以前のエントリのコメントにも書いたけれど、翻訳のような作業で案外厄介なのが外来語の音訳だ。たとえばドイツ語から英語へといったように、同じアルファベット系の言語同士の翻訳であれば、訳者はもとの発音など分かっていなくても、涼しい顔をしてそのまま転記しておけばいい。(これは中国語から日本語へといったケースにもあてはまるだろう。)ところが、アルファベットを使う言語から日本語へといった、まったく文字システムの異なる言語間の翻訳では、原音を確かめて「音訳」しなければならない。(もっとも、地名などの固有名詞ですら音訳ではなく「翻訳」されることもある。つまりそれぞれの言語内部での呼び名に置き換えられる。Wien は日本語では「ウィーン」という「翻訳」が定着しているし、Köln はフランス語では cologne になってしまうし、München は英語ではMunich、イタリア語にいたっては Monaco di Baviera になってしまう。)
東西対立の全盛期(という言い方はヘンか?)、英米のミステリでは東西ドイツ(あるいはナチスドイツ)がしばしば舞台になっていた。そういう作品の翻訳を楽しく読ませていただいていた中でいつも気になっていたのが、「ストラッセ」という音訳。strasse だ。英語の street にあたるドイツ語。これは標準ドイツ語では Straße で、カナ表記としてはおそらく「シュトラーセ」が一番妥当なところだ。
「ストラッセ」と音訳したくなる気持ちは分からないではない。だが、ドイツ語の語頭に st-, sp- というパタンが来るとき、この s は例外的に単独で [ʃ] の音を表す。だからあえてカナ表記すれば「シュ」あるいは「シ」。
それはまあいい。厄介なのは、ß だ。本来 s (エス)と z (ツェット)の組み合わせ文字で、文字の名前としてはそのまま「エスツェット」と呼ばれる。これはそれ自体の音としては、ss とまったく同じ [s] だ。近年の正書法改訂以前には、ss が使われるのは、前が短母音でかつ後ろが母音である場合に限られていた。それ以外の場合は ß。正書法改訂(その行方は実はまだ不透明な部分があるのだが)以後は、後ろが母音でなくても前が短母音でありさえすれば ss が使われるようになった。つまり基本的に、ß は、前が長母音であるしるしであり、正書法改訂以後は、ますます純粋にそういう意味を持つようになっている。
実はスイスドイツ語の正書法には ß は存在せず、もともとすべて ss で表記される。タイプセットに ß を持たない英語圏でも、ß は ss で表記される。だから Straße は strasse。同じ子音の文字が二個連続する場合、たいていの言語で、前の母音は短くなる。したがって、strasse がシュトラッセにされてしまうことは十分「理解」できるのだが、元来これは ß、つまり前の母音は長いのだ。
関連してもうひとついつも気になるのが、ch の前の母音。この ch は二文字組みで〈一つの〉子音([x] または [ç])であって、二つの子音ではない。したがって、その前の母音は必ずしも短くならないのだが、その点がしばしば誤解されているように思われる。だから Buch が「ブッフ」にされていたり、hoch が「ホッホ」にされていることがしばしばだ。辞典類には、発音記号が [bu:x]、[ho:x] と記されている。つまりそれぞれの母音は明確に長母音として扱われているのだ。
問題はおそらく、「子音二つの前の母音は短い」という原則の曖昧さにある。子音二つとは、子音文字二つなのか、それとも子音の音そのもの二つなのか。ß と ss による区別は、文字の数を利用した区別だと言っていいだろう。ところが、ch の場合は、文字数の問題ではない。
日本語の長母音とドイツ語の長母音は長さをとっても性質が異なるように思われる。日本語の長母音は二音節分だと言ってほぼよさそうだが、ドイツ語の長母音の長さは、感覚としては1.5音節ぐらいだ。これにはアクセントの性質の違いも絡んでいる。したがって、所詮カナによる音訳は原音を表せるわけではなし、Straße の音訳が「シュトラセ」であろうと「シュトラーセ」であろうと、Buch の音訳が「ブフ」であろうと「ブーフ」であろうといいようなものだが、「シュトラッセ」「ブッフ」という促音表記だけは明らかな誤解をはらんでいる。
所詮カナによる音訳は原音を表せるわけではない、と言ったけれど、しかし本当はこう言うべきだろう、「文字は音を表さない」と。文字に音を見出すことができるのは、すでにその音を知っている者だけだ…。
ま、とにかく、「ストラッセ」だの「ブッフ」だの「ホッホ」だの書かれると、僕自身はとっても気持ちが悪いのだ。
# いや、実を言うと僕自身、以前にやった翻訳(ドイツ語からの)の中で、スロヴェニア語の地名の音訳でたくさんミスを犯している…。
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そうなんですね。スイスのドイツ語表記では Strasse、stossen とやっている。
だけど連中は「シュトラーセ」「シュトーセン」と発音しています。
どうやって母音の長さを区別しているのだろうと常々不思議には思っている
のですが。
やはり、音を知っているから文字による区別の必要がない、ということなのか。
そういうことなんでしょうね。漢字みたいな文字を使っていると、文字を意識しながらしゃべるということはよくあるし、文字を媒介に語彙を習得していく部分がある。でもアルファベットの連中は、そういうことはどちらかというと稀なのではないでしょうか。
母音の長さに関係ない話だけど、
ドイツではドアの「押す」を Drücken と表示していますが、
スイスだと Stossen なんですね。
前者だとプレスする、ってな感じがするけど、
後者だと、どんと「ぶつかる」ってな感じになるんでしょうか。
ドイツ人の義弟がスイスで Stossen を見て、ヘンな感じがする、
と言っていました。
いいじゃねぇか別に、と思ったけど。
そうですねえ、標準ドイツ語の人間としては(笑)、stoßen だと(stossen なら余計に?)とん、っと押すような感じがしますね。あるいはどん、か。drücken だとぐーっと押す感じがする。逆にスイス人にとっては、drücken は押し「つぶす」感覚が強いのかなと推測しますが、どうでしょう?
関係ないけど、スロヴェニアに行き始めた頃、この「押す」「引く」すら分からなくて、何度引くべきドアを一生懸命 drücken したことか。