‘リュブリャーナ日記 拾遺’ カテゴリーのアーカイブ

スロヴェニアの小学校の人工岩壁

2009年10月18日 日曜日

近頃はボルダリングが流行りだしているらしい。wander-z さんのボルダリングジムの人工岩壁の画像を見て、そういうものがスロヴェニアの小学校にもあったことを思い出した。

日本の学校は、どうやら法で定められているわけでもないのに、どこもそれなりの広さの「校庭」を備えている。ヨーロッパの学校は、あの「プチ・ニコラ」を読んでも分かるとおり、街中のふつうの建物で、校庭と言えば狭い内庭しかないところが多い。

数年前、子供がスロヴェニアのリュブリャーナで半年ほど通っていた小学校は、城山の麓にあり、やはりごくごく狭く細長い裏庭のような「校庭」しかなかった。背後はすぐ石垣で、その上を、斜面を登る道路が通っていて、いく筋かの住宅があった。その端の校舎の壁に、ボルダリングジムのような登攀用の突起が付けられていたのだった。高さはせいぜい2メートル程度。シュタイナー系の私学だったが、この設備はシュタイナーよりもスロヴェニアであればこそだったのではないかと思う。

山口由美さん(『世にもマニアな世界旅行』)の表現で言えば「小さくて体育会系の国」、スロヴェニアは、ヨーロッパアルプスの東端に位置していて、登山が「国民的スポーツ」だということになっている。旧ユーゴの最高峰でもあったトリグラウは、標高はたかだか2864mとは言え、森林限界はかなり低く、非常にアルペン的で急峻な石灰岩質の岩嶺。森林限界も2500メートル辺りだと思う。富士山に登らずば日本人にあらずみたいなつまらない台詞と同様、トリグラウに登らずばスロヴェニア人にあらず、みたいな言い回しがあるようだ。ちなみにぼくとかみさんはかつてトリグラウの肩にあたる小トリグラウまで登った(そう言えばその話はまだ書いていなかった)が、知り合ったスロヴェニア人はほとんど登ったことがない奴ばかりだった。(と言う自分は富士山に登ったことがない。)

Nova Gorica ノヴァ・ゴリツァ

2008年7月6日 日曜日

drzavna_meja.jpgぼくがノヴァ・ゴリツァに行ったのはいつのことだろうと思って確かめたら、たぶん最初が1994年、最後はたぶん2000年のことであったようだ。この前(2005-06年)のスロヴェニア滞在のときは行く機会がなかった。

イタリアと「ユーゴ」、古くはオーストリアとの間の係争地。第一次大戦の激戦地で、ヘミングウェイが『武器よさらば』で描いたのはここのソチャ川上流の戦闘だ。上流のトルミンには戦争博物館があって、EUの支援を受けて、展示を充実させている。

ノヴァ・ゴリツァのイタリア側はイタリア名でゴリツィア。その街外れが、国境で分断されてユーゴスラヴィア、いまのスロヴェニアのノヴァ・ゴリツァになった。1948年(?)のパリ講和条約でのことだ。ノヴァ・ゴリツァの鉄道駅前の風景は、実に奇妙なものだった。駅前から、ゴリツィアの街の中心部に向かって、目抜き通りが伸びている。が、駅のほんの鼻先で金網で仕切られ、その通りは国境の向こう側だったのだ。東京駅を降りたはいいが、丸ビルは金網の向こうという感じ、と言ったら、ちょっとずれるが、まあ、そんなものだ。

駅の側、つまりスロヴェニア側には、店もほとんどない。ことさらにどっしりとした石造りの駅舎は薄汚れて暗く、寂れた印象を与えた。ホームはこのあたりでは普通の、低いもので、ホームからホームへは、地下道も跨線橋もあるではなく、線路の間に渡された板を踏んで移動した。そのホームの数もさほど多くなく(そもそも列車の本数がきわめて少なかった)、その先に貨物用らしいレールがずっとむこうまで、何本も走っていた。

国境で分断され、本来の街外れに改めて造られた新しい(ノヴァ)ゴリツァ。ワインの名醸地ブルダ方面の岩山を遠く北にに望む街は、いくつかのホテル(カジノもあって、イタリアからの客を引きつけていた)と、学校のような施設、最低限の商業施設があるばかりという感じで、だだっぴろく荒涼とした空き地が目立った。日本人選手がここのサッカーチームにいたこともあったはずだ。

