「スロヴェニア用語の基礎知識」人名編で詩人プレシェレンに次いで出てくるべきは、建築家・都市計画者、ヨージェ・プレチニク Jože Plečnik (1872-1957)。リュブリャーナに来れば、まず間違いなく建築家プレチニクの名を耳にするし、その作品を目にしないことなどありえない。「プレチニクのリュブリャーナ」というのはすでに出来上がった一つの概念だ。

(出所)
プレシェレン広場の三本橋はいやでも目につく。そしてそこから始まる市場のアーケード。三本橋より少し上流の靴屋橋。国立・大学図書館。ジャーレの大墓地の門やいくつかの建築、僧院を改造した野外劇場のクリジャンケ。
プレチニクの作品には古典古代的な列柱や柱頭飾り、ピラミッド、球などのモチーフが繰り返し出てくる。そのエクレクティズムはポストモダンの先駆なんてレッテルを貼られてしまうのだけれど、一つのまぎれもないプレチニク様式とでも言うべきスタイルになっており、リュブリャーナの、あるいはいくつかの他の都市でも、いたるところで目にされるそれは、スロヴェニアの風景に一種の統一感を与えている。
ひと月ほど前、1月23日がプレチニクの誕生日だった。1872年のことだ。子供の頃から絵の才能を示したらしいが、家具職人だった父親は、彼が家業を継ぐことに固執した。そのため行ったグラーツの工芸学校で、プレチニクは初めて都市計画と建築にかかわりを持つことになる。新たな環状道路の計画に助手として参画することが許されたのである。
父親が亡くなって1892年、プレチニクはウィーンに行き、「ウィーン分離派」の首魁オットー・ワーグナーに師事する。ウィーンでの最初の数年は、主に建築内装と家具のデザインに集中する。家具職人的な仕事には、プレチニクは生涯を通じて立ち戻っている。不況の時代にそれで金銭を稼ぐことができたということもあったようだが、彼の建築の細部にも、このスキルとセンスが生きていることは間違いない。
プレチニクは1911年にプラハに講師として招聘される。10年間、プラハにいて、城と大統領府の修築にも関わる。初めて建築の才能を発揮する機会を与えられたわけだ。(フランツ・カフカとは黄金小路かどこかですれ違っているはずだ。プレチニクがリュブリャーナに戻った翌年、カフカは『城』を書きはじめている。)
しかしその作品、まぎれもなく見落としようもなくそこに存在しているにもかかわらず、プレチニクの死後、急速に忘れられ、再評価が始まったのは1986年にパリのポンピドゥ・センターで行われた大規模な回顧展からだったらしい。Daniela & Friedrich Köthe Slowenien のちょっと皮肉な表現によれば、それ以来、スロヴェニアでも「プレチニク多幸症」が広まった。
リュブリャーナの都市像として、プレチニクがモデルにしたのはアテネなんだと言われている。(2003年1月12日付けの Dnevnik 紙特別版、Plečnik’s Ljubljana and the function of architectural elements and details と題された無署名の記事による。)その建築に列柱や柱頭などの意匠を古代ギリシャから借りているからというだけではなくて、リュブリャーナ市内でプレチニクが関わった建造物を眺め渡してみると、全体として、古代ギリシャの都市のレパートリーを現代的に翻案したものになっているというのだ。プレチニクにとって、リュブリャーナ城はアクロポリス、ジャーレの墓地はネクロポリス、オレルのスタジアムはもちろんスタディオン、議会広場はアゴラ、市場はストイア、それに劇場。要するにギリシャの都市を都市たらしめていた要素にすべて手をかけているわけだ。
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