ダルクローズが拍節に対する憎悪をぶちまけている文章が面白い。
「リトミック」の元祖ダルクローズの著作は、つい最近初めて読んだのだけれど、その中で拍子、拍節をリズムと対立させて攻撃している部分がとても興味深い。
『リズムと音楽と教育 新版』の第13章「リズム、拍子、気質」という、1919年に書かれた文章。
ここで、ダルクローズは、明らかに拍節をメトロノーム的な均等拍として理解している。もし拍節がほんとうにそのようなものであるなら、ダルクローズの憎悪はもっともだ。ダルクローズは拍節に関する通念にのっとって、それに対する反対意見を述べているのであって、その基盤になっている通念は(今日にいたるまでごくありふれた)誤解、すべての拍は均等だという誤解だと思う。つまり、ダルクローズが否定しているのは均等拍であって、本来の(とぼくが考える)拍子、拍節ではないのだ。
「知的産物である拍子は、機械的な仕方で生命の要素とその組み合わせの連続と秩序を司るのに対して、リズムは、生命の本質的な諸原理の総合性を確立する。拍子は反省から生まれ、リズムは直観から出現する。大事なことは、リズムを作り上げている持続的な動きを拍節的に規制することが、この動きの本質や特質を損なわないことである。(226f.)
「今日、音楽教育は[...]音楽の学習をリズムの方に向かわせる代わりに、拍子の方に向かわせている。拍子だけに意を用いることに心を奪われて、入念な訓練によって、動きへの衝動の開花に有利に計らうことを怠っている。同じことが、我が国の最も著名な専門学校[アカデミー]で、もっぱら身体的テクニックのセンスがきめ細かく指導されているダンスの教育においても行われている。この教育が目指すのは、拍子的精神の勝利であって、気質の発達のおかげで、自然な身体的リズムが開花することに力をかす代わりに、身振りや動きの勝手気ままな連なりに規制を加えることで事足りているのである。(227)
ここに、「拍子/リズム」と重ね合わされている「反省/直観」「意志/気質」「規制/自発性」といった二項対立の道具立てを見て取ることはたやすいし、20世紀初頭の「生の哲学」の流行にのっていることも明らかだと言っていい。
「驚くほどよく制御されている機械は、リズムではなく、拍子で制御されているのである。(228)
「拍子の意図的な訓練は、規則正しさを確立してくれる。──この規則正しさがどうしても必要な場合もある。しかし、このように終始機械的に秩序を追い求めることは、生の自発的な発現という性格を不自然に歪める危険をはらんでいる。拍子は人間のために創られたもので、人間にとっては道具となってくれるものなのだが、この道具は、往々にして、いつの間にか人間の主人になってしまい、彼の動きのディナミズムやアゴーギクに影響を及ぼし、その人間性を因習的な仕掛け[メカニズム]の奴隷にしてしまうのである。(228)
ここでは「機械/生」という対立が前面に出てきている。拍子を「機械」的なものと考えていることがよく分かる。つまり均等拍のことなのだ。
もし今ダルクローズ先生がここにいて、ねえ、ダルクローズさん、あなたが問題にしているのは均等拍であって、本当の拍子や拍節ではないですよ、と申し上げたら、簡単に同意してもらえるだろうという気がする。
しかし、今の「リトミック」はどんなふうになっているのだろう? 二三、国内で書かれた書物を見た限りでは、この点に関する反省や修正は出てきていないように思える。拍子に関しては、あくまでも均等拍が前提されているように見えるのだ。だとすると、おそらくそれはダルクローズ先生の本当の志とは異なっている。

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私が今、勉強しているだるいクローズメソッド(リトミック)は、〝拍〟と言う項目の中に〝不等拍」〟という項目があります。
たまたま、最近のレッスンの課題が、不等拍入り変拍子でした。
ダルクローズの時代の西洋音楽は、均等拍が主流だったから、「音楽は、それだけじゃないよ」と言いたかったのかもしれませんね。
最近は、不等拍の音楽も、メジャーになっているし、いろいろなジャンルの音楽が普及してきているので、ダルクローズさんも喜んでいるんじゃないでしょうか。
その不等拍というのはどのようなものですか? いきなり変拍子がでてくる辺りに、概念のズレを感じます。あと、もしもテキストのようなものをお使いでしたら、それもお教えいただけますでしょうか?
ダルクローズメソッドの不等拍の(私自身の解釈を交えての)定義は、所謂は8分の3+2+2とか、例えば、同じ8分の12でも、2+2+2+3+3とか、5+2+とか、ビート(拍)のまとまりが変わりますよね?つまり4分の4とか、2分の2、とか、8分の6とかの多くは、1小節内を等拍で捉えるのに対して、不等拍とは、1小節内で、拍の長さ(まとまり)が変わる物を指します。
ちなみに、私が勉強しているメソッドでは、ビート(拍)は、大きく二つに分けられます。
1つは、4分音符、8分音符、16分音符など、自然分割すると2になるバイナリー(2分割)ビート。
もう一つは、それらに付点がつく、自然分割すると、3になるターナリー(3分割)ビート。
これらのビートを基準として、等拍、不等拍を形成します。
補足させていただきますと、不等拍入り変拍子は、レッスンの中で、いきなり出てきたのではなく、ビート、拍子(単純拍子、複合拍子、)、変拍子(混合拍子)、クロスリズム(3:2、5:2、4:3など)、ヘミオラなどのレッスンを経てのことです。
テキストについては、全く使用していません。リトミックを勉強してきた先生方が、独自に用意されたプリントや板書等で補足される程度です。
なので、音楽の定義や捉え方も、先生によって微妙に異なることは、日常茶飯事ですし、それは、音楽を学ぶ上では、往々にしてあり得ることだと思っています。
私は、本職は、幼稚園教諭で、音楽学校に通った経歴もありません。
リトミックも、勉強をはじめて、まだ4年目と、知識も経験も浅いので、きちんと勉強されている方にとっては、稚拙すぎて、参考にすらならないでしょう。
以上が、私が現段階で、文字で説明できる精一杯です。
くわしいコメントありがとうございました。いえ、参考になります。しかし、だとすると、不等拍というのは、ここで問題にしていることとは差し当たりは無関係です。僕が考えていること、あるいはダルクローズの文章から読み取れる(と僕が考えていて、多分現在の「リトミック」には活かされていないだろうと考えている)ことは、拍のまとまりではなく、個々の拍そのものの長さが伸縮するということですので。ちなみに、拍子を偶数系と奇数系で分けて考えるのは、ヨーロッパでは非常に古くからある捉え方です。
拍子(単純)(複合)内の揺らぎ、不等拍の揺らぎ、変拍子の揺らぎ……いろいろあるんですね~。
規則的に刻まれた拍の中で、ふっとくる揺らぎは快感ですよね。(と感じるのは私だけでしょうか?)
単調だと飽きが来るのは、何も、音楽に限ったことではありませんし(笑)