それでも、交通の結節点で、大きなバラック風のバス駅は、ソチャ川上流の山岳リゾート地やカルストやリュブリャーナやイタリアやイストラ半島や、さまざまな土地との間を結ぶ大型バスが、本数はどれも多くないものの、発着していた。ボヒンやリュブリャーナから来ると、じゅうぶん南国の匂いがした。耳にするスロヴェニア語も、奇妙にイタリア語的なイントネーションが、海岸部よりも際立っていた印象がある。

駅の周辺を歩き回ると、どの家にも、家庭菜園があって、プラムの木が、紫色に輝く実をたわわにつけていた。このあたりからヴィパーヴァ谷にかけては、気候に恵まれ、果樹栽培のさかんなところで、そんな風景自体が、途方もない豊かさを表しているように見えた。ある夏、ぼくらがノヴァ・ゴリツァにいたとき、突然雹が降り出した。1、2センチの氷の塊は、花壇のバラの花びらをたたき落としていた。そのあと、バスでヴィパーヴァ方面に向かうと、道筋のあちこちで、雹に落とされた桃や何や(正確なところは忘れた)を安売りしている農家の人々がいた。

ノヴァ・ゴリツァでは、当時も、パスポートを出しさえすれば、簡単な検問をへて、イタリア側に行くことは難しくもなんともなかったはずだが、臆病なぼくらは、それもあえてやらなかった。ベルリンの壁などとはちがって、簡易な「国境」ではあった。ぼくらはその「国境」državna meja の金網から、指を差し入れて、指先だけ国境を越えたことで悦に入っていたりした。馬鹿である。(しかし、こういう「国境」の経験も、そもそも「国境」を持たない日本ではできない。上の写真は1994年8月、ノヴァ・ゴリツァの駅のすぐ近く。)

井上直子さんのすぐれた論文「国境を挟む協力──イタリア・スロヴェニア国境の町ゴリツィアの事例」(木畑洋一編『ヨーロッパ統合と国際関係』日本経済評論社、2005年所収)を読んで初めて認識したのだが、2004年以来、ゴリツィアとノヴァ・ゴリツァの間の金網は撤去されているらしい。国境地域融和モデルとして、付随してさまざまな「物語」が創造され、EUから金を引き出すのに役立っているようだが、当然ながらいろいろと齟齬も孕んでいるようだ。

H教授のリキュール

2006年9月17日 日曜日

H教授なんて書くと、身近な人たちは誤解しそうだけれど、そんなことについて僕がここに書く理由はない。H教授というのは、リュブリャーナ大学のスロヴェニア文学の先生だ。
昨年度後半、リュブリャーナにいたとき、B先生に紹介していただいたH先生を、リュブリャーナ滞在も終わり近くになって、研究室に訪ね、スロヴェニア文学の現況について、いろいろとお話を伺った。とても気さくな方で、もっと早くにコンタクトをとっていなかったことを後悔した。

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H教授のプラム酒

スロヴェニア人はながらく自分たちの国家を持たず、言語・文学こそが彼らのアイデンティティの拠り所になっていたとか、だからスロヴェニア人はとても文学的な民族なのだ、とかいったことはよく言われることなんだけれど、別にスロヴェニアでの文学の地位は、たとえばドイツなどの国以上のものではない、スロヴェニア人が文学的国民だというのは一種の神話だ、といった認識を披瀝してくださって、ああ、なるほどと思い、すごく健全だなとも思った。

のだが、それがここで書こうと思うポイントではない。面白かったのは、先生の研究室に入ってまず出していただいたのが、テランのリキュールだったことだ。

テランは、前のエントリでも書いているが、スロヴェニアのカルスト地方の地域固有種のワイン。研究室をお訪ねしたとき、H先生が真っ先に冷蔵庫から出してくださったのは、コーヒーでも紅茶でもなく、それから作ったリキュールだった。僕のこのブログのことをご存知で、日本語は分からないながら、スロヴェニアのワインのことをずいぶん書いていることは写真などから読み取っていただいていたらしく、そうでなかったらコーヒーが出てきたのかもしれない。

カルストのテランから作ったワインは、これも以前に書いたように、独特の色合いと強い酸味があり、やはりカルスト産の生ハムに、当然のようにぴったりと合う。それは時々飲んでいたのだけれど、たまに店で見かけるリキュールのほうは、手が出ない値段ではないけれどもちょっと値が張って、自分で買ってみる機会を逸した。そいつと、大学の先生の研究室で初対面。テランの味が凝縮された、酸味の中に甘さを感じさせる舌触りだった、ような気がする(こんなだからソムリエにはなれない)。

