化でき、単体で「売る/楽しむ」ことができるものばかりです。(また、「外」のことを知らなくても、一番容易に、どうやら「日本に独特の」ものらしい、と思える部分です。)しかし決定的な差異は、日常の微細な部分にあります。もし「異文化を愉しむ」という言い方がゆるされるとするなら、愉しむべきは、そうした微細な部分にこそあるのです。異国での生活に浸り、そうした差異を感知していくこと。風土、気候や歴史と、そうしたわずかな差異が、絡み合って存在している様子に敏感になること。(も少し続く)

スロヴェニアに行かれるYさんへの手紙

2006年4月4日 火曜日

Yさん、少し言葉が足りなかったような気もするので、補足しておきたいと思います。

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Škofja Loka にて

Yさんご夫妻は「海外」での生活はほとんど初めてですよね? そのときに、あまり「日本」を背負う必要はないのではないか、と。

でもまず少し別の「問題」からお話ししましょう。
たとえば、多くの人がつい口にする言葉に、「日本のことも知らないのに〜なんて」というものがあります。でもそれはおかしい。

まず、なぜそこで国境が特権化されてしまうのか。世の中にはさまざまな境界線や断絶があります。世代の境界、女と男の境界、関西と関東の違い…。関西と関東は日本国内の話になってしまいますが、多くの境界線が、国境を、あるいはお互いを横断する形で縦横に走っているわけです。自慢ではありませんが、僕自身、日本のことで知らないことなんていくらでもあります。そしてそれは当然のことだと考えています。知らなくていいということではありません。必要や機会に応じて学んでいけばいい。ともかく、そうしたさまざまな境界線の中で、国境だけを特権化する理由はありません。(また、そういうさまざまな境界線や断絶の線が交差しながら走っているということは、あなたの隣にいる人物よりも、国境のあちら側にこそ、何らかの点ではあなたに近い人間がいるかもしれないということでもあります。)

なにより問題なのは、「日本のことも知らないのに〜」というフレーズが口にされるとき、それは「日本のことを知る」ことを促す機能は決して果たしていないということです。まず間違いなく、「日本以外のことを知る」ことを〈禁ずる〉ため、「日本以外のことを知る」ことから逃げるために口にされるのです。「英語もできないのにドイツ語/スロヴェニア語なんて」とか、この手のフレーズはすべて同じです。「Aもしらない/できないのにBなんて」という構造の文句は、ほとんどの場合、Aを学ぶことを促すのではなく、ただたんにBから逃げる、Bに近づくことをあらかじめ禁ずる働きしかしていないのです。

日本以外の人々から、日本について尋ねられて、何も知らないことに気付いた、というような紋切り型のストーリーもよく語られます。そういうことは確かにある。でもそこから上の「日本のことも知らないのに〜」という回路に入ってしまうとすれば短絡です。

尋ねてくる側のスタンスを見てみれば、この問いは、たんなる会話の種にすぎないことも多いことに気付きます。別に彼らは日本のことなどほんとはどうでもいいのであって、天気のことを話題にするのも限りがあるし、あなたが日本人だから日本について尋ねてやればいいだろうという実に安易なパターン、これは非常に多い。本当はたいして関心もないのにとりあえず尋ねてくるというのは、ある意味で非常に失礼ですよね。非常に限られた関心、言わば限られた「部位」(分かりますね?)に対する関心しか持たずに近づいていくことを、僕は「スケベ」と呼んでいます。

現地の語学学校などでも、授業のネタとして、生徒それぞれの国について語らせるということは多いですね。これもけっこうスケベです。答える側としてはもちろん、ある程度は話してやれるほうがいい。そして話してやれるためには、話すべきことについて知っていなければなりませんし、また、それを言葉にできなければならない。

でも、日本人だから日本のことについてよく知っているかというと、そんなことはない。いま現在の僕に、歌舞伎や茶道のことを尋ねられても困ってしまいます。「それは僕は知らない。それは僕にとってもエキゾチックなものなんだよ」なんて答えたりします。あるいは、「なんで僕が日本を代表しなければならないんだい?」とか。そしてそれでいいと思っています。安易な質問の安易な期待に対して、あるいはスケベな質問のスケベな期待に対して、応えるのを拒んだり、はぐらかしたりするのも、言葉できちんと拒んだりきちんと(?)はぐらかしたりできれば、(そしてできればさらに別の話を展開していってやれれば、)立派な「会話」、「コミュニケーション」です。(つづく…はず)

