音楽をするのであれば、肝心なことは、体幹から、体の中心から、体の中から音楽をするということだ、と言ってしまうこともできるだろう。(ただし、これはまったく正しいことではあるものの、大づかみすぎて誤解の余地も大きい言いかたでもある。)
たとえば、均等拍で演奏するということは、音楽の外側から、手袋をして音楽を触っているようなものだ。もっとも…「体の中」にすっかりメトロノームがしみ込んでしまっている奏者も、いまどき、もしかしたら珍しくないのかもしれない。しかし、その場合、旋律や「歌」が体の中から出てくることはないだろう。そういう奏者が音楽の名に値する音楽をすることは、たぶん、あり得ない。
ある曲を練習するということは、その最初の重要なフェイズとしては、その音楽を assimilate (同化吸収)して、体の中に取り込んでいくということだ。そうしていったん取り込んで(「自分のものにして」という古典的な言い回しも思い浮かぶ)、そこで改めて自分の中から express (外に出す)していくわけだ。「技術」的な問題ももちろん考えなければならないが、このとき、一つ一つの音符は、そのあるべきところに自ずとぴたりぴたり収まっていく。そうなっていないのであれば、まだじゅうぶんに「自分のもの」にできていないということだ。
もちろん、このような言い方もまた、不完全で、おおいなる誤解の余地を残している。このような言い方では、一種の容器や袋のような「自分」のイメージがあって、そこに「音楽」を出し入れするというメタファーが前提されている。それよりも、「音楽」が大元にあって、「自分」はたとえば風のようにそれに乗るだけだ、という言い方の方が適切な状況や相手もあることだろう。
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