そいつを味わいながらいろいろとお話を伺い、しばしば文学の話からも逸れてさまざまな雑談に及んだ。でもここでとりあえずもう一つ書いておきたいのはあくまでもその話の中身ではなくて、帰りがけにH先生からいただいたお土産だ。それは、自家製のプラムの焼酎。上の画像がそれ。15ml くらいの小ビンにコルクの栓、そしてお手製のラベル。2003年に収穫したプラムから200リットルの果汁を搾り、そこから10リットルの酒を蒸留したといった説明が書いてあって、どこか戸外で焼酎を酌み交わす二人の男の古い写真が配してある。

以前にも書いたように、スロヴェニアでは庭のあるところならたいてい果樹が植えられていて、果物があればそこから自家製焼酎 domače žganje を造るのがさかん。日本の梅酒などのようにホワイトリカーに漬け込むのではない。ちゃんと蒸留するのだ。この酒もH先生のお宅で収穫したプラムを使って、でも酒にしたのは近所の人だそうだ。

あんまり簡単に一般化してはいけないけれど、大学の先生の研究室から自家製焼酎をお土産にいただいて帰るなんざ、ありうるとすればスロヴェニア、なのかもしれない。

日本まで大事に持ち帰ったのだが、しばらくするとすっかり空になっていた。家人も子どもたちも飲んでいないという。おかしいなあ。

H先生は、外国人向けの、スロヴェニア語旅行会話集のようなものも書いていらっしゃる。現在は絶版だが、その内容は Web 上で公開されている。対訳・解説は英語。あの本はけっこう使いましたよ、と言うと、これの音声素材を収録した CD を後日わざわざお送りいただいた。そのうち、日本の学習者用に編集して公開できたらいいなと思っている。

うるさい日本の私

2006年6月11日 日曜日

…というのは、もちろん、中島義道氏の、あとの諸作はどうでもいいぐらいすぐれた江湖デビュー作(いや、ウィーン本のほうが先か)のタイトル。川端康成のもじりですね。

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(出所)

三月半ばに日本に舞い戻ってきて、まずはあえて成田に降り、神奈川県の某小都市にしばらく滞在しておりました。商店街の街頭広告放送は健在でした。小さな商店が、それぞれに、シロート臭い田舎臭いコマーシャルを流していく街頭放送。なかなかせつないものがあります。

関西は阪神間の某市の公立中学。校舎には「心で野球を!」という意味不明の幕が掲げられております。毎日、3時ごろだったかな、誰もいない校庭に向かって、ということは近隣の住宅に向かって、毎日同じ、泰西名曲を切り刻んでメドレーにしたものを流しておりました。少し離れたところに引っ越して、幸いあれを耳にすることもなくなりましたが、いったいあれはどのような教育的配慮によるものだったのだろう? 付近住民はなぜなにも言わないんだろう? 学校の近くに落ち着くということはありえない。孟子のお母さんならもう1回引っ越ししなければなりません。孟母四遷。

その近くの某幼稚園。園児たちの下園時には、さして性能のよくない園庭のスピーカーからよく分からない音楽が大音量で流されます。付近住民はなぜ何も言わないんだろう? 赤ん坊が寝ている家だってあるだろうに。

さほど遠くない某大学。昼休み、真ん中の芝生周辺で、ラジオの語りを模した「放送」が大音響で流されます。学生のやる放送ごっこ。

子どもたちは「うるさい日本」で生きていかなければならないわけですから、これらは、もしかしたら、それに対する耐性を付けてやろうという配慮なのかもしれません。でもそれ自体が「うるさい日本」を再生産しているので、その元を断ち切ったほうがいい。

選挙の候補者の宣伝カー。「うるさい日本」の代表選手。ひたすら空虚な名前の連呼と「お願いします」の繰り返し。政策の中身は不明。「みなさまの暮らしを守る××です!」─おめーが騒音で暮らしを破壊してるってーの。たぶんあれは、公職選挙法が悪い。

日本の CD ショップ。たいして広くもない店の一角では J-Pop が、もう一角ではクラシックが流れ、入り交じって、ひどいことになっています。とうてい静かに「音楽」を選ぶ環境ではない。

