管楽器にブレス(呼吸)が重要なことは誰にでも明らかだ。だが弦楽器にとっても、まともに「音楽」をするためにはブレスが重要なことに変わりはない。…はずなのだが、弦楽器のブレスについてのまとまった言説を見たことがない。きっと個々の弦楽器教師のなかには、そういうことをきちんと教えている人もいると思うのだが、それについての言葉はほとんど流通していないように思える。ヴァイオリン奏法についての本はたくさん出ているけれど、呼吸についてまとまった記述のあるものはほとんど見たことがない。例外は Herbert Whone “The Simplicity of Playing the Violin”。その第18章は、The Role of Breathing と題されていて、多くのヒントを含んではいる。(これはすでに日本語版が出ている。『ヴァイオリン演奏のコツ』)とはいえ、たった3ページであり、システマティックに何かを明らかにするには到っていない。古くは『メニューイン/ヴァイオリン奏法』がのっけからヨガに触れているけれども、実際の演奏の呼吸には繋がってはいない。もともと出来ている人が自分のコンディションを整えるためにヨガをやっているだけのことだからだろう。
この手の問題で、いつも一番参考になるのは、実際のすぐれた演奏だ。呼吸ではないけれども、かつてアルバン・ベルク四重奏団が来日して原宿でやったサロンコンサートがTV放送されたとき、録画して、画面で分かるかぎりの四人ののボーイングをスコアに書き取ってみたことがある。これはものすごく勉強になった。特にモーツァルトでの弓の使い方が少しは分かったような気がしたものだ。
それより前、ヘンリク・シェリングのやはり来日公演のブラームスのソナタ第1番がFMでオンエアされたことがあった。ピアノが少々弱かったけれども、未だにレコードでも CD でも、この曲のこれ以上の演奏は聴いたことがない。(デビュー直後のシェリングがルービンシュタインと入れた録音はあるが、これはシェリング最悪の出来だ。)このFMで放送された録音、シェリングの鼻息がはっきり聴き取れた。で、そのブレスの位置を譜面に書き込んでいった。
東京で学生をやっていたころ、とにかく欧米の弦楽四重奏団の来日公演は片っ端から聴きにいった。音響やバランスがどうのというより、彼らの文字通りの「息づかい」を捕まえたくて、客席の最前列に席を取ることも多かった。一番鼻息がはっきり聴き取れたのはボロディン四重奏団だっただろうか。アウフタクトで入るところでも、その直前に吸っている息がはっきり聴き取れた。
弦楽器の素朴な感覚としては、アウフタクトはアップボウで息を吸い、いわばオン・ビートのところではダウンボウで息を吐くという感覚がある。それだけの感覚でも、ないよりはマシだが、そういう感覚しかなかったとき、管楽器(いや、そもそも歌手だってそうだ)というものが不思議でしかたなかった。彼らは息を吐かない限り音は出せない。アウフタクトの音符でも息を吐いているというのが不思議に思えたのだ。
それが、ダウンで吸い、アップで吐くこともできるようになったとき、自分の表現力が格段に広がったような気がしたものだ。それができるようになったのは、一種の呼吸訓練を記した『「借力」の奇跡』なる本に書かれたトレーニングをやって後だ。なんだかスーパーマンにでもなれそうな売り文句のこの本、その真偽はともかく、基本はヨガ的な腹式呼吸の訓練だ。かつて初めてドイツ暮らしを始めた直前に見つけて持っていき、これに従ったトレーニングを日課にしていた。基本的に腹式呼吸の訓練だから、初めて大幅に環境の異なるところで生活していくうえでの精神的な安定を得る上でも役に立ったのだが、そういうことをやっているうちに、いつのまにか、ヴァイオリンを弾くときも、ダウンで吸い、アップで吐くこともできるようになっていた。
ちょっといかがわしい感じの本だったが、最近出てきた「アレクサンダー・テクニーク」系のバーバラ・コナブルの『音楽家ならだれでも知っておきたい「呼吸」のこと―美しく豊かな歌声のために』などに案外近いものがあったように思う。
話を戻すと、弦楽四重奏のようなアンサンブルの場合、呼吸は一種のアインザッツとして、文字通りメンバーの「息を合わせる」ために重要な役割を果たしている。しかしソロであっても、そもそも呼吸が確かでなければ、音楽、その拍節は成り立たない。
日本でもドイツでも、まともな演奏家なら、弦楽器でも的確な呼吸をしている。その後、日本のいくつかのアマオケでコンマスをやったとき、練習で後ろに向かって、「息をしろ、息をしないと死ぬぞー」と何度叫んだことか。冗談ではない。普通息をすることを完全に忘れる人間は(よほど死に近づいたり特殊な病気だったりしないかぎり)いないだろうが、音楽とともに呼吸することができなければ、音楽は確実に死ぬ。特にコンマスの呼吸がなっていなければコンマスの役割を果たせないし、指揮者になりたい人で、呼吸が音楽に伴っていなければ致命的だ。
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