冷泉彰彦『「関係の空気」「場の空気」』

4061498444.01._OU09_PE0_SCMZZZZZZZ_.jpg冷泉彰彦『「関係の空気」 「場の空気」』

著者から送っていただいた。
これはreview というよりはそのためのメモ。

読み始めた時、まず思ったことは、あ、これは冷泉流の改訂版「共同幻想論」なのかな、ということだ。でもその話はおいておこう。

冷泉彰彦自身が、もともと言葉の人であり、「空気=言葉の省略、沈黙」とは隔たったところにいる人物だった。もともとかなり饒舌でかつ論理的な思考のできる学生が多いはずの大学の学生として彼が過ごしていたときでさえ、その点で敬して遠ざかる者が多かったのを、近くにいた僕は覚えている。

まあ、そんな暴露話にはあまり意味はないしフェアでもない。少なくとも、この本そのものの本質にかかわるものではない。著者の、自分の「きちんとした」言葉が伝わらない不幸な経験が背後にあることはおそらく間違いないが、それに対する単なる反動=ルサンチマンの領域は、本書はとうに抜け出ている。

空気とは何か。言語化されない共有情報のことかと思えばそれだけではない。使われる言葉のスタイルや語彙コーパスも含んでいるらしい。さらには「一対一の関係性そのもの」だと言われる(55)。たぶん重要なのは、「一対一」の双数的関係では貴重な役割を果たす「空気」が、3人以上の複数的関係では問題になるという腑分けだろう。それを著者は「関係の空気」「場の空気」と呼んで区別する。

「だ、である」と「です、ます」の「コードスイッチ」が、上から下への場合はうまく機能するが、逆は成り立たないという指摘は僕にとって新鮮だった(103)。
あるいは、敬語というのは権力に服従する言語ではなく、権力に抗する力をこそ持った言語なのだという指摘。これまでの敬語擁護論よりもよほど説得力があるように思われる。

もちろん、本書のこうした議論は、読者に自分自身の言葉の使い方への反省を強いる。僕自身は、たとえばこのブログでは、当初、一貫して「だ、である」だったのだが、ちょっと迷いがあって、一時期「です、ます」を試したことがあった。でもどうも身に付かない。最近は所々に「コードスイッチ」を使いつつ、また本来の「だ、である」に戻っている。(細かいことを言うと、「だ」と「である」もまた別物だと思う。いま詳論するゆとりはないが、「である」というのはほとんどの場合言わば借り物なのだ。)教師として、教室ではどうだろう? 教室では「だ」であって、コードスイッチは使っていない。少なくともそういうつもりでいる。

冷泉彰彦は「です、ます」の使用を推奨する。かつて安部公房は無表情と言われる顔は実は硬直した表情なのであって、ほんとうに無表情なのは微笑だと言った。「です、ます」とはそういう微笑のようなものかもしれない。「です、ます」を標準化してしまえという主張自体はポイントを突いているように思える。東京生まれの東京育ちで今は日本語圏の外にいる著者は触れていないが、日本各地の言語との関係でも、「です、ます」の無記性は重要な役割を演じうるだろう。が、それを実現するためには何が必要なのか、さらにその前提を追求しなければならないように感じる。

言葉のはらむミクロな政治学は、僕自身これまで関心をもって見てきたことなのだけれど、本書はそこにまた新たな視点を教えてくれた。

本書にとって本質的な瑕瑾ではないが、医者が「死亡時刻を告げる」行為(33)については、波平恵美子『いのちの文化人類学』あたりの議論も見ておいたほうがいいのではないかと思う。「死亡時刻」が一つの制度、極端な言い方をすれば医者の恣意にほかならないことは、脳死をめぐる曖昧な議論を考えても気づくことができるはずだ。

それはまあいい。とにかく、日本語と日本の「空気」にひたって生きている人ならば一読の価値のある書物だ。

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