某家電チェーン店。「聖者が街にやってきた」の替え歌をガンガン流してます(他の家電店も似たようなもの)。もうちょっと静かなら、ゆっくり色々選んで買ってしまうかもしれないのに、店内にいるのが苦痛で、どうしても必要なものがあるときだけ、そそくさと行って、そそくさと必要なものを買って、店外に脱出します。どうも沈黙や静かさというものに対する恐怖があるらしい。

話がそれましたが、とりあえず教育機関の話。リュブリャーナの幼稚園にも小学校にも、スピーカーはありませんでした。あったとしても使われていなかった。小学校では音楽は生徒たちが奏でるもの。幼稚園では、お昼寝の時間にちっぽけなCDラジカセみたいなので音楽を流したりしていましたが、それ以外のものはない。スピーカーは要らない。もちろん、大学も、構内に垂れ流す放送なんてない。その道に進む人に放送の勉強は必要? なら大学FM局でもぶったてるか、コスト的・手続き的に無理なら、そろそろ podcasting でもやったら? ラジオのいいところはさ、聴きたい人がチューンして音量も設定して聴くのであって、強制はされないってことだよ。

なんでそんなことを言うのかって? 「異文化理解」ですよ。異文化理解って言葉にもし意味があるとするなら、自文化を自明ならざるもの、異様なものとして眺める視線を獲得すること以外にない。

スロヴェニアに行かれるYさんへの手紙(つづきのつづき)

2006年4月27日 木曜日

間があいてしまいました。どうも、「忙しくて短く書いている暇が無い」の典型のような、整理のできていない、冗長な書き方になってしまっていてごめんなさい。

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3月上旬、雪の残るリュブリャーニツァ

茶道などに造詣の深い方が、それを海外で紹介されること自体を否定しているわけではないのです。言いたかったポイントは、われわれが「あっち」を捉まえる態度のこと。われわれが、あちらに住むのであればことさら、スロヴェニアの、日本で言えば歌舞伎や茶道にあたるようなものにばかり注目していてはならない、という当たり前のことです。

たとえば、前にこのブログでも触れたクレントだけでスロヴェニアを語るのは不可能でしょう。あれも「突出していてパッケージ化しやすい」部分ですけどね。

そうではなくて日常そのものを捉まえること。日常そのものに浸ること。

また、日本人だけの狭いガチガチのコミュニティーにはまりこんだりしないこと。まあ、そんなコロニーはリュブリャーナにはそもそもありませんし、子供をもつ日本人(親の片方か両方)が、子供たちをつれて、ときどきどこかに集まって一緒に遊ばせるというインフォーマルで実にゆるやかなグループはあって、それはそれでよかったなと思います。Yさんがお子さんをお持ちかどうか分かりませんが、子供に関して言えば、リュブリャーナに日本人学校はありませんが、「インターナショナル・スクール」はあります。しかしこの「インターナショナル」って、要するに「アメリカン」という意味ですよね。わざわざスロヴェニアで子供をそういうところに入れる意味があるかどうか。いや、意味はあるでしょうけれど、僕の感覚ではなにか「もったいない」。それだったらアメリカでもニュージーランドでも行けばいい。せっかくそこにスロヴェニアという世界が広がっているのに。

それはともかくとして、前に引っ越し絡みのことで書いたりしたように、もちろんいろいろ苦労はありますし、土地の習慣、ことに言葉に対して開かれた態度を保ち、少しでも身に付けようという努力(相手がとりわけ厄介な言語だけに楽ではありません)は必要だと思いますが、でもそれ以外に気負う必要はない。幸い、と言うか、オリンピック選手ではないのですから、「日本」を「代表」しちゃう必要もない。当たり前の、静かな生活、落ち着いたつきあいのなかで、周りを理解し、あなたを理解してもらえばいいのです。相手はそういうあなたの中にこそ、勝手に「日本」を見出してくれちゃったりするかもしれません(それはそれでよしとしましょう)。その延長上に、お茶みたいなことも教えてあげられれば、それはきっと素晴らしいことでしょう。

相変わらずなんだかごたごたした書き方になってしまいましたが、ともかく、そんなことで、
Lepo se imejte! (楽しんできてください!)