Muzejski vlak 「博物館列車」─スロヴェニアの蒸気機関車ツアー

2006年3月28日 火曜日

昨夏、TRAVELLING BY STEAM TRAIN ALONG THE BOHINJ RAILWAYのツアーに乗って、まだそのことを書いていなかった。蒸気機関車の牽く列車でボヒンを通ってソチャ川方面まで行くツアー。6月中旬から9月中旬にかけて8回ほど行われる。

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「博物館列車」(ツアー会社のサイトより)

これほどサービス精神旺盛なツアーもあまりないのではないかと思う。

私たちは昨夏、リュブリャーナの City Hotel 滞在中にこのツアーに乗った。リュブリャーナからは追加料金なしでバスによる送迎がある。朝8時、リュブリャーナの鉄道駅前、東寄りの警察署脇からバスに乗る。ただし、蒸気機関車の牽く列車には、始発駅イェセニツェではなく、次の Bled-Jezero 駅から乗ることになる。

このBled-Jezero 駅からの発車直前、まず寸劇が一つ行われる。この路線が20世紀初頭に開かれた時の開通式を再演したもののようだが、馬に乗った将校(フランツ・フェルディナントか?)がやってきて、儀式が行われる。当時の衣装を身にまとった「駅員」がうろうろしている。

車内には、白いシャツに蝶ネクタイ、サスペンダーに半ズボンといういかにも往時の衣装のアコーディオン弾きの少年がいて、客車から客車へと歩きながら、演奏を聴かせる。これがまた実にうまい。

この路線は、ブレットを過ぎると、ボヒンスカ・サヴァ川を何度か渡り返しながら、谷の奥に向かい、ボヒンスカ・ビストリツァに到る。この路線は以前にも何度か普通のディーゼルカーで利用したことがあるのだが、汽車の旅はまた新鮮だ。

幼い頃、横須賀線を蒸気機関車が走っている光景を目にした記憶はあるのだが、乗った記憶はない。旅客列車はたぶんすでに「電化」されていたのだろう。だから、蒸気機関車の牽く列車では、煤煙を避けるためにトンネルでは窓を閉じるものだという知識はあったが、トンネルの中で、火の粉が、まるでレーザー光によるモダンなゲージツのように赤い線を描いて窓外を飛んでいくことを、今回初めて目にし、知った。

この鉄路が造られたのは1900年から1906年にかけてのこと。当時のオーストリア=ハンガリー帝国が海へ、トリエステの港へ出るための重要な交通路として開かれた。中でもボヒンスカ・ビストリツァから南ボヒン山脈を抜ける長さ6,327mのボヒン・トンネルは、大工事だった。工事は1900年9月から1905年5月までおよんだ。工事が三年目に入ったころ、ようやく電動ドリルが投入される。このため、ボヒンには小さな水力発電書が建設され、さらに南側からも工事を進めるために、6000ボルトの送電線が山を越えて敷設されたという。1906年7月19日の開通式には皇太子フランツ・フェルディナントが列席した。(現在も、車でこの山脈を越えたりくぐったりする道はない。そのかわり、ボヒンからトンネルを抜ける鉄道で車を運ぶサービスがある。)

トンネルを抜けるとバチャ Bača 川の谷で、汽車はさらにしばらく走って、バチャ川がイドリィツァ川に合流すると間もなく終着駅モスト・ナ・ソチ。到着すると、旅行会社の人間(たぶん)が、民族衣装を着て、小さく切った白パンをたくさん入れたかごと、火酒やワインやジュースを載せたトレーを持って、出迎える。パンには塩を付けて食べる。スロヴェニアの古い風習なのだそうだ。

そこからバスに乗って、ソチャ川をさかのぼり、コバリートに向かうはずが、走りはじめたバスはすぐに停まってツアー客を降ろした。何かの都合で、ツアー最後に予定されていたソチャ川の遊覧船に、まず乗ることになったらしい。ルツィア号 Lucija という名の川船。下流のダムまで行って戻ってくる一時間の遊覧。乗り場のあたりではソチャ川が湖状に広がっている。「ソチャ川の橋=モスト・ナ・ソチ」をくぐるとすぐに左からイドリィツァ川が合流する。二つの川の水の色がまったく違うのが面白い。船長は、船の中央、乗客と同じ高さでクラシックな舵をとりながら、周囲の伝説?をスロヴェニア語英語ドイツ語で面白おかしく語る。舵を動かさなくても済むようなあたりでは、乗客の中の子供たちを一人一人舵の前に立たせ、自分の帽子をかぶらせるサービスをする。親たちは喜んでパチパチ写真を撮る。

