円運動としての拍節

僕が拍節の考え方を教えていただいたのは20年以上も前、藤原義章さんからだった。拍(藤原氏の言う「自然リズム」)は微細に伸縮する。最終拍(いわゆるアウフタクト。4拍子なら4拍め)が一番延びる。次に第一拍。中間拍(4拍子なら2・3拍め)は短くなる。

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斎藤秀雄『指揮法教程』、6ページより

しかしその後藤原さんがお書きになった本(たとえば『美しい演奏の科学―生きたリズムの表現のために』春秋社など)は、あまり説明がうまくいっていないように思える。ヴィジュアルな面では、4分円を使っていろいろ精緻な図を描いていらっしゃるものの、どうもピンと来ない。

拍子というのは要するに何ものかが規則的に回帰することだ。その回帰が感じ取れることで、聴き手は音楽に「乗る」ことができる。
そして西洋古典音楽においては、何より、拍節単位(たとえば小節)の下位単位(小節に対しては拍)が微細な伸縮を繰り返すことこそが、この回帰を表現する。


おそらく、拍子のイメージは、回帰の運動そのものである円運動が一番よく表わすのではないか。それも、等速円運動ではなく、重力のかかる場(要するに地球上)での、垂直な円運動のイメージ。円を登っていった頂点が最終拍で、すとんと落ちた一番下の点が第1拍。すとんと落ちた点だから、第1拍はある種の重さがある。そこから上昇していくので、重力の影響から最後はゆっくりになる。それに最終拍は円の頂点から一番下まで落ちる拍なので、距離的には一番長くなる一方、第1拍へは、重力による加速度も加わる。

そんなことを考えていて、斎藤秀雄の古典的な書物、『指揮法教程』(音楽之友社、初版昭和31年)を読み返したら、その冒頭はまさにこの(加速・減速を伴う)円運動の提示から始まっているのだった(図)。さすがである。しかし外見的には、つまり指揮法としては、この円運動は1拍子しか示しえないので、当然のことながら、このあとこの書物では、「打点」を増やしていく方向に話が進む。円全体をたとえば1小節としてその分割を感じるといった(僕の考えているような)方向には、斎藤は議論を進めていない。

いまここでは指揮法ではなく、奏者が拍節をいかに考え、感じるかを問題にしているので、あくまでもこの一つの円の分割を考える。重力は(あるいは円運動をする物の質量は)何拍子であるかによって変動する。

先に書いたように、円の一番下の点が当然第1拍の始まりだが、一番上の点がアウフタクトの始まり。そうすると、何拍子だろうと、2拍子だろうと5拍子だろうと6拍子だろうと、この円の片側を昇っていく動きをその数(拍子の数マイナス1)で割ればいいだけだ。(たとえばドヴォルザークの「新世界」スケルツォ末尾のヴィオラの厄介な部分、八分音符6つから5連、4連、四分音符3つと移っていくところなども、この感じ方が掴めれば難しくはない。)

遅くともウィーン古典派以降、20世紀初頭までのいわゆるクラシックのメイン・レパートリーに属する音楽は、こうした拍節の上に乗っているのであって、これを均等拍でやると聴くにたえないものになる。均等拍というのは要するに1拍子でしかないので、回帰を表現することができない。均等拍で演奏されたクラシックを聴かされる者は、何度も音楽から放り出され、そのつど苦労して「乗り」なおすしかない。そんな音楽が楽しいはずがない。

均等拍を前提とした現代の多くのポピュラー音楽などでは、ではどうしているかというと、たとえばパーカッションなどのオスティナートが多用される。毎小節、同じリズムパターンを繰り返すのだ。クラシックの世界でも、伸縮する拍節感が確立する以前のバロック期までと、拍節感が失われてきた現代曲でオスティナートが多く見られる事実も、ここで辻褄が合う。

コメント / トラックバック1件

  1. 田淵 隆司 より:

    音長の伸縮による拍節感」に興味をお持ちですね

    こちらをご覧ください
    http://homepage2.nifty.com/mint-ap/kohken/study/

    日本語の音長律を、百人一首の朗詠、歌謡曲、民謡、相撲の呼び出し、物売りの声、小唄、野球の応援歌などで調べた動画です

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