もう一度、ダニの話、のつづき

2006年4月23日 日曜日

文庫版になった清水義範の『はじめてわかる国語』を読んでいたら、唱歌「故郷」の「つつがない」という単語を説明して、「ツツガムシがいない」「ツツガムシ病がない」から来ているという説を引いていた。そう言えば、「ツツガムシ病」という病気のことも、「つつがない」がそこから来ているのかもしれないという語源説も、小学生ぐらいの時にどこかで読んだ気がするが、すっかり忘れていた。

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清水義範・西原理恵子『はじめてわかる国語』

清水はこう書いている。

つつが虫とは、クモ綱ダニ目ツツガムシ科に属するダニのことで、昔は刺されるとつつが虫病という病気になり、死者も出るほどであって恐れられていたのだ。

前のエントリを書いたときに、Der Standard のサイトから盗んできたヨーロッパのダニの写真をよくよく眺めて、ああ、8本足なんだ、昆虫ではなくてクモに近いんだなあと今ごろ気付いたところだったが、やはりダニはクモの下位分類になるようだ。そしてツツガムシというのはダニの仲間であるらしい。

で、ツツガムシ病。日本にいても、周りで話を聞いたことがないし、清水義範も「昔は」と書いているし、過去のものなのかと思ったら、現役なんですね。Mac で裏技を用いずに使える百科事典としてはほかに選択肢のない『スーパーニッポニカ 2003』(小学館)を見ると、ツツガムシ病を媒介するツツガムシは三種類ぐらいあって、それぞれ棲み分けてほぼ日本全国に分布しているらしいし、近年もツツガムシ病は出ているらしい。知らなかった。(やっぱり日本のことで知らないことはたくさんあるなあ。)そして刺されて「約1週間後に、刺された部位の皮膚が潰瘍になり、高熱を併発して全身に赤い発疹ができる」というツツガムシ病は、ライム病に似ているように思える。

ネット上では、たとえば横浜医師会のサイトに、ツツガムシに関する注意が書かれている。体長が0.2〜0.3ミリときわめて小さく、活動期が秋から春にかけてというあたりがヨーロッパのダニとは異なるようだ。あとは、媒介する病気も似ていれば、「刺された瞬間は、全く痛みを感じません。実は、それが一番困る点なのです」というあたりもよく似ている。

全く気にしてこなかったが、日本の野山でも、気をつけなければいけないのだったのだった。

もう一度、ダニの話

2006年4月19日 水曜日

昨年のエントリでヨーロッパのダニについて取り上げた。山野に生息していて、人が通ると知らない間に食いつき、血を吸って膨れ上がるダニ。何より、ライム病と脳炎という二種類の重病の病原菌を媒介することから警戒しなければならないという話。

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(出典)

そんな話を書いておきながら、その後、実は昨秋のスロヴェニアで、子供がダニに食われてしまった。これもエントリに書いた、スリウニツァ山に登ったときのことだ。二三日後、下の子供が、右耳の後ろのあたりが少しふくらんでいるみたいで、押すと痛いと言う。見ると、小豆粒ほどにふくらんだダニが食い込んでいた。それまで気付かないのだから、以前に書いた「噛まれるとひどく痛くかゆいらしい」というのは誤りだったことになる。訂正します。あれだけしっかり食い込んでいて最初気付かないというのは、ウチの子供がニブいのかもしれないが、それだけではないと思う。おそらく、このダニには、人間の痛覚を避けて食いつく能力が備わっているのだろう。

たぶん山からグラホヴォの集落に下りようとして道が分からなくなり、少し薮の中に入り込んで引き返した、そのときに付いたのだろう。そしてスリウニツァから日帰りで帰って、子供を風呂に入れはしたものの、頭を洗うのはサボってしまったのだった。

このダニが活動するのは暖かい季節のことで、すでに秋も深まりゆく十月に入っていたことからも油断した。昨年のそのころのスロヴェニアは、例年よりずっと暖かかったのだった。

もちろんすぐに医者に電話して連れていき、引きはがしてもらう。子供は特に痛がりもせず、落ち着いていた。

ダニに噛まれたからといって、必ず病気になるわけではない。千匹〜20万匹に1匹が病原菌を持っているのだという。ことにこの遅い季節に保菌しているダニは少ないはずだという話を聞いてちょっぴり安心し、それでも少しびくびくしながら二カ月を過ごした。病気の潜伏期間があるから、それぐらい様子を見なければならないのだ。その間、子供は普通に幼稚園に通い、普通に生活していた。そして結局何事もなく済んだ。感染はしていなかったようだ。「ロシアン・ルーレット」(後述の Der Standard 誌)だとはよく言ったものだ。

スロヴェニアの隣、オーストリアの Der Standard 誌が、最近、このダニと予防接種について取り上げているので、簡単に紹介する。上の画像も同じ頁から引いている。(これぞ元々の意味の weblog ですね。)