モスト・ナ・ソチに戻り、バスでソチャ谷の奥、アルプスの山懐のコバリートへ。そこで昼食。1994年に路線バスを乗り継いでやってきたときに泊まったのと同じホテルの食堂だった。ずいぶん小綺麗になったような気がする。近くの席にはヴェジタリアンのイギリス人老夫婦がいた。食事に引き続き、旅行社のスタッフがちょっとしたショーをやる。スロヴェニア版二人羽織。ここでもサービス精神旺盛だ。

それからしばらくは自由時間。いちおう選択肢は二つあって、第一次大戦の記録や遺品を展示する戦争博物館を見に行くか、ガイド付きで街や周辺を歩く(このあたりは、第一次大戦当時、イタリアとオーストリアの間の前線、激戦地で、大規模な山岳戦もあった)。こどもたちにはその間、マンガのビデオを見せておける…。とパンフにはあるのだが、この日、昼頃には雨になり、歩き回るには都合が悪くなっていた。仕方なく、以前にも入った戦争博物館を見にいく。内容は少しずつ充実してきているようだ。

バスでモスト・ナ・ソチに戻り、再び汽車に乗る。もう帰るだけ、と思ったら、ここでも旅行社は出し物を用意していた。「第一次大戦当時のオーストリアとイタリアの兵士」が駅舎の脇からバラバラと現れて、撃ち合いをコミカルに演ずる。

それから再び汽車の旅を楽しんで Bled-Jezero で降り、送迎バスでリュブリャーナへ。

料金は6歳から15歳まで30ユーロ、15歳以上60ユーロ。ちょっと高いのは、蒸気機関車を動かすには大変な準備とコストがかかるからだ、と言い訳のようにパンフには書かれているが、いろいろ考え合わせると、決して乗ってソンはないツアーだと思う。往復の汽車旅だけという選択肢もあって、それだと子供17ユーロ、大人30ユーロ。

リュブリャーナで果たせなかったこと

2006年3月23日 木曜日

半年は短い。こんなタイトルにしたら、書くべきリストは無限大だ。スロヴェニア国内の旅に限っても、行っていないところだらけだ。カルストも今回は歩けていない。スロヴェニアの最高峰トリグラウ(トリグラフじゃないってば)は実はかつて東肩の小トリグラウ Mali Triglav までしか登っていないので、その主峰をきわめたいところだったが、それもコブ付きで夏が天候不順だった今回は到底無理だった。

ジジェクは今のアルゼンチン人の奥さんとの間に子供ができて、ほとんどあっちに行っていると聞いた。だからリュブリャーナでお目にかかれるとは思っていなかったが、いい機会だからここで少しじっくりラカンでも読みたいと思って、Folio 版のエクリと英訳を持参した。それも全然ダメ。せめてズパンチッチ(ジュパンチッチじゃないってば)にでも会っておくのだったかな。

スロヴェニア語の習得が思うように進まなかったことは言わずもがな。

楽器を持ってきたことは以前にどこかで書いた。ヴァイオリン。ボンに行った時は、二回とも、以前にここでいろいろ書いたように、大学オケや市民オケで弾いていた(いや、二回目のことはまだ書いていなかったかな)。リュブリャーナの大学オケでやれるかなと期待していたら、そういうものはないのだった。ボン大学は、音楽学部(理論の)はあるが、音楽大学はない。だから大学の collegium musicum のオケは、オーディションに通りさえすれば全学の学生が参加可能だったのだが、リュブリャーナには器楽演奏科があって、そのためかえってそういう専門の学生たちのためのオーケストラしかないらしい。B先生には、あなたならそのオケにも入れてもらえるかも、とお世辞を言われたが、まさかね。そこまで図々しくはない(なるべきだったか)。B先生からはそのうえさらに、大学外のアマオケ事情に詳しそうな方の連絡先も伺っていたのだが、ばたばたしているうちに連絡を取りそこなってしまった。

そういうわけだから、今夏からの ikkoro さんのご活躍には余計期待がかかる。頑張ってください。

コブ付きの制約は大きい。ワイナリー巡りもままならず。しかし、前にも書いたことだけれど、一人で滞在した場合と、二人で滞在した場合と、子連れで滞在した場合に、それぞれ見えてくる社会の相は異なる。子連れでこそ見えた面も多々あることは言うまでもない。

