ぼくがノヴァ・ゴリツァに行ったのはいつのことだろうと思って確かめたら、たぶん最初が1994年、最後はたぶん2000年のことであったようだ。この前(2005-06年)のスロヴェニア滞在のときは行く機会がなかった。
イタリアと「ユーゴ」、古くはオーストリアとの間の係争地。第一次大戦の激戦地で、ヘミングウェイが『武器よさらば』で描いたのはここのソチャ川上流の戦闘だ。上流のトルミンには戦争博物館があって、EUの支援を受けて、展示を充実させている。
ノヴァ・ゴリツァのイタリア側はイタリア名でゴリツィア。その街外れが、国境で分断されてユーゴスラヴィア、いまのスロヴェニアのノヴァ・ゴリツァになった。1948年(?)のパリ講和条約でのことだ。ノヴァ・ゴリツァの鉄道駅前の風景は、実に奇妙なものだった。駅前から、ゴリツィアの街の中心部に向かって、目抜き通りが伸びている。が、駅のほんの鼻先で金網で仕切られ、その通りは国境の向こう側だったのだ。東京駅を降りたはいいが、丸ビルは金網の向こうという感じ、と言ったら、ちょっとずれるが、まあ、そんなものだ。
駅の側、つまりスロヴェニア側には、店もほとんどない。ことさらにどっしりとした石造りの駅舎は薄汚れて暗く、寂れた印象を与えた。ホームはこのあたりでは普通の、低いもので、ホームからホームへは、地下道も跨線橋もあるではなく、線路の間に渡された板を踏んで移動した。そのホームの数もさほど多くなく(そもそも列車の本数がきわめて少なかった)、その先に貨物用らしいレールがずっとむこうまで、何本も走っていた。
国境で分断され、本来の街外れに改めて造られた新しい(ノヴァ)ゴリツァ。ワインの名醸地ブルダ方面の岩山を遠く北にに望む街は、いくつかのホテル(カジノもあって、イタリアからの客を引きつけていた)と、学校のような施設、最低限の商業施設があるばかりという感じで、だだっぴろく荒涼とした空き地が目立った。日本人選手がここのサッカーチームにいたこともあったはずだ。
それでも、交通の結節点で、大きなバラック風のバス駅は、ソチャ川上流の山岳リゾート地やカルストやリュブリャーナやイタリアやイストラ半島や、さまざまな土地との間を結ぶ大型バスが、本数はどれも多くないものの、発着していた。ボヒンやリュブリャーナから来ると、じゅうぶん南国の匂いがした。耳にするスロヴェニア語も、奇妙にイタリア語的なイントネーションが、海岸部よりも際立っていた印象がある。
駅の周辺を歩き回ると、どの家にも、家庭菜園があって、プラムの木が、紫色に輝く実をたわわにつけていた。このあたりからヴィパーヴァ谷にかけては、気候に恵まれ、果樹栽培のさかんなところで、そんな風景自体が、途方もない豊かさを表しているように見えた。ある夏、ぼくらがノヴァ・ゴリツァにいたとき、突然雹が降り出した。1、2センチの氷の塊は、花壇のバラの花びらをたたき落としていた。そのあと、バスでヴィパーヴァ方面に向かうと、道筋のあちこちで、雹に落とされた桃や何や(正確なところは忘れた)を安売りしている農家の人々がいた。
ノヴァ・ゴリツァでは、当時も、パスポートを出しさえすれば、簡単な検問をへて、イタリア側に行くことは難しくもなんともなかったはずだが、臆病なぼくらは、それもあえてやらなかった。ベルリンの壁などとはちがって、簡易な「国境」ではあった。ぼくらはその「国境」državna meja の金網から、指を差し入れて、指先だけ国境を越えたことで悦に入っていたりした。馬鹿である。(しかし、こういう「国境」の経験も、そもそも「国境」を持たない日本ではできない。上の写真は1994年8月、ノヴァ・ゴリツァの駅のすぐ近く。)
井上直子さんのすぐれた論文「国境を挟む協力──イタリア・スロヴェニア国境の町ゴリツィアの事例」(木畑洋一編『ヨーロッパ統合と国際関係』日本経済評論社、2005年所収)を読んで初めて認識したのだが、2004年以来、ゴリツィアとノヴァ・ゴリツァの間の金網は撤去されているらしい。国境地域融和モデルとして、付随してさまざまな「物語」が創造され、EUから金を引き出すのに役立っているようだが、当然ながらいろいろと齟齬も孕んでいるようだ。
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