1970年代はじめのオーストリアでは、このダニによる発病が毎年700件報告されていたという。1976年に脳炎 (FMSE) の予防接種薬が開発されて、バクスター社が量産を始める。やがて啓蒙活動が行われるとともに薬の値段も引き下げられて、オーストリアは87パーセントの人が予防接種を受け、接種率で世界一になる。製薬会社が不安を煽っており、予防接種による副作用もあるとする批判もあった。しかし現在では製法も改良されて、副作用の心配はほとんどないという。1979年にFSMEにかかったオーストリア人は667人いたが、予防接種キャンペーンののちの1999年には41例にとどまった。(ライム病には予防薬はなく、抗生物質で治療するしかない。)

しかしこの予防接種、一生に一回で効果が永続するという性質のものではなく、五年に一度は新たに受け直さなければならない。で、近ごろのオーストリアではこれをないがしろにする傾向が出てきて、結果、昨年の FSME発病は100例、うち三名死亡と、再び増加に転じた。

オーストリアでは、シュタイアーマルク、オーバーエステライヒ、チロルといった州が特に多くダニの生息する危険地域とされているが、それ以外の地域でも油断できない。現在、7月31日までの「防ダニ予防接種キャンペーン」中で、予防接種薬は特別価格 22.50 ユーロ!だとか。

現在、オーストリアでは、薬は二種類出ている。バクスター社の “FSMEインムーン” と、ノヴァーティス社の “エンツェプーア”。後者はアルブミン(血漿蛋白)を含まない血清だというのが売り。人間のアルブミンは、これを介して BSE が感染する可能性が完全には排除できない。イギリスで発生した BSE のうち二例は輸血血液からの感染だ、だから血漿を使わずに製剤しているノヴァーティス社製品は安心です、という謳い文句らしい。で、オーストリアの予防医学政策に関わる役人は、どちらの薬もいいですよ、と言っているとか。

以上が記事の大筋。これに現時点で50近い読者コメントが付いていて、関心の高さを窺わせる。

純然たる山地でなくても気をつけたほうがいいのは確かだ。リュブリャーナでお世話になった友人Bは、数年前にやられて、1カ月だったか、意識不明だったというが、彼女がダニにくっつかれたのは、どうやらリュブリャーナのティヴォリ公園裏の山だったらしいという。

山野を歩くのが好きな人はやっぱりヨーロッパでは気をつけたほうがよさそうだ。よほど寒い季節以外、戸外のそういうところを歩いたら、とにかくその日のうちに頭からシャワーをかぶる。1年以上の滞在なら、行ってすぐに予防接種を受ける、といったあたりか。

追記:在ドイツの医師によるダニに関する記事が出ていた。

海外から Skype で電話する

2006年4月11日 火曜日

別に海外からでなくてもいいのだけれど、海外に住んでいて日本に電話するときなどは、料金の点から Skype などのいわゆる IP 電話が圧倒的に有利になる。リュブリャーナにいたあいだも、日本に電話することはそれほど多くなかったし、むしろ日本との電話連絡は避けていたのだが、たまに必要になったときは、Skype や Gizmo が役立った。
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Skype についてはすでに知られていると思うが、Skype 同士の通話なら全く料金がかからない。残念ながらまだ Skype を使っている知人は多くないので、リュブリャーナからは、もっぱら SkypeOut つまり Mac 上の Skype から通常の電話にかけるケースがほとんどだったが、それでもリュブリャーナと東京のような離れた地点同士で通話して、市内通話料金程度しかかからないのだから、こういう「国際電話」の場合はことにオイシい。

日本国内から Skype にかけてもらうのに使える SkypeIn サービスが始まったのは、帰国直前だったので、残念ながらあまり活用できなかった。SkypeIn が使える今は、日本の通常電話からも気軽にかけてもらうこともできるわけだ。(Gizmo はまだ日本国内の番号は取れない。リュブリャーナで1回だけ SkypeIn を使ったのは、帰国直前、例のリコンファームの件で、日本の旅行代理店 A 社の S さんに電話したときだ。SkypeOut で電話したら S さんは別の顧客と電話中。折り返し掛けてもらうのに、SkypeIn の番号を使った。)

リュブリャーナの住居では、主に居間に置いていた Mac mini で Skype を使っていた。iSight がマイク代わり。Skype では映像は扱えないから、iSight のカメラはこの場合無用の長物になってしまう。それで、ちょっと不格好だけれど、iSight をマイクのように手に持って、通話していた。スピーカーは Mac mini の内蔵のもので事足りていた。