もう一つの南スラヴ料理店

2006年3月22日 水曜日

リュブリャーナを離れる直前、やはりFさんに連れて行っていただいたのがGostilna Pod Rožnikom。「ロージュニク山麓亭」とでも訳すか。(こちらのページからは英語ドイツ語のページにも行ける。)しかし古くからあるこのレストラン、リュブリャーナでは「チャド」 Čad の名でのほうが通りがいいようだ。

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Gostilna Pod Rožnikom (“Čad”)

リュブリャーナの街の西側、ティヴォリ公園の背後の緑豊かなロージュニク山の裏手の山懐の、かなり大きな店。大きいけれども、居心地はとてもいい。
セルビア系のようで、ここでも〜チッチを安心して注文できる。

こういうレポートを書くには失格なのだけれど、レフォシュクを飲みながら気持ちよく食事して、何を食べたんだか料理の名をあまり覚えていない。焼いた赤ピーマン pečena paprika がおいしかった。

今回はまだ雪の残る中、タクシーで行ったのだが、気候のいい折にロージュニクの山道を軽く歩いて出かけるのもよさそうだ。実際、そういうふうにここを訪れるスロヴェニア人は多いことだろう。この地図の、ティヴォリからの徒歩コースや、小さな教会のあるロージュニク山頂を越えてくる「森の道」(例のダニには注意!)。それに、そういう季節には出るという戸外の席が気持ち良さそうだ。

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店内。奥には暖炉がある。


Gostilna Pod Rožnikom
cesta na Rožnik 14
1000 Ljubljana
Tel.: (01) 25 13 446
毎晩23時まで営業。無休。

スロヴェニアからいかにしてワインを日本に送るか

2006年3月18日 土曜日

スロヴェニアに行ったら、安くておいしいワインを日本にも送りたい。それにはどうすればいいか。

知人の日本人の関係者で、大きなスーツケースにワイン24本を放り込み、そのまま空港のチェックインで預け、日本の税関も素知らぬ顔で通り抜け、かつボトルはすべて無傷だった、という強者のおばさまの話も聞いたが、こちらはそこまで剛胆ではない。

日本にスロヴェニアワインがなかなか入らないのは、国の知名度の問題が明らかに大きい(品質から言って、なぜ南米や南アフリカのものが輸入されてスロヴェニアから入ってこないのかは理解しがたい)が、手軽な運送方法がないこともあるのかもしれない。

リュブリャーナの鉄道駅の北側、Vinoteka で注文したワインは、長らく配送方法がペンディングになっていた。店がふだん使っている DHL だととんでもない値段になった。ワインそのものの4倍ぐらいかかる。店員のアンドレイに、もっといい方法をこちらでも調べておくが、そちらでも訊いてみてくれと言われて一週間そのままになっていた。

日本の運送業者は、大使館が開設された今もまだスロヴェニアには入っていない。つまるところ、郵便小包しかないのだ。引っ越し荷物もすべて郵便局から送った。

で、特にいい方法が見つかるでもなく、出発の前々日、結局Vinoteka 近くの郵便局から小包で送ることになった。20キロで15000トラル程度。最初、アンドレイは郵便局から一梱包の限度は30キロだと聞いていて、それだと少しはみ出るから、24本のうち5、6本自分で持ち帰れと言われた。再度店に行ったときに、一緒に梱包した。ボトルの首にウレタンの輪をはめ、箱に入れて詰め物をして、その箱をさらに緩衝材(と言っても段ボールの切れ端や鉋屑のようなものだが)を詰めた箱に入れる。で、ウィーン通り Dunajska cesta の大通りを横切って向いの郵便局に二人で行くと、いや、日本へは20キロまでだと言われる。やれやれ。店に戻って梱包し直し。24本でちょうど二箱、3万トラルちょっとになった。さて、日本まで無事に届くだろうか。

Vinoteka で頼んだ以外にも、結局8本ぐらいを担いで帰ってきた。半分ぐらいは預けたスーツケースの中、半分ぐらいは機内持ち込み。これはいずれも無傷。

Vinoteka のアンドレイはとても親切だったが、近々店を辞めると言っていた。残念。

追記:二梱包のワインは約二週間後、無事日本に着いた。