きせつのごあいさつ

年賀状が苦手。クリスマスカードが苦手。

郵便局はもう年賀状の予約を受け付けているらしい。気の早い、商売熱心なことだ。郵便局の書き入れ時みたいな年賀状、ウチでも毎年頭をしぼって、ずっと出していた。子供の頃はゴム版や木版で何か絵柄を作って刷って出していた。結婚してからは、夫婦で出かけた旅先の風景写真を選んで、写真屋に注文していた。家族写真を使ったことはない。受け取る賀状の大半はそうだし、案外親戚や知り合いにはそのほうが分かりやすくていいのかもしれないが、自分たちの写っている写真を使おうという気にはどうしてもなれなかった。子供を持つようになってからは、干支にちなんだ絵などを子供に描かせて──一種の搾取である──それをスキャンしプリントして使ったりした。何の芸もなく決まり文句が印刷されただけの年賀状を出すことははばかられた。「インターネット」が普及しはじめた頃、年賀メールが流行り、叩かれ、すたれたが、あれをやろうとははなから思わなかった。いちおうオリジナルの写真は画像を使った年賀状でも、送るならば、一言何か手書きで書き添えて送りたいと思った。でも結局何の文句も思いつかなくて、そのまま発送したことも少なくない。

でもそろそろ限界だなあという気がする。

多くの職場がそうなのかもしれないが、僕の職場も11月から12月にかけてが一番ばたばたしている。この時期、年賀状のことなんか考えてはいられない。ヨーロッパの知りあいには、クリスマスカードを送りたいところだが、やっぱり到底やっていられない。(こちらがクリスチャンでもないのに、という議論はここではおいておく。アメリカでは、一時「多文化主義」の締めつけがあって、Happy holidays という表現が好まれていたが、近ごろはまた「クリスマス」という単語を復活させる傾向が出てきているとか。宗教的心情がないとは言わないが、エスタブリッシュされた宗教に個人的にかかわることのないぼくにとってははどうでもいいことだが。)今年の正月というか去年の年末は、とうとう一通も年賀状を出さなかった。文字通りの欠礼で、年賀状をくださった方々、どうも失礼いたしました。

年賀状を郵便局の謀略と呼ぶのはおそらく行き過ぎにしても、かつて自明であったこの習俗が、もはや自明ではなくなりつつあることは確かだと思う。「お年賀」はもう少し古くからあったのだろうが、郵便の、ハガキの、「年賀状」が明治期以降の発明だったことは明らかだ。「お年始」に相手のお宅にうかがうのが「本来」で、年賀状はその、やや礼を欠いた代理、という言説は、少し古い世代にはよく見られる。いずれにせよ、年賀状が前島密よりも古いということはあり得ない。相撲やプロ野球同様、年賀状も(しぶとく細々と存続しつつも)衰退していくのではないか。

「年賀状のやりとりだけのつきあい」という言葉がある。過去に深いかかわりがあっても、今現在はつながりの薄くなっている人たちに対して、最低限のつながりを維持する機能も年賀状にはあることは明らかだ。いちおう生きてるぞー。なにかそういった繋がりや縁を確認する儀式が年に一度は必要だというのはもっともな考え方だと思う。で、いま考えているのは、バースデーカードを増やしてはどうかな、ということ。これだと365日に散っているわけで、それが面倒だ、一括して処理できた方がよいという人もいるかもしれないけれど、一気にあらゆる人に送って、かつそれぞれ相手に応じて書き込む文句を考えるというほうが、ぼくにとっては難しいし苦痛に感じられる。相手にとって特別な日に、その相手のことだけを考えてカードを送る(もちろんネットでだ)ほうが、いいことだし、楽だと、ぼくは思う。このアイディア、問題は相手の誕生日を知らなければならないという点だ。

少なくとも、年賀状とたかだか暑中見舞(とこれらと対応するお中元、お歳暮)に集約されてしまっている日本の状況はどうなのかなあと思う。ドイツのちょっとした店に行くと、誕生日に限らずありとあらゆる口実のグリーティングカードが売られていて、それを眺めているだけでも楽しめるのだが、とにかく、日本にくらべて、コミュニケーションの機会がよい意味で分散されている気がするのだ(もちろん彼らにとってクリスマスの圧倒的優位はゆるがないだろうが)。

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