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ELECOM BT-MH1

日本に帰ってきてすぐ、家電量販店で ELECOM Bluetooth対応ヘッドセット BT-MH1 を見かけて買った。大きく Skype のロゴの入った、まるで専用のようなパッケージ。もちろん、Mac 対応とはどこにも書いてない。でも、これはきっと使えるなと思って購入したら、実際Bluetooth内蔵 iBook (あの、スロヴェニアで買ったクロアチア語配列キーボードのやつ)で問題なく使えた。ヘッドセット側はマニュアルの「その他のブルートゥース対応機器とペアリングするには」の説明に従い、Mac 側ではシステム環境設定>Bluetooth パネルを開き、「新規デバイスを設定」ボタンを押してあとの指示に従うと、あっけなく使えるようになった。

付属のソフトは Mac では思いっきり無意味だから、ELECOM製品でもこういう問題とは無関係だし。

Bluetooth のおかげでコードレスだし、もちろん、iSight のマイクと Mac の内蔵スピーカーを使って通話するよりもずっと快適だ。石田豊さんがUSB接続のマイクについて書かれているけれど、「Skypeに関する入出力はヘッドセットを使うが、その他の音声出力、たとえば警告音はパソコンのスピーカーから出すという選択が可能になる」というメリットはこの Bluetooth 接続でも同じ。

ということで、海外へ行くなら電話は Skype がなかなか使えます。という話でした。
今度行くときはこのヘッドセットも持っていくことにしよう。

スロヴェニアで靴を買う

2006年4月10日 月曜日

ヨーロッパに出かけたときには、よく靴を買う。ファッションのことはあまり知らないし、ブランドもたいして気にしてこなかったし、手入れに気を使うわけでもないのだけれど、これまでドイツで自分用に買った靴はたいていイタリア製だったと思う。

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自分の靴よりも、サイズがどんどん大きくなる子供たちのための靴を(一人で行ったときは「お土産」に)買って帰ることが多い。ドイツだと、安心して買えるのは Elefanten とかイタリアの GEOX とかといったブランドの子供靴。日本で売られている靴は、特に子供靴がひどい。いろいろなキャラがついていたりするのは好き好きとしても、「歩く」ことは考えられていないへろへろべこべこなものがあまりに多い。もちろん小さな子供は究極マンだのムシ王だのごめんライダー鼾だのに魅かれる。でもそういうのが付いた靴とまともな靴を履き比べさせると、ちゃんとまともな靴のほうを選ぶから面白い。履き心地がまるで違うのだ。今回、子供たちの靴は、帰国直前に、ツァンカル通り Cankarjeva cesta のシュティーフェルケーニヒ Stiefelkönig (名前から分かるようにドイツ系)の店で GEOX のものを買った。

子供たちには GEOX の靴を買ったが、自分用にはスロヴェニア製の靴。ペコ Peko というメーカーだ。

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直営店だか特約店だかをスロヴェニアのどこの町にも置いていて、リュブリャーナでも何軒か、たとえばチョプ通りのプレシェレン広場寄りにも一軒。3年前ぐらいにマインツ(ドイツ)で買ってほとんど履きつぶした状態のイタリア靴を捨て、そこで1足買った。かなり薄い感じの革を使った靴なのだけれど、とても具合がいい。これまで、紐付きの革靴は、とくに日本製のものは、紐を結んだり解いたりしたためしがなかった。無理やり、あるいはせいぜい靴べらを使って足を押し込んで事足りていたし、脱ぐときは強く引っぱればよかった。でもこの Peko の靴は、いちいち紐を解いたり結んだりしているし、そうしないことにはどうにもならない。そしてそれが本来だよなと納得させられる。
靴底はつるつるの革のままになっていて、靴底張り専門の店へ客が自分で持っていって張ってもらうことになる。そういう店がたいてい合鍵屋をかねているのは日本と一緒。このときは、近くの例のアルカイックな「デパート」、Centromerkur の鍵屋に行って靴底を張ってもらった。

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Kamnik に残っていた「リュブリャーナ煙草」の看板

Peko の本拠地は、リュブリャーナ近郊のトゥルジン Tržin にあるらしい。こういうメーカーが元気なのは、べつに僕がスロヴェニア・ナショナリストになる必要はないけれど、なんだか嬉しい。独立後のスロヴェニアでは、ネイティブの会社がずいぶん消えた。たとえばリュブリャーナ煙草会社は、オランダかどこかの会社に買収されたあと、早々にうち捨てられて消滅した。今回、時間の止まったカムニクの街角で、その看板を眼にしてびっくりしたくらいだ。

