なぜスロヴェニア(再)

僕のスロヴェニアとのかかわりは、ペーター・ハントケからだ、と以前に書いたけれども、それ以外にも二三の偶然とそこから発した細い糸が絡み合っている。

Reiter



リュブリャーナの街で見かけた騎馬警官

88年秋から西ドイツ(当時)のボン大学に行ったとき、ドイツ語の出来が悪かったから、まずゲッティンゲンのゲーテ・インスティテュートに、夏の二ヶ月、行かされた。そこで知り合った一人に、スロヴェニア人の言語学者マルコ・Sがいた。当時、ユーゴのことなどまるで知らなかったから、彼の話も半分も理解していなかったように思うが、ユーゴスラヴィア内で対立が深まっていること、彼が編纂しているスロベニア語・アルバニア語辞書にはどうやら政治的な意味があるらしいことだけは分かった。

前に少し書いたけれども、90年の春にドブロヴニク(今のクロアチア)で哲学のセミナーがあって、そこに行く途中、まだ煤けていたリュブリャーナに立ち寄った。ユーゴ解体前、スロヴェニアの独立前のことだ。ボン・ボイエルの駅から寝台列車でウィーンへ行き、数日過ごしてそこからまた列車でリュブリャーナに入ったのではないかと思う。連絡をとってあったマルコが、ホテルは高いからやめておけと言い、一緒に観光案内所まで行って、街外れの民宿、というか、民家の部屋貸ししているのを取ってくれた。リュブリャーナ市内からその宿まではジュトンを買って乗るバスで行った(このバス用ジュトンは今でも現役である)。街の南東方向だったと思うが、正確な場所はもう覚えていない。マルコは、確かなことは分からないが、行動のしかたに、どこか官憲に睨まれているような雰囲気があった。実際、当時なんらかの活動にかかわっていたのかもしれない。

城山の下に川にそって旧市街の広がるリュブリャーナは、ザルツブルクに似ていると思った。もともと同じハプスブルク帝国に属していたのだから、似ていて当然かもしれないが、地形の使われ方まで似ている。

その時、バルカン半島最古の高層建築、ネボティチュニクの最上階のカフェ(今は閉鎖されている)に、一人で行った。三つほど向こうのテーブルに、日本人らしい女性がいて、何か書類を広げていた。僕はコーヒーを啜りながら、窓の外に見える城山を眺めていた。そのうち向こうから声をかけてきた。筑波大学のS先生で、リュブリャーナ大学で日本語に関する講演をするために来たという。筑波はその頃からリュブリャーナと縁が深かったようだ。日本語のできる学生にこれからリュブリャーナの街を案内してもらうんですけど、一緒に来ませんか。そのガイド役がバルバラだった。街のあちこちがプレチニクの設計によることは、彼女の説明で知った。まだそれほど日本語が上手なわけではなく、英語でのやりとりが多かったはずだ。

S先生の講演を、リュブリャーナの大学の恐ろしく勾配のきつい大きな階段教室で、バルバラと並んで座って聴いた。意想外に聴講者は多かった。通訳のB先生が動員したのかもしれないが、先行き不透明な崩壊直前のユーゴの中で、どこか遠い国への関わりに期待を寄せ、関心を抱くような雰囲気もあったのかもしれない。S先生の話はと言えば、日本語には近称・中称・遠称三段階のシステムがある。これ/それ/あれ、ここ/そこ/あそこなどだ。ヨーロッパの言語は一般に「ここ」と「あそこ」、「これ」と「あれ」の二段階の区別しか知らない。ところがスロベニア語には三段階の区別がある、それが日本語に似ていて面白い、大筋、そんな話だった。(言語学が専門ではないから、論評はできないが、たとえばドイツ語は、たしかにdieser/jener, hier/dortなど二段階のシステムだが、その間にきわめてあいまいな das や da があって、これは中称的にも使えるが、近称や遠称も包括しうるし、遠近の区別を離れて、単に存在を示すためにも使える。だからヨーロッパの他の言語に中称がない、というのは半分正当で半分そうではない、ぐらいのことは言えそうに思う。)

その講演の通訳をやっていたのが、リュブリャーナ大学日本語学科の主任、B先生だった。お役目の主な部分はS先生の日本語のスロヴェニア語への翻訳だったはずだが、恐ろしく流暢な日本語に舌を巻いた。こんなところに(というのはユーゴもスロヴェニアも知らなかった当時の僕の偏見が入っているが)、こんな日本語使いがいる…。まだ勉強中だったバルバラは、僕の隣で講演を聞きながら、漢字の練習の内職をやっていた。のぞき込むと、送り仮名だったか、二三、間違いがあったので訂正してあげた。

S先生とはその後数年年賀状の交換があって途絶えてしまった。マルコとはその後音信不通になった。いつだったか、クラーゲンフルト(オーストリア)のスロヴェニア語専門書店で、彼の編んだぶ厚い辞書を眼にした。バルバラには、1994年にもリュブリャーナで会った。その後、彼女は長い間筑波大で勉強していた。日本に来たばかりの頃、妹と一緒に京都を訪れた折り、僕は案内役を務めた。そして筑波で博士をとり、一年あまり前に帰国した。今回、B先生に劣らず、いろいろとお世話になっている。Najlepša hvala! どうもありがとう。

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