そういえば、子どもの頃、どくしょかんそうぶんが大嫌いだった。それが、大学院は独文に行き、「専門」としてはいちおう「文学」を掲げていることになっているのだから、一見、皮肉だ。でも、文学の専門家が書くべきものは、幸いどくしょかんそうぶんではないのだ。先日触れた三森ゆりかさんの本を読んでいて、改めて思った。
子どもの頃、本が嫌いだったわけではない。むしろ好きで、まわりの子どもたちの中ではたくさん読んでいたほうではないかと思う。小学校の6年間、「としょいいん」をずっとやっていたような記憶もある。
しかし、たぶん小学一年生のときのこくごで、授業として学校の図書室に最初に行ったときのことではないかと思うが、何でも好きな本を選んで読めと言われ、それからその本について「かんそうぶん」を書かされたのだった。そのとき僕がうかつにも書架から抜き出してしまったのは、『たろうのおでかけ』という絵本だった。ざっと通読したが、とにかくつまらない。ぬまたせんせい(決して嫌いではなかった)からかんそうを書けと言われて困った。結局、ひたすら「つまらなかった。つまらなかった。つまらなかった。つまらなかった。つまらなかった。つまらなかった。つまらなかった。つまらなかった。つまらなかった。つまらなかった。つまらなかった。つまらなかった。つまらなかった。つまらなかった。つまらなかった。つまらなかった。つまらなかった。つまらなかった。つまらなかった。つまらなかった…」と書いて原稿用紙を埋めたのを覚えている。「かんそう」なのだから、これしかない、そう書くしかなかったのだと、いまでも、言える。
この本、とうに絶版かと思いきや、今でも手に入ることをアマゾンで確認した。上にリンクしたとおり。書名はくっきり覚えているし、たろう君がどこかにでかける話であったことは、その書名から明らかだったが、それ以上のことは何も覚えていない。このリンク先の紹介によれば、「たろうは友だちの誕生日のお祝いに、犬や猫たちと大急ぎででかけます。町の中を急ぐ様子が、守るべき交通規則を交えながら、ユーモラスに語られていきます。」ということだったのだ。
現物を読み直したわけではない。アマゾンの買い手の評によれば、「お友達のまみちゃんのおうちに早く行きたいたろう君。 そんなたろう君たちの行動が、急いでいるときこそしっかり交通ルールを守りましょうというメッセージを分かりやすく伝えてくれています。」「道を歩くときは、ふざけないで。。。。、走っちゃ駄目だよ。。。。、信号みてね。。。。、横断歩道渡ってね。。。。。。」だそうで、ストーリーとしてはいかにもつまらなさそうだ。たぶん、小学一年の僕は、そんなのあたりまえじゃんと思い、その教育臭をクサく思ったのではなかったか。同じ評によれば、「外歩きを始める最初の頃に、読んであげるといいですね。」ということで、なるほど、小学生にもなって自分で読む本ではなかったのだとも思える。
僕の「つまらなかった。つまらなかった。つまらなかった…」をぬまたせんせいがどう評価したのかは覚えていない。(そういえば、中学の頃にも同じようなことがあった。有島武郎の『小さき者へ』だったと思うが、読まされ、「感想」を書かされた。やはりひたすら罵倒の言葉を書き連ねたことと、井上先生の「よほど気に入らなかったようだ」というコメントは覚えている。)あの小学一年の時、「かんそう」ではなくて分析を要求され、その手ほどきを受けていたら、どれほど違ったことかと思う。
同僚が、大学の商学部生相手に文学の「人文演習」をやっている。何か本を選んで発表せよと言ったら、セカチューを選んできたのがいて、同僚は、「きみはムシか!」と怒ったのだそうだ。みんなが読んでいるから、光があるから、そっちにぶーんと飛んでいくムシと同じではないか、という意味だ。でも扱いようによっては面白くできるでしょ、と言うと、扱いようもなにもない、まんま「感動」してしまっているのだ、ということだった。
メディアリテラシーも糞もない。それ以前のレベル。ここまでの国語教育にかなりの問題があることは確かだ。さて、どうしたものか。
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ムシじゃなくて、シムです。
お久しぶりです。うううっ、イタっ、どくしょかんそうぶん! どっぷりと本に浸かってしまう質なので、私はいまだに感想しか書けませぬ。
うーん、どっぷり漬かることがそのままかんそうぶんにしかならないということはないと思いますけどね。
でも、ほんとに気に入った本があると、それが外国語であれば、それについてあれこれ論じるより先に日本語にしてみたいと思うのは、たぶんシムさんと同じです。