今回はというか今回も、自分用にももう一足靴を買っている。山靴だ。スロヴェニアに行けばボヒン周辺などで山歩きをすることになる。日本から山靴を履き、軽い靴は荷物のほうに入れて飛行機に乗るというケースも多いけれど、これまでの何度かは、スロヴェニアに行ってから山靴を買った。それもたいていは首都リュブリャーナではなくて、山地のボヒンスカ・ビストリツァに行ってからだ。今回もそうだった。そこで買う山靴は、 Alpina 社のものが多い。スロヴェニアの登山靴メーカー。ここも最近は経営が苦しいようだけれども、モノに間違いはない。

スロヴェニアに行かれるYさんへの手紙(つづき)

2006年4月5日 水曜日

前の「日本のことも知らないのに〜」という紋切り型のバリエーションに「外国のことを理解するにはまず日本のことを知らなければならない」というのがあります。こいつも、つい口にしてしまう人が実に多いですね。もちろんこのセリフも、先のものと同断で、「日本のことを知る」ことを促すよりは、「外国」に近づくことを禁ずる機能を果たしている場合が大部分です。考えてみれば、なんとも不思議な断定です。なぜ「まず」なのでしょう。

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リュブリャーナの青空市場にて

そもそも、これは逆だと、僕は思っています。「日本をつかまえるためには他所のことを知らなければならない」ではないのか、と。比較の対象がなければ、なぜあることが日本固有のものだと判断できるのでしょう。(もちろん、母語すらおぼつかない、言語能力のない人が、別の言語を学ぶのは大変なことだろうというようなことは言えますが、それほどのレベルの話は今は措きます。また、こうした「できていないことを〈禁ずる〉」言葉は、できていないことがその気になればできるかのような幻想を維持する働きもあるという点で、精神分析「的」には、インセストタブーの論理とパラレルなのですが、そんな話に立ち入るのもやめておきましょう。)「日本をつかまえるためには他所のことを知らなければならない」。だから僕は学生たちにはよく「とっとと〈あっち〉へ行っちゃいな」と言っています。

「異文化理解」という語句もよく話題にされますが、僕はこの言葉にも違和を抱いています。とりわけ、大学のいわゆる第二外国語になっているような言語の学習を促す文句として使われる場合に、ある種の広告コピーとしての役割を果たしていること(その機能ぶりが問題なのですが)は認めつつも、首をかしげます。先に書いた通り、国境以外にもさまざまな境界線や断絶線が縦横に交差しあいながら走っているわけで、たとえば日本国内でわれわれのすぐ隣にいる人のことが「理解」できているかということもかなり疑わしい。(日本人同士なんだから分かりあえるはずだ、なんてジョーダンじゃありません。僕が理解できない「日本人」は五万といます。それは単に僕の理解する能力の不足だけの問題ではないはずです。)そんななかで、国境だけを特権化するのはへんです。そして理解ということが未知のものを既知のものに還元していく、あるいは結びつけていくことだとすれば、「異文化」と「理解」というのは相いれないはずです。極端な言い方に聞こえるかもしれませんが、「理解」ということがありうるとすれば、「理解」した瞬間、それはあなたにとって「異」文化ではなくなっているはずです。そしてまたその瞬間、あなた自身こそが変化しているはずなのです。だとすると、「異文化理解」というのは、スケベなお触りをちょっとやって、「理解」の手前で引き返してくることの別称なのではないか。

喧伝される「異文化理解」に対しては、僕は「同じ人間の生活」がまず注視されるべきだろうと考えています。そしてその中の微妙な差異が。

「異文化」の決定的な差異、愉しむべき差異は、茶道や歌舞伎や相撲などの、突出した部分にはありません。これらは言ってみれば容易にパッケージ化でき、単体で「売る/楽しむ」ことができるものばかりです。(また、「外」のことを知らなくても、一番容易に、どうやら「日本に独特の」ものらしい、と思える部分です。)しかし決定的な差異は、日常の微細な部分にあります。もし「異文化を愉しむ」という言い方がゆるされるとするなら、愉しむべきは、そうした微細な部分にこそあるのです。異国での生活に浸り、そうした差異を感知していくこと。風土、気候や歴史と、そうしたわずかな差異が、絡み合って存在している様子に敏感になること。(も少し続く)